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泉という、女性の人生を回りのひとのインタビューで浮き彫りにしていく。誰からも否定されることはなくても、誰からも心底もとめられることがなかった。泉が感じる幸せのかたちは? 母との確執は女なら何かしら持っているものの気がする。が、泉の人格の核となる、その人生を縛ってしまう理不尽な存在。祈りの言葉をみると悲しく切ない幕切れ。後書きの葉書に救われた。
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第143回直木賞候補作。
(同じ回に天地明察や小さいおうちがあり、直木賞は小さいおうちが受賞)
タイトルと内容が乖離していると物議を醸した。
(まぁ北方謙三が勝手に言ってただけだが)
文庫本だと後書きに姫野カオルコの説明(反論)が載っていて非常に面白い。
また好き嫌いがハッキリするのもこの作品の特徴。(ちなみに選考委員の宮部みゆきは本作がイチオシだった)
この作品のどこが“シンデレラ”なのか、捉えられれば感ずるものは大きい。
女性と男性で感じ方も違うんだろうな。
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読んでみて、いや、読み始めてすぐに
「これは好きな感じ」と夢中になりました
泉(セン)ちゃんの小さな頃の不遇には
いたたまれない思いをしたりしながらも
その考え方、受け止め方に、心が震えました
そして、ずっと心を震わせ、静かに読み終えました
がっかりすることは、正直に生きている者には
必ずあるから、そのときは、気配を消せばいい
泉(セン)ちゃんの周りにいた人たちの
告白を元に作られた小説ですが
周りの人たちの、傲慢さも優しさもみんなみんな
一生懸命に生きているからだと思える
ただ、どうしても泉(セン)ちゃんがいじらしくて
仕方がない気持ちを捨てきれないわたしは傲慢だ
だって、泉(セン)ちゃんは、とても幸せなんだから
いまは、何をしているのだろう
どこかで静かに笑っている筈だと信じている
すごく思い入れてしまう小説に出会ってしまいました
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直木賞で話題になったので手にとってみた。
最初に出てくる、シンデレラの解釈が面白くて読んでみよう!となり購入。
人の幸せや生き甲斐について、
価値観が違う人同士の共存について、
考えさせられた。
「シンデレラ」は一般的にはわかりやすいサクセスストーリーで、誰もが羨むものを手にしたってされているけれど、
その彼女自身の価値観はどこでできたのか。
なんのために生きるのか、本当に人それぞれで
他の人の価値観に左右されないそれを見つけられた人こそ
本当に幸せといえるのだろう。
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本読みの友より「姫野カオルコの『リアル・シンデレラ』読んでー!」と便りが届く。姫野本はけっこう読んでるつもりだったが、これは読んでなかった。図書館には単行本しかなかったし、読んだあとは誰かにまわそうという算段で、本屋で文庫本を買ってきて読む。
姫野カオルコには、いろんな芸風の作品があるが、これは『昭和の犬』系だと思った。周りの人を描くことで、主人公の泉(せん)ちゃんという人が浮かび上がってくるかんじ。
友は「シンデレラ」というタイトルから、主人公の泉(せん)ちゃんを、どういうふうにシアワセにしていくのだろう?と思っていたそうだ。「シンデレラ」というタイトルの意味も考えてしまったという。読んでいるうちに、自分の想像をあちこちひっくりかえされて、「うぉー!こうきたか!の連続だった」と便りには書いてあった。
私は、すでに読んでて、けっこう好もしいと思う作家の場合、その名前だけで本を選んだりもするので、タイトルがどうのとはあまり考えないなーと思った。(『昭和の犬』は、表紙に犬がうつっていたので「この犬の話か?」とは思ったが)
「シンデレラ」というタイトルに読者が縛られてしまうことによる誤解のようなものについて、姫野自身が文庫のうしろのあとがきで書いている。
▼『リアル・シンデレラ』はアレゴリーです。…(略)…「シンデレラ」は「幸福」の寓意として扱いました。ところが〈童話シンデレラ〉のストーリーに頑ななまでにこだわる(固執する)直木賞選評があり、かかる固執を予想だにしなかった私は、正直言ってびっくりしました。無粋ながらくりかえします。『リアル・シンデレラ』の「シンデレラ」は、幸福や善や美や豊かさの寓意です。(p.429)
