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見ているものが同じでも見えるものが変わるんだな。言葉も文化も常識も異なるいつかのどこかにぽつんと立った時に何が見えるのかなぁ。
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3:突然の交通事故によって、全ての記憶を失ってしまった18歳の美大生。自分自身のことだけでなく食べる寝るなどの感覚も忘れてしまった…。そんな彼が”新しい自分”を生きはじめる!はげまされ、そして頑張る意欲が湧いてくる!そんな1冊。
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記憶喪失がどんな症状であるのかはきっと人それぞれなんだろうけど、
着ている服が合わないような妙な感じと
周りの人の反応とですんごい大変そうだった。
少しずつ道を見つけていく課程にものすごいリアリティ。
でも★で評価をつけることにすごく抵抗がある、
この人の人生に評価をするような、
そんなおこがましいことできないなあと思ってしまう。
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18歳で交通事故に遭い、脳を強打して記憶喪失となってしまった著者の手記。
1ページ目から衝撃的でした。
「これからなにがはじまるのだろう」というタイトルで始まる文章は、ほぼひらがなだけで綴られ、それだけ読んでも全く見当がつきません。
「しずかで大きな物」「見上げるほど大きい」。これは、なんのことだろうと思いました。
"どうしたらいいのか、まよっていると「ここがゆうすけのおうちやで」と言われた。
おうちも、ゆうすけも、なんのことかわからなくて、ただ立つだけだ。なにかにひっぱられて、そのまま入っていく。"
こうした文章が続き、全身を襲うめまいのような感覚、怒涛の中にいる心細さを体感します。
この本は、いつのタイミングで書いたのか。
12年後だとしたら、直後の生まれたてのような混乱した感情をよく覚えていたものだと思います。
私たちの誰もが幼少時に体感した感触なのですが、その時には表現する術を知らないため、感覚はそのまま流れて忘れられていくだけ。
自分のはじめての追体験をしているような気持ちになります。
どうやら、退院して我が家へと戻ってきた話ですが、なにもかもわかっていない視点で書かれる文から受け取れる情報は一切なく、本当に手探りの日々が始まることを予感させます。
混沌の暗闇の中から手を引かれて明るいところに出された著者ですが、それでもなにも意識に入ってこないという残酷な事実。
つい、光りあるところに希望があるような文学的な展開を期待しますが、実際には明度が変わっただけで事態が改善されたわけではないということに気付かされました。
彼の文章に、本当にわからないということは、こういうとこか、と戦慄を覚えます。
圧倒的な寄る辺なさに満ちた文章。
周りの助けも伝わりません。
熱いと冷たいがわからないため、お風呂に入ってもおかしいと思わず、水風呂の中に黙って震えて入っていたり、おいしいという感覚がわからず、食べていいものといけないものの区別ができなかったり。
記憶喪失とはかくなるほどに人間の理性を喪失させるものか、と恐ろしくなりました。
つまりは、教育前の子どもと同じ状態に戻ったわけですが、子供の頃は周りが情報統制してくれており、不必要な情報はシャットダウンされます。
ただ、外見が成人だと、周りがすでに自己内情報処理能力がついた大人として接してくるため、本人は混乱の極みにおいやられるようです。
時間の感覚もないというのが、どうも実感しづらいことで、それだけにことの深刻さを思いました。
朝になったら起きる者、夜になったら寝るもの、という生物的なルールは、やはり子供のうちに周りから教わったものだったわけです。
テレビも、動くものがあるから見るだけで、喋っている内容はわからないからつまらない、という反応。
思えば、子供の頃は、大人向け番組は退屈で、すぐに飽きてしまいました。
著者の文章の間に時折、母親の手記が挿入されています。
「手足を縛られて、どこか知らない国へ連れて��かれて目が覚めた時の感覚」だという表現がわかりやすく、的を得ていると思いました。
