ヴォネガットさんから次世代への遺言書
2008/08/14 22:53
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:りっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
カート・ヴォネガットさんの最後の長編らしい。ウーン、遺言書とも言えるかな。1996年の冬に書き上げた長編小説が気に入らなくて、
「たとえていえば、私はその恩知らずな魚を10年近くかけて育てたわけだ。なのに、そいつはサメの餌にもならない。
私はつい最近73歳になった。わたしの母は52歳まで生き、父は72歳まで生きた。ヘミングウェイはもう少しで62歳に届かなかった。私は長生きしすぎた! さあどうする?
答え――その魚を下ろして切り身にしろ。あらは捨ててしまえ。」
筋としては、1991年2月17日から2001年2月13日までがリプレイされてしまう。今までの小説にちらほらと登場していたキルゴア・トラウトが主役?トラウトの未発表の小説も、彼の放浪の人生も、著者の人生も切り身のごとく、挿入されている。今までの小説との絡みもあってファンにはいっそうおいしく感じられるのでは・・・
第3章には、トラウトの『笑いごとではない』という小説が紹介されている。機長の母親の名がつけられた《ジョイス・プライド》は、ヒロシマ・ナガサキに続いてもう一発を横浜の“黄色いちび野郎ども”に落とす予定だった。機長は、「夫を亡くしたあの優しい母が、報道記者に向かって、息子の乗った飛行機が大ぜいの民間人を一度に殺す世界記録をうちたてたのを、決してうれしいというはずがない」と確信するようになり、「マザーファッカー」(原爆)を機体の下にぶら下げたままUターンする。その後の秘密軍法会議で、戻って着陸する際の、基地の人々の慌てた様を検事が描写した時に、全員が腹を抱えて笑う。裁判長が被告たちのやった行動は、「笑いごとではない」と、述べ、法廷を静まらせたと思うまもなく、その島も、機体も、原爆も、軍法会議も、地球の裂け目に飲み込まれる。
“黄色いちび野郎”には心痛まずに落とせても、自分のところで爆発するという恐怖でパニックになる。もちろん笑い事ではない。“黄色いちび野郎”にも、世界中の理性ある人々にも、言い訳は通用しない。たっぷりと香辛料のかかった切り身です。
彼のジョーク好きはお兄さん譲り。人生に対するどこか冷めた所は、お父さんから?二十年間も無免許運転をつづけていたことがバレた時の警官への台詞がこれ。「じゃあ、俺を撃ってくれ!」。叔父さんからは、日常のほんのちょっとした幸せを見逃さないように教えられたそうだ。拡大家族の中で育つことがいかに幸せか。今は、親戚関係が酷く狭くなった。それはいいことでもあったはずなのだが・・・キルゴア・トラウトを主賓としたやきはまぐりパーティが、新しい拡大家族を示唆しているようでもある。
彼の原点でもあったドレスデンの空爆。「解放された直後のオヘアとわたしがあのドイツ兵たちにいった言葉は、いまでも好きだ――アメリカはもっと社会主義的になり、あらゆる人間に仕事を与えるようにもっと努力し、われわれの子供たちが、すくなくとも飢えたり、寒い思いをしたり、読み書きができなかったり、死ぬほどおびえたりすることがないように保証するだろう。」
彼はいい人なのだ。だが、リプレイされた10年間は、わたしたちが大事ななにかを失い、新自由主義の名の下に、「資本の不誠実な保管者たちは預かった金のお手玉遊びをして、自分たちを億万長者や兆万長老にのしあげている。本来、その金は意義のある仕事を作りだしたり、その仕事をする人間を訓練したり、敬意と安全な環境で子供を育て、老人を引退させるのに使うべきものなのに」という時期だったのかもしれない。わたしたちも自由意志にスイッチを入れないで、自動操縦させてしまった取り返しのつかない時期。
いつもどうりふんだんなジョークを織り込むながら、クソ真面目に提案している。