私が「シンデレラ」のことを考えていたのは、小説の冒頭で、矢作さんが「筆者」に、幸せっていうのは泉(せん)ちゃんみたいな人生だと思う…云々というあたりだけで、あとは「シンデレラ」がどうのとは全く考えずに読んでいた。でも、友の便りを読んで、「シンデレラ」とは、姫野自身もそこまでと思っていなかったほど、聞いた人の考えに「こうだ」と枠をはめる強い言葉なんやなーと思った。
矢作さんは、「シンデレラ」というのが女性の幸せとか成功という意味になっている("現代のシンデレラ"みたいなコピーも、そういえばある)ことに、違うんじゃね?だってこの人幸せになりそうにないよと思っていた。そこがたぶんタイトルに関係あるのだろう。
ほんとうに幸せなもの、善きもの、それは、継母や姉妹と張り合うような価値観ではなくて、ぜんぜん違うんじゃないの? 泉(せん)ちゃんみたいなのが幸せで豊かなんじゃないの? こっちこそがホンマのシンデレラだろう、というのが、姫野のいう寓意なのだろう。
小説は、"豊かさと幸福"をテーマに、泉(せん)ちゃんの取材をして、「筆者」が長編ノンフィクションを書いた、という体裁になっている。
前半は、泉(せん)ちゃんと一つ違いの妹・深芳(みよし)の話に、みょうに近しさを感じ、子どものころの妹との関係をいろいろ思い出したりした。���ふつうは、こう考えるでしょ、こうするでしょ」という人物像とは、まったく違う反応をする泉(せん)ちゃんに、私はそこはかとなく親近感をおぼえ、それは私が子どもの頃からしょっちゅう「変」「おかしい」「変わってる」と言われてきたからかなと思った。そして、泉(せん)ちゃんの周りの人の言動を読みながら、人のことを「変わってる」と言う人のきもちが、ちょっと分かった気がした。
「人生なんて、後になればみんな、なるほどねえってものだけれど、そのさなかには先のことなんかわかりゃしないでしょう」(p.45)と、泉(せん)ちゃんのことを思い出して語る人が言う。
泉(せん)ちゃんは、《自分の周りにいる自分じゃない人にいいことがあったら、自分もうれしくなれるようにしてください》(p.422)と願った。人の幸せを、わがことのように感じられるよう、喜べるようにと願った。その祈りが、私のことも照らしてくれたらと思う。
(3/12了)
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お気に入りの作家ですし、作品の6割方読んでると思うんですが、未読でしたので読了。
久々の姫野ワールドを堪能、読後感もしっとりと落ち着いていて、大満足の逸品でした。
この凝った構成はなんなんだろう?と思いながら読み進めるうちに納得。ヒト/コトの多面性を表現するにはとても有効ですね。タイトルの「・」も気になってたんですが、これからして意味がありました。リアルシンデレラじゃあ、このような小説にはなりませんよね。
主人公はある意味作者の分身でしょうね。独特の価値観や容姿も妙にかぶります。ジャージ姿で直木賞授賞式に現れた作者と農婦のような泉、
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ひとりの女性について他人の記憶を頼りに記録されていくお話し。
女性の容姿、人格について語る他人の印象はさまざま。
さまざま視点を読みながら、こちらは想像が膨らみ彼女に親しみを感じていく。
不思議なお話しだけど、終わらないでほしい程面白い一冊。
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脇役からの証言で、主人公の人物象を描いていくやりかたの 短編連作って大好きなので(有吉佐和子の「悪女について」とか、三浦しおんの「私が語りはじめた彼は」とか)これもそういうのかなー。と思ったんです。
途中までは面白いと思ってたんだけど、以降、白けた。
「倉島泉。複数の関係者から話を聞いた私は、彼女に興味を持つ。多くの証言から浮かび上がってきた彼女の人生とは? 本当の幸福を知りたい人に贈る、姫野カオルコ待望の長編小説。」
とあるので、かなり期待していたんですが。
特にラストはねェ。
あと、題名は変えたほうがいいと思います。「リアル・シンデレラ」じゃないですよね。あとがきも言い訳っぽくて好きじゃないです。
☆2つ・・・とも思ったけれど、確かに途中までは面白かったので、☆3つに。
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この小説の主人公、泉はタイトルの『シンデレラ』のように華やかではなく、笑っても人に気づかれない、自分の幸せよりも他人の幸せを願うような女性である。物語の流れは、泉を中心に、というわけではなく、泉の身の回りにいた人物たちに筆者がレポートして、そのレポート内容を小説にしている。