言葉はただの雑音でしかなく、物事の整理がつかずに、何をすべきかわからないという不安な状態。
家族がその状態を理解できるようになるまでに長い時間がかかったとのことで、そこに至るまでには並々ならぬ苦労があったのでしょう。
家族の顔も全く覚えていなかった著者。
自分が子供の頃のアルバムを見て、赤ん坊の自分をやさしく暖かく見ている人と横にいる人が一緒だと気付き、その暖かい視線で、「かあさん」という存在を知った、とありました。
母親の顔は思い出せなくても、そのあふれる愛情に心寄せられて、母親という存在を覚えたという美しい記述でした。
死についての理解も、難しい勉強です。
うごかなくてどろっとして臭くなる、目が変だ、という状況から、判断していきます。
この話の中で、"「死んでいる」その言葉は聞き覚えがある。それは、僕に会いに来る人たちがよく口にした言葉だ。"とさりげなく書かれていたことに、どきりとしました。
何もかもがわからない状態から、少しずつものを知り、世界を覚えていく著者。
甘いものを覚えた感動も記されており、(甘いものばかり欲しがる子供と一緒だな)と思います。
でも、やはりはじめは、チョコレートの食べ方が分からず、包み紙ごと口に入れていたようです。
また、大きなまるいやつ(自転車)に興味津々だったり。
「人は、丸いものの上に乗っても歩くのか。たいしたものだ」という表現にははっとしました。
ほかに、キラキラ光るもの(お金)や細長い紙(お札)など、純粋無垢な、まるで詩人の視点です。
ただ、物事の善悪が分からなず、周りに「赤には入るな」と言われているから赤いサインのトイレには入らなかったとのこと。
昔のガールフレンドに「こぶたちゃんみたい」と言ってしまったことも書かれていました。
昔の友人に会って、時々その名前が記憶ののどこかから引き出されたりしていたようですが、それ以上の回復は無かったようです。
あらゆることに疑問を持ち、なんでもとことん知りたがるため、周りが閉口していき、友人が減っていき、最後には母親しか相手をしてくれなくなった、というくだりを、エジソンの幼少期と重ね合わせました。
顔つきも変わってしまったそうです。
昔は性格がきつくとんがっていたため、再会した友人は皆驚いたとのこと。
脳と記憶は、そこまで人を支えているものなのですね。
未知の社会がこわくて、周りの人々に疲れて、家出を繰り返したという彼。
自分の中に支えになるものが全くないと、人は弱さを克服できないのでしょう。
それでも事故から三か月後に大学に復帰した彼。
1日行くと消耗して寝込み、1,2週間は行けなったそうですが、大変な苦労をし、留年を繰り返した末に、7年かけて卒業し、在学中に一人暮らしも始め、就職もし、その後独立も果たしました。
結局彼の18年間の記憶は戻らないまま。
その後一から学び直した12年間で、今の自分を作り上げたという力強さ。
全てが想像の範疇を超えた話です。ま���に人生は小説より奇なり。
今まで読んだことのない未知の感覚を揺さぶられたり、こういうことかと子供の頃の忘れていた印象を思い起こしたりと、読みながら振り幅の大きな情緒体験をすることができました。
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18歳の美大生がバイクの事故で記憶喪失になり、何年もかけて社会生活に復帰していった様子が本人によるいろんなエピソードの紹介と、母親による回想で綴られたノンフィクション。『奇跡の脳』を読んだばかりだったので、ゆうすけさんの脳でどんなことが起こっていたのか、想像しながら読了。大変読み応えがありました。記憶喪失、ということのイメージは、基本的な生活スキルや常識はわかるけれど個人情報だとか特定の出来事が思い出せないような症状で、徐々にか何かをきっかけに突然もと通りに記憶を取り戻せるようなもの、となんとなく思っていましたが、そういうのは小説やドラマや映画の中のことか、または脳の機能が損傷したことによるものではなくて、精神的な原因によるものなのかな、などと素人ながら考えたりしました。現在は草木染めの職人をしておられる坪倉さん、絵を描くのが昔から好きで美大へ行っていた、その感性が、どこか記憶を失くしたあとにも残っていて、ああいう詩のような印象的な文章を書かれたのかな、と思いました。
