紙の本
映画「地獄の黙示録特別完全版」では、銃撃シーンよりも密林奥地への探索行が印象強いとか…。あの映画の原案になったということで読んでみたが、まさに闇の奥に分け入るような難解さ。
2002/03/05 11:07
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
『地獄の黙示録』の原案だと聞いていたので、インドシナの奥地を描いた冒険小説だとずっと思っていたのだけれど、舞台はアフリカ奥地であった。コンラッドといえば英国作家なのだから、植民地支配の勢力地図をよく考えれば、確かにインドシナであるはずがない…と合点がいく。
しかし、コンラッドは作家としてのペンネームで、もとは生粋のポーランド人。1857年に彼が生まれたとき、列強に分割された故国ポーランドは地図上に存在しない国なのであった。巻末の作家小伝をさらに抜粋すれば、コンラッドの父は英仏文学の訳書を手がけるインテリで、暮らしは貴族的であったとか。だが、その父が独立運動に参加して北ロシアに流刑、家族も強制移住。孤児となったコンラッドは親戚に引き取られ、17歳で船乗りとなる。冒険小説家コンラッドのバックボーンに納得する。でも、この『闇の奥』の難解さが、インテリの血筋によるものなのか、言語的な問題なのか何なのかは判然としない。
本文は160ページ弱の中篇なのである。2時間ぐらいあれば読めそうな気がしていた。が、60ページぐらいまで読んだところで中座を余儀なくされた私は、次に手にしたとき、中身がよくつかめておらず頭が空っぽなのに気がついた。そこで、もう一度集中力を高めながら最初から読み返してみることにした。
船乗りというのは船が家ゆえ、案外出不精なたちらしい。ところが、この物語の語り手であるマーロウは漂浪を好む船乗りで、アフリカの地図上に広がる空白(探検隊の未踏の地)に疼くようなあこがれを感じていた。コネを頼って貿易会社を訪ね、アフリカ奥地の川を航行する三文蒸汽船の船長に就いた。
乗り込んだアフリカで、マーロウはクルツという男が失踪したという話を聞く。奥も奥も一番の端っこの出張所を預かっていたクルツは、腕ききの象牙トレーダーで、原住民から相当量の象牙を入手し、基地に送り込んでいたのだが、音信を絶ったという。さらに川を遡っていくマーロウだったが、肝心の自分の職場となる船は、なぜか沈んでしまったということを知らされる…。
物語はむしろシンプルで、得体の知れない密林の奥へ奥へと、クルツなる人物に吸い寄せられるようにして主人公が探索をしていく…というだけのことである。何が難解かというと、たとえばある状態のマーロウの心理を描写するのに書かれている暗喩とか抽象的な概念とか、観念的な表現を読み解いていくのに時間がかかるのである。つまり、行間やら作家の世界やらに分け入るのに難儀する。
闇の奥というのは、暗黒大陸の奥地のほかに心理的内面的世界という処女地をも指しているという訳者のガイドがあったが、小説という闇の奥を、ゆっくり慎重に筏で遡行していくような気分が襲いかかってきた。それはまさしく、映画「地獄の黙示録」で味わったあの感じなのである。小説の結びの数行が、この遡行の行く末を象徴しているようであった。短い文章だが、クルツという人物のように圧倒的な存在感ある作品だと思えた。
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暗黒の中心部へ
2005/02/16 22:43
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
自然と闘う姿というのは一つの分かりやすい形だろうが、文明、社会、あるいは自分とは別個の1人の人間に対してでも、闘う、あるいは征服するということだけで他のすべてを投げうってしまえるだけの動機足り得る。それが人間の中に棲む魔物の正体だ。とりわけ社会、人間を相手にする場合の欲求こそは、人間が高度な社会を形成する原動力であり、これがあるからこそ人間を人間たり得させているのではないだろうか。
語り手である英国人船乗りは地図上の空白と呼び、また暗黒大陸とも言われたアフリカや、あるいはインド、清教徒にとっての新大陸なども、征服に足る巨大な獲物と言っていいだろう。船乗りと言う職業もまた海という強大な自然と闘う者であり、その欲望の存在には感を得やすいところに立っていた故に、この物語を発見できたのだと思う。