「修正第二十八粂 - あらゆる新生児は、心から歓迎され、成人するまで世話されなくてはならない。
修正第二十九条-- あらゆる成人は、その必要に応じて、意義ある仕事と生活賃金を与えられなくてはならない。
現実には・・・「わたしの世代のおおぜいの人間が落胆している」
次世代への言葉は「せいぜいがんばって!」。なんたって、クラウトのいうように「人生はクソの山」。ヴォネガットさんもそうしたように、ひとりひとりが「せいぜいがんばる」しかないのだ。
もうひとつ、キルゴア・トラウトの作品『B-36姉妹』、から
「わるい妹の名前はニム・ニムという。そう名づけたとき、両親はこの末娘がこれほど不快な女になるとは思ってもみなかった。しかも、テレビは序の口! あいかわらず退屈な彼女は、あいかわらず人気がないため、自動車や、コンピュータや、有刺鉄線や、火炎放射機や、地雷や、機関銃などなどをつぎつぎに発明していく。よほどむくれていたにちがいない。
ブーブー星の新しい世代は、想像力を欠いたままで育っていく。退屈しのぎの娯楽に対する彼らの食欲は、ニム・ニムが売りつけるすべてのクソで満たされる。そのどこがいけない? べらぼうめ。
しかし、想像力がないため、彼らは先祖たちがやったこと、つまり、おもしろい、心温まる物語を、おたがいに向かいあって読むことができない。そこで、キルゴア・トラウトによると、「ブーブー星人はその星雲きっての無慈悲な生物になってしまった」
ヴォネガットさんの本音・感性がすべて載っています。やっぱり遺言だな、こりゃあ。
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投稿者:ペンギン - この投稿者のレビュー一覧を見る
この作品も、すごく変だ。物語の中に「わたし」が出てきて登場人物と話をするし、フィクションなのに実際の自分の体験や家族のエピソードが紹介されるし、おなじみの「キルゴア・トラウト」は相変わらず狂気じみている。
すごく変だと思いながら、気がつくと手に取っている。読んでいると、フィクションと現実の間がだんだんと不明瞭になってくるような感覚がある。この作品に描かれるフィクションはすべて現実の何かの象徴で、普段自分が現実だと思っているものは、結局自分が作り出したフィクションのようなものなんだと思えてくる。プロローグに「きっと私は頭がおかしいのだ。」と、書いてある。きっと私も頭がおかしいのだ。
おかしくなった私の頭がインクのしみから受信する信号を分析する限り、送信元が伝えたかったのは望ましい未来の姿だ。タイムクエイクによって新しい行動できなくなったリプレイ期間が2001年に終わる。一時的に混乱があるものの、人々は心身ともに健康になり、自分のやるべきことを見出す。などなど。
失敗するとわかっていながら行動を変えられないもどかしさは、私にも覚えがある。リプレイ期間はまだ終わっていない。
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2001年2月13日、時空連続体に発生した異常―タイムクエイクのために、あらゆる人間や事物が、1991年2月17日へ逆もどりしてしまった。ひとびとはみな、タイムクエイクの起きた瞬間にたどりつくまで、あらためて過去の行為をくりかえさざるをえなくなる。しかも、この異常事態が終わったとき、世界じゅうは大混乱に…!SF作家のキルゴア・トラウトやヴォネガット自身も登場する、シニカルでユーモラスな感動の長篇。
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村上春樹の初期の文体は、ヴォネガットから70%、ブローティガンから30%の影響を受け、そこにチャンドラーの性格設定が加わり完成されたのでは?この3人の中でも、特に僕のオススメはヴォネガット。初めて読んだ時はショックを受けた程、そのスタイルは似ている。しかもヴォネガットは春樹に負けないくらい、いい言葉満載!