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最初は要領を得ずに読みにくい文章ではあったが、これが作者の体験してきた世界であったのかと思う。ご両親の関わりの深さを感じる
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スクーターで事故にあい、過去の記憶どころか日常生活に必要な知識も全て忘れてしまった青年の、ノンフィクション。フィクション作品に出てくる記憶喪失者は自分のことを忘れていても日常生活を営む上で不便はしてないのに、青年は赤ん坊と同じゼロからのスタートだった。白米やチョコレートを食べて「美味しい」「甘い」を知り、文字を覚え、大学に行く……もし私だったら世界が怖すぎて布団から出られない。誘われて大学のクラブに行ったら「君は長いあいだ部費をはらっていないね。部費は一ヵ月遅くなるたびに一ヵ月ぶん増しだから、三万六千円だ」と言われるなんて質が悪すぎやしないか。事故にあった人に対して、その対応はないだろう。当時、彼(青年)は男と女という二種類の人間がいることさえ分かっていなかったんだ。
そんな状態の彼を大学にいかせた母も、免許の教習所の合宿に行かせた父も、私から見ると厳しすぎる。だって、幼児を相手にするようなもんだろう。事故のことで同情され、距離をおかれ、迷惑そうな顔をされ、分からないことばかりで……本当に、よくも心が折れなかったもんだ。私が泣きそうだ。
人との距離のとり方を次第に学んでいくが、そんな状態でも彼は楽しかったんだろうか。人生とは目標に向けて、辛くても乗り越えていかなきゃいけないものなんだろうか。その中でしか見つからないものなんだろうか。本当に、泣きそうだ。
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記憶をなくした本人と、母親の視点から書かれているノンフィクション。事故で記憶をなくしてしまった美大生が、自分自身を立て直していく過程を追ったものです。本人の記述に挟まれる形で母親による記述があり、全体をとらえるのに役立ちました。
時に悔しく悲しい思いをしながら成長し人生を再構築していく様子は、子供時代からやり直しているかのようです。坪倉優介という青年は過去を取り戻すことはできなかったけれど、未来を手に入れた。読み終わってそう思いました。
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通常記憶喪失というと、「ここはどこ?? 私はだれ??」
という感じで、とりあえず日常生活をしながら
自分に関する記憶を取り戻す、って話が多い。
だけどこの作者は、バイクの事故で18歳の時脳に衝撃をうけて
そればかりじゃなく、日常のすべても忘れてしまう。
食べるも、眠るもわからない、
ただ会話はできるだけの大きな赤ちゃんになってしまった。
家族はもちろん困惑する。
食べなさい、といっても食べ方がわからないとか、
お風呂に入るといっても適温がわからないから用意しないといけない、
寝なさい、というと寝る意味がわからないといって寝られない。
母親は18歳の子を、赤ちゃんを育てるように育てる。
これは日記風、というかエッセイ風に書かれているけれど、
最初のころは本当に、小さな子供が
何も知らないまま世界に出て行って思ったことを書いているようで、
なんだかひどく神々しい。
赤ちゃんが生まれてすぐ喋れたらきっとこんなことを言うんだろうな、という。
だけど同時にそれが18歳になる大きな赤ちゃんだった時、
家族の苦労を思うときれいな言葉ではまとめられない、
苦しい気持ちになる。
仲の良かったらしい女の子のことも思い出せない。
そもそも女の子の扱いもわからない。
友達のこともわからない。何一つわからない。
自我はある作者の気持ちもつらい。
何一つわからないから学んでいくけれど、
周りは外見だけで、それを赤ん坊に接するようには対処してくれない。
戻らない記憶、わからないことだらけ、焦燥感。
結局彼は記憶が戻らないまま、再びの子育てを経て
一人立ちをするようにまでなった。
家族のささえってすごい。
だけど、自分の大事な人が記憶を失ったらどうなるだろう??
また自分を大事と思ってくれるんだろうか??
全く興味のない人と思って去っていかれるんだろうか??
自分が耐えられるだろうか??
自分が大事な記憶を失ったらどうなるだろう??
大事な人をまた大事に思えるだろうか??