語る側の男は、パリにある交易会社、無論その実はビジネスと称して象牙その他の植民地からの収奪を目的としていた、その持ち物である蒸気船の船長としてコンゴ川を上流に数百マイル遡る。その「交易」の論理に正当性を認めることが19世紀末のヨーロッパ社会でまっとうな人間として認められる道であったわけだが、語られる男=クルツは、それからまったく独立して直感に従い、衝動を解放させるという方法でその地に自分の地歩を築くことができた。その欲望は、単なる未開地の開拓でなく、原住民社会の存在の上でより一層の魅力を放っていたはずだ。それをヨーロッパの論理で説明しようとすれば、既にそこが漆黒の闇であり、密林の広がりと同じに果てしない謎となる。
語り手=作者はそこに闇の存在を確かに嗅ぎ付けた。
現代においてはこの闇のメカニズムはよく知られていると思うが、それでも相変わらず「心の闇」とだけ称して説明を拒もうとする態度が多く見られるのは、果たして文学者の怠慢なのだろうか。
ポーランド生まれの作者による英語のせいか訳文のせいか、とにかく読みづらいのだが、気分の乗り方次第で気楽に読み継いだらいい本だと思う。
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わたしはこれが好きだ・・・とか、こういう傾向のものが・・・というのが「わたし」を知らない人にとって何の意味があるというのか。かといって、誰か有名な誰かが何かを言ったとか引用する気はさらさらにない。書評なんて自己矛盾的に、永久機関が動くはずがないようにそこに無駄にあるだけだろう。私はそういうわけで直感しか信じないが、一生の何処まで「気」が殺がれずにあるかワカラナイのでなるべくいいものに出会いたいなと儚い希望は捨てないで行こうと思っている。コンラッドと共に行けた闇の奥は運のいい場所であった。
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居場所を喪失した上流貴族の、植民地主義を利用した自己優位権力確認のハナシ。西洋近代的理想自我を自明として完全知に魅せられ、おそらくはそれに駆り立てられ、未知=「闇」を支配しようとしてコンゴ奥地に入り込むが、その自明の存立基盤すら成り立たない「未開」の「闇」に飲み込まれたまま、ひたすら己の超越力と意志の悪夢にしがみついて、じっと死を待っている畏怖。
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やっぱりヴィクトリア文学の妙なエンタメ性は好かないなぁと思います。
人種差別的とかポストコロニアルの幕開けとかそういう瑣末な後付はまぁいい、でもこの本に描かれる闇とは端的に言ってしまえば、
特異な環境におかれた人間が容易に変わってしまうってこと。
なんとなく、想起するものが俗っぽいけど、
カイジとかSAWとか、そういうものと、重奏低音は同じな気がする。
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闇は反転して、光と思われていた西欧文明がその奥に立ち現れて来る。闇の奥とは暗黒大陸アフリカのことではなく、西欧植民地主義なのだ。マーロウの地獄巡りとクルツの死のメタファーが面白い。コッポラによって換骨奪胎され「地獄の黙示録」となった。
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「羊をめぐる冒険」が「地獄の黙示録」をベースに書かれたとされ、「地獄の黙示録」はこの「闇の奥」を基にして制作さられたといわれます。それを知った上で、もう一度「羊〜」を読むと、主人公が「闇の奥」を読むシーンが描かれていることに気が付きます。
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「英語で書かれた20世紀のベスト100」に選出されているそうだけど、
これを★4とか5に評価したら
それは見栄を張ることになってしまうので正直に★3。
『地獄の黙示録』がこれを元に作られたとは知らなかった。
なるほど。
さらに『羊をめぐる冒険』が『地獄の黙示録』をもとに書かれ
中に『闇の奥』が出てくるって?
ふーむ。
読んでいて気持ちが暗くなる。
コンラッドの実体験を元にしたと言うのだからなおさらである。
舞台は植民地時代だが、
登場する白人達と今の自分たちには
もしかしたら大きな違いはないのかもしれない。
ちゃんと理解しているか自信は全くないのだけど、
暫くつきあわねばならない本なので、
再読を試みたい。
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19世紀,諸西洋籍の船舶(作品ではフランス)が“未開の地”アフリカへ渡り起こった『象牙』に纏わる出来事たち.
