血みどろの苦悶。
2002/07/31 22:04
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投稿者:凛珠 - この投稿者のレビュー一覧を見る
物語は冲也と、彼の音楽で何かが変わったという女、おけいの視点で進んでゆく。おけいは色事で包まれた半生を送ってきた女だが、冲也とその関係になることは無かった。二人は前世で一人の人間だったのだろうと確信する。兄妹のような関係だが、それは夫婦よりも強い関係ではないのか。実際、おけいは冲也の妻お京よりも、冲也に対して親身だった。だが、お京も悪い女ではない。冲也の姿はとにかく痛々しい。その痛々しさゆえに、冲也に奇妙に惹かれてしまうという感覚は、私という読者だけではあるまい。特に女性は。
多くの人々に愛され、その人の心にまで影響を与えるような優れた端唄を作りながらも、冲也はそれを否定した。だが、端唄が悪くて浄瑠璃が正しいということがあろうか。人々に愛される端唄を自分から全否定したところに、冲也の過ちがあったのだ。勿論、浄瑠璃を目指すことが悪いことではないが、端唄を否定することは無かった。冲也には浄瑠璃の才能があったのかどうかも分からない。結局、彼は血みどろの苦痛にのたうちながらも、何も為すことは出来なかった。
山本周五郎はこの作品で「人間の真価は何を為したかではなく、何を為そうとしたかだ」という考えを証明したという。その考えには、「マラソンで幾らトップを保持していても、ゴールの1メートル前で倒れてしまえば何にもならない」という反論が上がるだろう。だが、何を為そうとしたかという姿勢が評価されれば、決してその姿勢は無駄ではないと思う。
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冲也ぶしを結局完成させないまま人生を終えるなんて虚空遍歴,とはよく考えたタイトルだ。言い訳がましくて共感できない部分が多かった。大好きな周五郎に初めて不満を持った。読み方が浅いのかなぁ。
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おけいは一歩間違えればストーカー。
矢島濤石はツンデレ。
そして中藤沖也は作者の
不器用で頑固な部分を
表しているように感じた。
中藤が死を意識したときのセリフ
(「―もしも死ぬとしたら、少しでも仕事を
進めておかなくてはならない」)は
作者自身が亡くなる前の気持ちを
表現しているように思える。
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どうしてこうなった…
人間誰しも独りぼっちかもしれないが、それに気付かず一生を終えることだって出来ただろうに…そんな環境におったじゃないですかー
どうにか軌道修正できるように願っているのに、まったく思い通りに行かない、持ち直したかと思えばガクンと落っこちる、その繰り返しがリアルで、冲也に身近な人を重ねてしまった。
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主人公の視点に立てば立つほど、哀しさや虚しさでいっぱいになって読むのに精神力がいる内容。個人的には、主人公沖也の奥さんのお京さんのものの考え方が一番共感できた。
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著者:山本周五郎(1903-1967、大月市、小説家)
解説:奥野健男(1926-1997、東京、文芸評論家)
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正直、最後まで読み切るのに辛くって息苦しい作品でした。それがこの作品の完成度の高さを物語っています。 「人間の価値はなにを為したかではなく、何を為そうとしたかだ」 この作品のテーマそして内容を凝縮した言葉であります。 浄瑠璃の世界を語っていますがが、現代の私たちにも当てはまる普遍的な内容だと思います。 司馬遼太郎の作品に出てくる実在し何かを成し遂げた立志伝中の人物ではなく、何かを成し遂げようと必死にもがきながら生きた人物を描いた本作は“人生なにもかも上手く行くものじゃない”と言うことを知っている大半の読者の心をつかむのは容易であるはずである。人生信念を持って生きても上手くいくとは限りません。 ただ2人の女性から深く愛された主人公は幸せだなと一男性読者として羨ましい気持ちは強く残りました。 とりわけおけいって本当に幸せだったのかなと少し気の毒な気もしたのですがそのあたり女性読者の意見を聞いてみたいと思います。 私的には沖也の理解者としては妻のお京よりもおけいの方が優れていたように思います。 おけいの独白を通して読者である私たちはより正確に沖也の人としての“弱さ”、そして“苦悩”を知ります。 だから沖也の人生に悔いはなかったでしょう、それはおけいという存在がとてつもなく大きかったからだと思います。 前述した司馬作品のように読者に夢を与えてくれる作品ではないかもしれません、しかしながら“人生観”に関しては死と言う最後の儀式も含めてかなり内容濃く語られていていつまでも読者の胸に残る傑作であることは間違いのないところだと思います。 最後に主人公の沖也の浄瑠璃に傾けたすさまじい情熱は大衆文学に傾けた周五郎の情熱を彷彿させるものだったということを書き留めておきたいと思います。
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主人公中藤冲也は、結局新しい浄瑠璃を仕上げる、という大望を果たせず、気力を使い切り、世を去る。
冲也は失敗したのか、その人生は無意味だったのか、
果たして、世に名を残すことが人生の意味なのか。
そうではない。冲也は生きることを全うした。
そして、その価値は誰にも分からない。自分にしか分からない。
作中では、それをおけいというもう一人の自分の目線から語っている。
人生とはそういうもの。
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「人間の真価は、その人が死んだとき、なにを為したかで決まるのではなく、彼が生きていたとき、なにを為そうとしたか−である」と言うのが、作者の人生観だそうだが、まさにそれを現した作品であると思った。