ただ、ところどころに散りばめられている泉の描写を繋ぎ合わせると、実は何ともいえぬ色気があったのではと思われる。
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感想を書くのが難しい…。ある平凡な女性を、彼女にかかわる周囲の視点から描いた本。小説だがルポ形式になっている。
本人は幸せだったのか?がテーマ。幸せの価値観は人によって違い、人から見て幸せでも本人はそうでなかったり、逆も然り。
倉島泉という女性はマザーテレサのよう。長野弁も素朴でいい。美人で何でもできる妹の陰になりながら、他人の幸せをひたすら祈る。
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童話「シンデレラ」について調べていた編集プロダクションのライターが、「シンデレラは幸せになったのか」と疑問を持つことに端を発する物語です。
この疑問に意気投合したプロダクションの社長から、知り合いの女性「倉島泉」を紹介され、取材を始めます。
「幸せになったシンデレラ」とは、本当はこのような人の事を言うのではないか。
物語は、倉島泉の半生を描いています。
諏訪湖のほとりの料理屋兼温泉宿(現代風に言えばオーベルジュ)の<たから>に昭和二十五年に生まれた女の子が倉島泉(くらしません)=本書の主人公です。
さて、倉島泉は、シンデレラになれたのでしょうか。
読み終えた直後にぼくは、考えました。
「倉島泉は幸せだったのか。」「幸せになったシンデレラと言って良いのか。」と考えました。
先ずは、このように、しみじみと考えるところが、本書の味わいだと思います。
以下は、徐々に内容に踏み込みます。
何故、読後にしみじみと考えたか、と言うと、僕が今まで漠然と考えていた幸せ=生活に困らない収入があり、結婚をして、子どもを設け、とりたてて裕福でなくても良いから、子どもが健康に育っている状態など=を基準にすると、倉島泉が幸せを得たとは考えられなかったからです。
倉島泉が幸せだったとすれば、彼女の幸せは、僕が今まで考えていたタイプの幸せとは、異なるタイプの幸せであるはずです。
それは、どのような幸せなのか。
これに結論を出す前に、僕は「彼女は幸せだったはずだ。」と前提を置いています。
それは、著者の作品を読破しているヘビーな姫野ファンだから、と言うのもあるのですが、著者の作品を好む理由=よく知らない人を、思いこみで哀れんだり、非難したりするのは迷惑だ。と言う僕の性質に馴染む理由からです。
例えば職場の昼休み、節電のために照明が落とされた事務所で、食後のおじさん二人が世間話をしていたと思ってください。
「今の若者は、車に興味が無いんだってさ。」
「俺たちの時には、学生時代にアルバイトをして、食費を削っても車を手に入れたもんだよな。」
「俺は、割りのいいバイトにありつけなかったから、就職してから、せっせと頭金を貯めて、ローンで4WDのクーペを買ったよ。」
「今は不景気だから、若者は車を買う夢が見られないのかね。」
「そうだな。俺たちは、なんだかんだ言っても、バブル景気を経験しているからな。」
「今の若者はそう言う意味ではかわいそうだよな。」
昼休みに聞こえてきそうな例を考えました。
車に興味のない若者は、かわいそうか。
景気さえ良ければ、今の若者でも車に興味を持つのか。
あえて、「それは違うよ。」と言うほどの事でも無いと思いますが、僕はこのように、自分と価値観が違う人たちに対して、思いこみで哀れみを持つ人に違和感を覚えます。
ですから、本書を読み終わった瞬間に、僕が漠然と考えていたタイプの幸せをつかんでいないと言う理由で、倉島泉を不幸だった。かわいそうだった。と結論づけるワケにはいかなかった��です。
また、著者のエッセイで印象深い、良寛(1758~1831:曹洞宗の僧侶)と貞心尼の交流の考察に、類希な説得力を感じたからです。出所:「ほんとに「いい」と思ってる?」(2002/9/25角川文庫 第一章 ブランドの烙印/ハーブティーが好きな人が「いいな」と思うような関係)
恋愛を含めて、幸福感と言うものは、僕が知り得ているものだけでは無い。
それでは、倉島泉の幸福とは、どのようなものだったのだろうか。
それを考えました。
以下は、本書の核心部分について、僕の答えを述べます。
本書を読み終えたころに、タイミングよくTV番組の解説で、カント(イマヌエル・カント Immanuel Kant 普1724~1804)の言う道徳的価値を持つ自由な行動を知りました。
「これだ。」と思いました。
倉島泉の幸福は、イマヌエル・カントの言う、自由意志による行動がもたらす幸福感なのではないでしょうか。
