投稿元:
レビューを見る
語り口調で書かれていて、最初は読みにくいと思ったけど、途中から心地よくなった。
著者の知識の深さがすごぉい、てか底無しな感じ。文系の教授くらいはこのくらいは当然なのかな?
ちなみに教養とは、社会と私生活をうまくつなぐというか、問題を解決するための知識、といったところか。すばらしい。
投稿元:
レビューを見る
「教養」というあいまいな言葉について、日本に輸入された歴史や、「教育」「古典」などの関連ワードとの切り分けについて書かれた本。教養とは、仕事とプライベートと政治、3つの役割をうまく統合する能力だ、というようなことが書かれていた。教養の身につけかたについては書いていない。
投稿元:
レビューを見る
『これが「教養」だ』(清水真木、2010年、新潮新書)
「教養」とは何か、について解説している書。一般的な教養の解説書とは違った観点から解説しているのではないかと思われる。
筆者は教養は「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」と定義してみたり、「生活の交通整理をするための「自分らしさ」のこと」と言ってみたりする。すなわち、「残業をして明日の納期に間に合わせなければならない」が(公共圏)、「明日の子どもの運動会のために弁当の下ごらえをしなければならない」(私生活圏)人が、ふたつの状況を両立させる能力というわけです。
では、その「生活の能力」はどうしたら身につけられるんですかと思うのだが、悲しいかな、解説がない。その意味で、本書は実用書ではないし、哲学的というか、よくわからない感じである。
(2010年6月10日 大学院生)
投稿元:
レビューを見る
面談のあとに読んだから心臓がドキドキしていたからあまり頭に残っていなかった。
修養の目的は教養の目的となる。
アメリカではリベラルアーツ教育であ佐久広くいろんな知識を身につけることにある。
ドイツでは大学が大学である所以は、哲学部の教育にあり、哲学部の教育の目指すものは教養の完成であるというフンボルトの見解が正しいなら、日本の大学制度の中でこの哲学教育を担っているのがジェネラルエデュケーション。
古典とは、人格を形成し、人格を問うたし、人生を豊かにするものでなければならないことが決められてしまいますと、この目標に合った読み方こそ古典の正しい読み方になってしまう。
投稿元:
レビューを見る
先日読んだ教養の定義の混乱から、本書を読んで一転してそれがクリアになった。しかし、著者もいうように教養は猛毒であった。ふー。
その定義は後で引用しておきたい。生活上の衝突という難問、すなわち問題を「解決する能力」が教養といっている。
また、公共圏と私生活圏を統合する生活の能力という「自分らしさ」ともいっている。
先日、明治期の教養主義に関する本を読んだが、そもそも新渡戸稲造が一高の校長時代に話した言葉が「修養」として語った言葉が翻訳されたものだったらしい。いらばその弟子たちの解釈によって教養主義が形作られたのだ。
ちなみに、「修養」は終身と養心・養神を合わせたもので、漢籍による言葉ではない。
教養の再生が掲げられるほど衰退した原因は、古典が読まれなくなったことと、教育が大衆化したこととしているが、古典を読むことが教養といってはいないないのが著者である。
今後は、今は無き一般教育の代わりとなる教養教育・リベラルアーツを持つ大学と、それらがない専門学校のような大学に二極化されるはずというが、当然それは設置基準が大綱化してから容易に想像できる事態だった。
留意すべきことは、教養教育といっても、フンボルトの大学理念である、大学教育の目的は今日を完成させることと、リベラルアーツという広く浅くいろいろな知識を身につけつ自由学芸を起源とした教育は、異なるということだ。これは今の私に大きな示唆を与えた。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
「教養」の歴史は意外なほど浅い。
その教養がなぜ、「古典」「読書」「該博な知識」などと結びつき変質してしまったのか―。
新進気鋭の哲学者が、探偵のごとく「真の教養の姿」を追い求め、現代に蘇らせる知的興奮の書。
[ 目次 ]
第1章 手垢にまみれた教養の本当の姿(「教養とは何か」という危険な問題;八世紀生れの新しい考え方 ほか)
第2章 「教養」という日本語の考古学(大正時代から使われ出した言葉;諸橋『大漢和辞典』には載っているが… ほか)
第3章 「輸入の缶詰」を開けてみる(加藤周一と俗物;「俗物」の試金石 ほか)