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これは辛い小説だなぁ。
主人公の中藤冲也は武士の身分を捨て、浄瑠璃という芸の世界に生きることを選ぶ。
彼の作る端唄は独特の節まわしを持ち江戸のみならず、遠国でも持て囃されるような才能の持ち主であったが、それに奢ることなく冲也節という新たな芸術の完成だけに専念する。
これと決めた道に突き進む人生。成し遂げるべき仕事を見定めた覚悟。すさまじい気迫で生きる男の生きざまを描いたお話。です。
非常に辛く、あまりに辛いんだけど引き込まれる話だった。
この強烈な読後感はどこから来るんだろう。
結論から言ってしまえば、このお話はハッピーエンドの物語ではない。苦労の末に念願の冲也節を打ちたて、努力は報われるという話ではない。
かと言ってただひたすらに報われない悲惨な話というわけでももちろんない。
報われないのは確かに報われないんだ。
上下巻で約800ページもの間、なぜこんなに厳しい人生を描くことができるんだと、特に下巻では徐々に壊れていく冲也を見ていくのが辛くなってくる。
ただ、じゃあ彼の人生は失敗だったのかというと、そうじゃないんだろう。
もちろん客観的に芸術家として成功者かといえばそれは誰の目にも明らかに失敗者なのだけど、でもじゃあ彼が仮にそれを知ったからといって違う道を選ぶかと言ったら違うだろう。例え知った上で生き直しをしたところで、同じ道を選ぶんだろう。
冲也は後悔していない。その意味で彼の人生は報われなかった訳ではない。
むしろ、人生において「報われない」とはなんだろう。
人間の真価はなにを為したかではなく、何を為そうとしたかだ、という紹介の言葉もあるけれど、
だとしたら明らかに何かを為そうとした彼は、「彼自身によって報いる」という生き方だったんだろう。
そういうメッセージは確かに受け取る。
それはすごくカッコイイことだ。
そんな風に生きれたらいいなとも思う。
けどやっぱりそれ以上に辛さが来る。
がんばっても報われないのはやっぱりキツいだろ、とか
自分のしたことを人に認めてもらいたいとか、
はっきりした成果じゃなくてもせめて光明は見失いたくないとか、
光明さえも見失うとしたらいったい何が間違っていたのか、とか。
そう、一体何を間違っていたんだろう。
冲也はどうしたら成功できたのか。
成功とは言わずともあれほどまでに辛い生き様を辿らずに済む方法はあったのではないか。
そもそものところ自分の才能というものを見誤ったのか。
自分の力でできることを見据え、その範囲でできることを見据え、せめてそうしてから動くべきだったのか。
自分の端唄を嫌悪することなく、その実を見つめることからスタートすればまだ違ったのか。
それとも、どんな才能があろうとも、自分一人の力というものに拘りすぎたのか。
何かを為すには誰も独りの力ではできない。
才能や技術といった面だけでなく、人間関係、経済など様々なものに関わりを持たねばならなくて、そこを割���切ったり謙虚に受け止められなかったのがいけないのか。
などと、どうしていれば良かったのか、とついつい考えてしまうのだけど、
そんなことに大した意味はないんだろう。きっと彼はどうしたって同じように生きたんだろう、と。そういう部分が読者にとっては辛いし、もどかしい。そしてそうでありながら同時に憧れもすれば、自分の生活を顧みざるをえないような気持ちになる部分でもある。
と、そんな風に冲也の超人的な意思の強さに息苦しさだけでなく、引き込まれるものを感じるのは、彼に寄り添い彼を見守るおけいさんの力でしょう。
作中、冲也に対して唯一無二の理解を示し、彼に通じる特別な人物として描かれているが、彼女はその一方で読者に通じた姿でもあり、読者の気持ちを代弁してくれる存在でもある。彼女が思い遣る視線や立ち居振る舞いがあるからこそ、一層冲也の生き方が辛さにおいて引き立つ。理解者でありながら、常識的で温かい感情の目線を与えることで、一層その厳しい生き様は侵しがたく魅力的なものになる。
読者の仮の姿であるからこそ、知人たちにいくら訝られても恋仲にはなりえないし、冲也の死後に後追いをしたりもしない。終わりの独白の置いてけぼり感というか呆然とした感じはまさに読者の気持ちに近いでしょう。
さて、この小説は周五郎の長編の中でも大きな作品で、「樅ノ木は残った」「ながい坂」と並んで3大長編とされる作品です。ながい坂を読んだ時も大きな衝撃を受けて、これは最高傑作だな、と感じたんですが、この作品はまた違った大きな衝撃を受けました。この読後感は忘れられそうにないですね。
きっと樅の木もまた別の衝撃を与えてくれるんでしょう。今から楽しみです。
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長年の懸案であった、山本周五郎の長編三部作の最後の一つをやっつけた。義と倫理の『樅の木は残った』、天命の『ながい坂』は、とうに(はるか30年以上も前に)読んだのであったが、芸事の『虚空遍歴』は、今までとってあったのだ。ただ読むと、芸に入れ込んだ浄瑠璃師の、身を摺り込んでいく姿の描写。しかし、全体としてたちのぼってくる背筋の伸びるような感覚は、山周である。
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「人間のすることでむだ骨折りだということはなに一つないと思います。」おけい
「死ぬことはこの世から消えてなくなることではなく、その人間が生きていた、という事実を証明するものなのだ、死は、人間の一生にしめ括りをつけ、その生涯を完成させるものだ、消滅ではなく完成だ」中也
解説を見ると、山本周五郎自身を表現しているのではとのこと。
世間の評価と自分の評価が合わないときの可笑しさ、悲しさを味わえる。
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最後まで読むことに苦痛を感じるほど。
でも、読後感は悪くない。
芸術を生み出す人間でなくて良かったという思いです。