教科書に載った「事実」とは別の観点から眺めることで,当世の彼ら西洋人の高慢,貪婪,凶暴,盲目さが何より現実味を帯びて感じられる.
語り部のマーロウの口上は情緒に溢れ,一人の人間の感情と自意識が鮮やかに伝わってくる.彼の言動,苦悩は――私たちにはまず経験しえない,世にも哀しい侵略に向かう船上での物語だとしても――純然たる現実として,感情の深淵に強く訴えかけてくる.その愚かな高慢さまでも,我々に共感を呼ぶ不思議.
つまり私たちは誰でもマーロウになりうる.アフリカという原始の闇の世界,そして,人心の奥底に潜む闇は,21世紀の我々に対しても強い共感と教訓を投げかけてやまない.
どう見ても誤訳な瞬間も見受けられるが,訳者あとがきの腰の低さには噴く.
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レポートのために読んだ本。オリエンタリズムやポストコロニアリズムの文脈で語られるけれど、思ったよりも直接的な批判ってしてないのね。アフリカの人達を土人とか言ってるし。
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舞台は1890年代のアフリカ。
船乗りマーロウはアフリカ奥地に出張所を持つイギリスの貿易会社に就職する。
最奥部の出張所を預かる、腕ききの象牙採集人クルツが病に伏しているという噂が流れ、マーロウはクルツの迎えに赴く…。
この小説はアフリカから戻ったマーロウが仲間の船乗りである「私」に語ってきかせる、というかたちで進められる。
クルツの存在も常に伝聞・噂のかたちを取ってあらわれる。
人から人へ語り伝えられ、そのイメージはふくらみ、ゆがみながら変化していく。
クルツの言葉はマーロウによる翻訳と解釈を経て読者に届く。
クルツ自身は切れ切れのイメージを作品の各部に浮遊させながらも、自身は空白、意味づけのできないものとしてテクストの「闇」の部分を担っているのではないか。
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全体としては曖昧模糊とした印象が拭いきれない。
それは独白の形で伝えられるエピソードが、きちんと話の流れに沿っているようで突如として挟まれる挿話のために、理路整然と物語を構築することを妨げているからのように思うのだけれども、それがこの小説の妙な味になっている。はっきりと確実なことは独白者の経験として語られるだけで、最重要人物であり、おそらく飛んでもない人物でもあるクルツの話は、伝聞の形でしか語られない。
だが、クルツの最期の言葉が妙に印象的に感じられるのも、こうした手法を採ったからだろう。
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「闇」は結局アフリカに限らず、どこにでもあるものだが、その「奥」まで見て来たことがあるような人間は一握りしかいないのだろう。
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かなり乱暴にまとめると「ある船乗りのアフリカ思い出話」になると思うのですが、読後には重苦しさと、言葉にできない感情が残りました。それを無理矢理文章にするとしたら、的外れかもしれませんが今のところ「人間とは本来、自然の一部であったのに、いつしか文明や経済という実体のない物に支配され不自然な存在となってしまった。かといって原始的な生活は、今の人類には恐怖や荒廃という闇でしかなく、狂気である。もう戻ることはできない」という文明批判と焦燥でしょうか。この作品は、時間を置いて再読する必要があると感じました。
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F・コッポラの映画の原作として興味を持ち、オーソン・ウェルズも映画化を企画していたと知り手に取った。
人物・言葉・風景、どれも霧がかかったように曖昧としており、読後には何とも言えないもやもやが残る。
誰もが一目を置いた男クルツは未開の密林の奥に踏み込み、その闇にのまれた。
彼の考えも、彼の言葉も、私にはいまいち読み切れなかった。ふと霧が晴れたようにクルツの輪郭が感じられる場面もあった。もう一度読み直せば更に鮮明になるかもしれないと思う一方で、闇の中ではっきり見える事はない。何度読んでも変わらない。そうも感じた。