第4章 教養を生れたままの姿で掘り出そう(『山椒魚』は高級で『日刊ゲンダイ』は低級?;古典と教養は何の関係もなかった ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
201112/
教養とは「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」/
公的な生活と私的な生活のこのような衝突という難問を巧みに解決する能力こそ「教養」とよばれるべきものである/
少し抽象的な言い方をすれば、一人の人間が帰属している複数の社会集団、組織のあいだの利害を調整する能力ということになる/
バラバラになった生活全体を見渡し、複数の相容れない秩序、家庭の秩序、職場の秩序、政治の秩序をいわば「通約」する第四の新しい秩序をみつけることであります。具体的に申せば、職場での役割、家庭での役割、政治の場面での役割の他にもう一つ、家庭内での立場からも独立した、政治的な主張からも独立した、職場での地位からも独立した、つまり、いつ、どこで何をしているときも変化することのない「自分らしさ」なるものを見つけ出すということであります/
古典とは、新しい物を正当化するために現れた古いもの/
ピースミールに問題を解決する決疑論的な能力としての教養、つまり、本来の意味での教養の方は、現代の社会で生き残るでございましょう。生き残るばかりではなく、問題解決の能力を手に入れるために努力する者にとり、私どもの社会-それは確かに鬱陶しく不気味な社会ではございますが-これは、能力を鍛えるためのまたとない練習場ですらあるのではないか、私はこのように考えます。何と申しましても、決疑論的な問題能力-つまり教養ですが-これは一種の「名人芸」であり、手に入れるには、「場数を踏む」ことが絶対に必要だからであります。/
投稿元:
レビューを見る
教養の歴史としてはあまりにざっくりしていて読み応えなし。何よりも著者の語り口に辟易、「ございます」だの「ああ、」だのが、著者の言う「柔らかい書き方」だとすれば、著者は、「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」としての「教養」に縁遠い人間なのではないか。このような書きぶりが、世間を舐めた、逆に賢しく、嫌味たらしい文体であることに気づいていないならば、相当の愚鈍である。とは言っても、巻末に「科学研究費補助」をしっかりと示しているあたり、処世渡世にはそこそこ通じているのかも。しかし、我が国はまだまだ金が余っとるの感深し。
投稿元:
レビューを見る
教養という必要だろうけど良く解らないものを、関係ありそうで関係ない物を削り取って行く形で説明していて面白かった。「猛毒を含む」や「教育、読書、人格を一度何もかも精算しなければならない」など、今まで思っていた教養というものが洗練されていく感じでした。仕事、家庭、地域での生きやすさを追求する為に教養は身に付けなきゃいけないと思いました。猛毒を含みますが(笑)
投稿元:
レビューを見る
「教養」の歴史をたどり、どのような経緯を経て日本における教養主義の流行とその退潮が生じることになったのかということを論じている本です。
著者はまずハーバーマスに依拠して、公共圏の誕生とそれにともなう親密圏(家庭)と私有圏(仕事)の分化が生じたことに触れるとともに、それを統一する「自分らしさ」が求められるようになったと論じています。そして「自分らしさ」を発見するために「教養」が求められるようになったとしながらも、それがすべてのひとに共通する「人間らしさ」にすり替えられ、「世界一太った人間でも着ることができるように作られた、一つしかサイズのない既製服」としての「教養」が成立したと述べています。
さらに本書では、唐木順三以来の教養と修養の相違にかんする考察や、フンボルトの大学教育の理念などのテーマにも立ち入りながら、「教養」という観念がたどることになった歴史を説明しています。これらの議論は、本書で用いられていることばを借りるならば、「教養の考古学」というべき内容になっています。
「教養」をめぐる概論的な内容で、興味深く読みました。ただ、「これが「教養」だ」というタイトルと、独特の語り口から予想されるような、著者自身の毒を込めた教養批判ないし現代批判のような議論はあまり見られませんでした。また、教養の解体という、相当に古くから何度も蒸し返されてきたテーマに対して、いまさら立ち入って議論をする必要はないという判断がなされたのかもしれませんが、著者自身がなぜ「教養」について考察することになったのか、そのねらいはいったいなんなのかということが見えてこないようにも感じてしまいました。