お金で買える幸福感は、欲望を満たすものであり、満たされた欲望は、自分の自由意志で得たものでは無く、逆に欲望の奴隷として行動した結果です。
自分の家族を得て、子どもが順調に育つのを見守ることからも幸福感が得られますが、その幸福感は、どんな生物にも共通の本能的な欲望に従っているものだと思います。
一方、倉島泉が得た幸せは、自分で願った行動規範に従った結果(物語では貂に願った三つの願いから)得られる幸福感であり、これは、つまり、カントの言う、自由意志による行動がもたらす幸福感だと思います。
それは、人間だけが持つ理性による幸福感であり、
好景気の折りに、金で買ったものから得られる幸福や、
不景気でも家族と一緒にいられる幸福とは別の次元のものです。
現在の日本は、残念ながら不景気です。
そして、周囲の国では、戦争が起こりそうな不安があります。
でも、それらとは全く無関係に、僕たちは、幸せになる事が出来る。
リアル・シンデレラ=倉島泉の一生から、僕はその真実を学んだように思いました。
ところで、僕は、努力しても倉島泉のように生きることは出来そうもありません。
それほど、彼女は善人を通り越して聖人のように見えるほどですが、
彼女が得た幸福のように、景気が良くても、悪くても、健康でいても、病んでいても、
幸せになる事は出来るのだ。
この小説から学んだ事は、僕にも幸福感をもたらしたように思います。
幸せは、自分の中にありました。
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直木賞候補、各メディア・カスタマー絶賛!
てことで借りましたが、私にはこの作品の良さが全くわかりませんでした・・・だいたい、こんな聖人君子、いや聖母のごとき女、いる??主人公なのに泉の輪郭がはっきりせず、「泉さんっていう人がわたしには不気味なの・・わからなくて怖いの・・・」に激しく同意。インタビュー形式なのも読み辛かった。尻すぼみなラストも謎。
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ネグレクトと解離性障害の話でもある、と思った。
主人公の泉のことを理解はできないけど、
尊敬する。
痛々しいけど正しく生きた人だと思う。
ただ、与えられた環境から逃げようとしなかったのはどうしてだろうと考えてしまう。
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初めての姫野さん。
読み応えがありました。
著者のあとがきによれば、
リアル=ドキュメンタリータッチ
シンデレラ=幸福や善や美や豊かさの寓意
だそうですが、タイトルを見ただけでは、あるいは話題になった表紙を見ただけではとても想像がつきません。
シンデレラと言えば、どうしてもシンデレラストーリー(有名ではない一般人女性が、短期間で(あるいは長い年月にわたる苦労の末)見違えるほどの成長と幸福を手にし、芸能界や社交界、その他の一流の場などにデビューしたり、あるいは資産家と結婚する成功物語をいう。By Wikipedia)を思い起こします。さらに穿った見方をすれば、グリム童話のシンデレラの結末の残虐性を思い起こします。
この物語はそうしたシンデレラ像とは違い、俗世の聖人というか聖性を抱えた変わり者、ひたすら利他的な倉島泉(せん)の物語です。著者はそれを特に讃えるでもなく、淡々と描き出していきます。
ちょっとクリスチャン臭がするなと思いました(悪い意味ではありません)。姫野さんによると「私はそんなにちゃんとしたクリスチャンではありません。」とのことですが。。。
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姫野カオルコさんの本はどの本も大好きですが、この本は、ちょっといつもの姫野カオルコさんの作品とはちょっと違う感じがしました。
主人公・泉さんの個性的なところは姫野さんって感じなのですが、お話自体が、おお、、、こういう終わり方のお話もアリなのか、姫野さん!!っていう感じでした。
編集者が取材していくというスタイルで、いろんな切り口から泉さんのことが語られていて、、、そして切なかったです。
確かに、シンデレラの話って、自分のことをコケにしてきた意地悪な継母とその娘達への復讐に満ちていて、本当にそんな嫌な奴がシンデレラ?という考え方もあるのかもしれません。私はそこまで考えたこともなかったので、それも新鮮に思いました。
逆に、なんだかそういう性格の悪いシンデレラに対してスッキリする、という気分だったように思います。
この小説が書かれたきっかけっぽく始まっているところもまたよかったです。
とてもオススメです!