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エッセイ?小説?よく分からない作品。
本の中心になるストーリーは、時間が突然10年前に逆戻りし、人々はまったく同じ10年間をデジャブの中でリプレイする。それが突然終わった時の混乱で、おなじみのキルゴア・トラウトが活躍する、というものなのだが……。
冒頭で作者は、「老人と海」を引き合いに出してこう説明する。「老人と海」で釣り上げたカジキはヘミングウェイが書いた長編小説のことで、それが鮫に喰われてしまうのは、批評家たちにボロクソにけなされたことの象徴なのだと。
釣り上げた魚は食われる前にバラしてしまえばよかったのだ。
今回、作者は自分の作品が気に入らないので、自分でバラバラにして、いろいろぶち込んでシチューを作ったのだという。
出来上がったのは、なんとも不思議だが味わいのある作品だ。作者の、シニカルだが暖かい人間愛はけっして衰えていない。
これで、最後の作品だと、作者は宣言しているけれど、まだまだこれからもすばらしい作品を作り続けてほしい。
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トラウトとヴォネガットのグランドフィナーレを飾る、ヴォネガットの最後の長編小説。
タイムクエイクとは、過去十年をリプレイする現象だ。
これまで過ごしてきた十年間を、自分の意思とは無関係にやり直さなければならない。
あのときの事故を防ぐことも、あのときの失敗を防ぐことも、あのときの失言を取り消すこともできない。
皆一様に、自らのたどってきた、愚かしくも誇り高き十年をなぞる羽目に陥る。
ところが、リプレイ終了と同時に、自分の意思で行動をしなければならない。
何にも考えずに行動してきたのに、ある瞬間を境に、「自由意志」のスイッチが入る。
そうすると、人はどうなるか。たとえば、動く歩道に乗って移動をして、
歩道が終わると自らの足で一歩を踏み出さなくてはならないが、
あなたが相当ぼーっとしていたとしたら……。
突如、動く歩道が終わり、おそらくあなたは前につんのめって転ぶだろう。
タイムクエイクとは、そういうことである。
十年間のリプレイ。
非常に面白い発想で、 最後の最後にヴォネガットはSF的な要素の小説で
グランドフィナーレを飾ってくれたと思ったものだが、
このリプレイとは、今のわれわれのことなのかもしれないと思うに至った。
自らの意思で考え、気づき、動けとずっと訴えてきたヴォネガットだった。
しかし、もう「坑内カナリア」理論だけでは追いつかない世界情勢に業を煮やし、
読者への最後の贈り物としてこの物語を仕上げたのではないだろうか。
ヴォネガット作品に度々登場した孤独で不遇なSF作家、
キルゴア・トラウトは、リプレイ終了後に
「あんたは病気だったが、もう元気になって、これからやる仕事がある」と、
混乱する人々を励まし続けた。
そして、たくさんの人々から感謝されたトラウトは、一人ぼっちではなくなった。もう孤独じゃない!
「タイムクエイク」は、ヴォネガットのラストの小説であり、
これまでのヴォネガットの小説を継続して読んできた読者への特別なプレゼントでもある。
そのため、他の本を読んでない人にとっては、おそらく意味不明な描写も多いはずである。
が、個人的には、いろんな思い入れのある作品だ。
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誰にも生んでくれと頼んだ覚えは無い、というフレーズが出てくるたび心に突き刺さりました。ヴォネガット慣れしてない人には読みづらそう?
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カート・ボネガットのタイムクエイクを読みました。この作家の昔の小説では気に入っているものが多いので読んでみましたが、最後の小説と銘打っているこの小説は駄作でした。途中で何度投げようと思ったことか。
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ラスト感漂う筆致で最後の方は涙が出そうだった。出なかったけど。大統領選に5度立候補したユージン・デブスの引用はヴオネガットの好きな部分が詰まってる。優しくて、優しくて、不器用。でもとってもクレバー。
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アメリカ人にヴォネガットの作品がどれくらいポピュラーか尋ねた
すべてのアメリカ人が彼の著書を読んでるらしい
アレッ!?