記憶ってなんだろう。
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記憶喪失といえば、「私は誰?ここはどこ?」の世界だと思っていた。きっと人によって程度や症状はさまざまだとは思うが、著者・坪倉さんの場合はそんなもんじゃない。なにもわからない、言葉もほとんど忘れてしまった状態。そんなほぼまっさらなのに、身体は18歳なのだ。社会的には18歳として生きていかなければならないのだ。
本書はそんな坪倉さんの言葉と、お母さんの手記で構成されている。見るものすべてが初めてで、しかもそれを表現する術すら持ち合わせていない坪倉さんの言葉は、たどたどしくも新鮮で、それを外から見守る母親の言葉は愛情に満ちている。
少しずつ生活できるようになっていき、最後には立派な職人さんになっていて、本書にも少しその作品が載せられているが、その美しさに感嘆し、乗り越えたんだなあと思えた。
久しぶりにいいノンフィクションの本を読んだ。
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18歳の美大生が事故にあい、記憶を失ってからの12年間のノンフィクション。これを読んだ感想は「本は読み手の心を映す鏡」だな、と言うこと。
私の感想は「なんとも言えない」だった。
リアルタイムで書いたものなんだろうか……? だとしたら葛藤はないのか? なんというか、うーん。もっとどろどろとしたものがあって、その中の綺麗なものをチョイスして載せた感があるのだけれど、それは人間を偽悪的に見すぎているのかな。
ただ、この人の作品は、過去関係なく見てみたいな、と思った。
草木染作家としての個展を見るか、それについての本を読んでみたい。
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記憶喪失によって忘れてしまったことは、自分自身のことや周囲の人間のことだけではありませんでした。
満腹だと感じることを忘れ、お腹がいっぱになっても食べ続ける。
眠るということを忘れ、夜中に家族を起こしてしまう。
人間として当たり前にやってきたことさえ忘れている状態での大学生活復帰は、本人はもちろんのこと、優介さんを理解し、見守り、時には叱咤しながら支えてきた家族は大変だったでしょう。
本書の中では記憶を取り戻すことは出来ないまま。
ですが、過去の自分を思い出そうと躍起になるのではなく、今の自分を受け入れ、未来を見つめている優介さんを純粋に応援したくなりました。
(中央図書館)
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自分に関する記憶だけでなく、「食べる」「眠る」などが
全てわからなくなってしまった青年の12年間を綴ったノンフィクション
見るもの全てが新しく、何なのかわからない彼が表現する私たちの日常はとっても瑞々しい
冒頭からページが進むにつれて、使われている漢字が増えていくのには感動しました
また、解説の俵万智さんも書かれていますが、ご両親が素晴らしい
記憶をなくした息子を一人旅に送り出す、一人暮らしをさせる、スクーターで事故を起こした息子をバイクに乗せる…
かわいそうだ、かわいそうだと甘やかすのではなく、時に優しさで包み、時に厳しく自立へ向かわせていく姿勢には敬服します
欲を言えば、もっと坪倉さんの作品をカラーで入れて欲しかったなー
2012/10/24
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新鮮な表現に胸を打たれた。
お金や電車、食べもののことなど、、
これまで様々な芸術家たちが今生きる世界を描こうとしてきたけれど、こんなにも、初めて出会うときのようにみずみずしく表現した人はいないんじゃないかと思う
お母様の手記によると、坪倉さんが「人間はなんのために生きているの?」と尋ねたときがあったという。
自分の生きる目的というのが見いだせないということは、どんなに衣食住満たされていても、孤独で寂しい思いを背負うことになるのだな、と思った。
特に前半の、日常生活を送れるようになるまでの描写は、読んでいても苦しくなるほど、苦労の日々だった様だ。でも、大学に行き、染め物の課題を重ね、京都で働くようになり、どんどん文章のテンポが良くなっていく。それが、彼の世界と自信が加速的に広がっている様をあらわすようで、ワクワクと生きる喜びが、文章からフルに伝わってくる。
本の終盤に、ずっと記憶が戻ったらいいと願っていたけど、失った記憶よりも、新しく得た記憶がとてもかけがえのないものだと思う、というような文章があって、泣きそうになった。
わたしはどれだけ今とこれからを大切にしているのだろう。と思わされた。過去のことを、基準にしたり頼ったり悪者にしたり、そういうことばかりで、今のこと、これからのことをどう前向きに受け止めていくか、そういう視点を忘れていたな、、と。
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著者が18歳の時にバイク事故で重体となり、病院で目覚めた時にすべての記憶が無くなっていたという所から本書は始まる。記憶喪失なんて映画やドラマではよくあるけれど、本当にこういう事があるのですね。
自分の事、家族の事、友人の事、目の前に見える物が何なのか忘れ、本書を書いた事故から12年後でも記憶は点としてしかよみがえらない状態。本人も家族も大変だと思います。各章の終わりにある母親の文章と本人との対比が面白い。