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映画『マトリックス』シリーズを見ていて鼻白んだのは、終盤、すべては主人公の「選択だ」みたいな話になるところ。あれだけ新しい世界観(みたいなもの)を示してくれた映画でも、結局、これだ。自由の虚妄に蝕まれたアメリカ人は本当に自由意志が好きなんだ。
カリフォルニア州バークリー上空あたりから爆弾を落として、十和田湖に着弾させる、みたいな離れ業な導入、ヴォネガットはうまい。『老人と海』の話の中で、釣り上げた魚を鮫に食われないための方法から話を起こして、『タイムクエイク』の成立に話を落とす。ヴォネガットはまず『タイムクエイク』なる小説を書いて、気に入らず、その美味しいところだけ切り身にして、あとはエッセイみたいなものとごたまぜにしてしまったのだ。
タイムクエイク=時震とは、2001年2月13日、時間がけいれんを起こして、1991年2月17日に戻ってしまったこと。いや、『フラッシュフォワード』とは違います。
1991年2月17日から2001年2月13日まで、人々はまたもや同じことを繰り返さなければならなくなったのだ。だからリプレイ。変えようとしてもできないのだ。その間に死んでいた人は1991年に生き返って、また死ぬまでの人生を繰り返すのだ。自由意志はない。何と間が抜けて情けないことか。
で、2回目の2001年2月13日が過ぎたとたん、人々は再び自由意志で行動しなければならなくなるのだが、その10年間に自由意志で行動することを忘れちゃったのだ。
エッセイみたいな部分では、第2次世界大戦直後、死にかかったSS隊員が言う。「この十年のわたしの人生はまるきりむだだった」。なんてエピソードも出てくる。
つまり、ヴォネガットはアメリカ人の大好きな「自由意志」を徹底的に虚仮にしているのである。
そんなテーマをひっさげながら、この「最後の本」でヴォネガットは自分の人生を振り返りながら、人生というものについて省察する。自分があることにかけてはえらぶつだと思っていても、遅かれ早かれ、その分野で一枚も二枚も上手の誰かに出くわして「ケツの毛まで抜かれる羽目になる」。
ちょっと文章が書けると思っていてもケツの毛まで抜かれて、「猫のひきずってきた何かのような気分を味わう」。そこでブクログの書評などを書いて「いいね!」がいっぱいついたりすると、「これがすてきでなくて、ほかになにがある?」。
そういうものだ。
とはいえカート老いわく「われわれはぶらぶらひまをつぶすために、この地上に生まれてきたのだ」。私ならこう言う。息抜きの合間に人生を送る。
「あなたは病気だったが、もう元気になって、これからやる仕事がある」。自由意志で行動することを忘れちゃった人たちに向けて、ヴォネガット小説の最重要人物、SF作家のキルゴア・トラウトがこう言って、「自由意志」で行動することを思い出させる。私は総理大臣とか幹事長とかいった人にそう言ってあげたい。
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もう少し読み易いことを希望する小説エッセイとも中途半端
表紙 7点和田 誠 浅倉 久志訳
展開 5点1997年著作
文章 5点
内容 456点
合計 473点
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小説なのかエッセイなのか?
例によって散文の集合と言う特異な文体で綴られた作品ですが、これまで以上に奇天烈です。もはや物語のストーリーなど無く、むしろ作者自身の意見が中心にあるように思えます。
作者の言いたい事は色々とあるのでしょう。それが、様々な風刺で描かれます。共産・社会主義的な発想、拡大家族。。。
しかし、何か伝わってきません。言いたい事が沢山有ると言うのは判るのです。でもそれが一体何なのかが判らないのです
しばらくヴォネガットさんから離れていたせいかもしれません。
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過去、ヴォネガットは3作品を読んでいる
『プレーヤー・ピアノ』
『猫のゆりかご』
『スローターハウス5』
いま、このブログにある自分の感想を見てみると、どれも好もしくよろしい感触
さもありなん、このもう最後の作品になるのかという、作者73歳か74歳発表の
『タイムクエイク』
やはり、なかなかの作物なり
創作あり、随筆風あり、思い出あり、文学紹介あり
幾層にも複雑化した構成の中に、いい年輪を感じさせる、その気持ち
わたしたち年寄り(この本では「古手」といっている 笑)にはよくわかるのである
タイムクエイク(時空連続体)によってある時、詳しくは2001年2月23日、
10年前逆戻りして1991年2月17日に戻ってしまい、
やり直しできるのではなく、繰り返さなければならない日常になって
いざ、タイムクエイクがストップしても、何をしていいか戸惑う設定
人間繰り返しが続くと自分の頭で考えることを無くす
しかも、随筆風の部分の2001年は作者の将来で、長生きするつもりで
「そんな風に自分はこの世にいる」と想像するのであって
これもわたしがよくやる手(笑)
いろいろ文学的な思い出やら、薀蓄もわたしにはおもしろかったですね