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絶望とは普段我々が絶望を口にする時のような、意識のみの問題ではなく、状態を指すものである。
そしてその状態に対する意識が絶望に質的な差異を与えるのだ。
そして、絶望とは可能性の窮した状態であり、死とは神の恩恵(すなわち無限の可能性)との完全なる断絶に他ならない。
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ないものばかりが気にかかり、私に与えられているものに感謝することができないから私は幸せを感じられないんだ。
吾、唯足ることを知る。
そんな心境にいつかなれるんだろうか?
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初めて読んだ哲学書。何だかんだ言って、キルケゴールの思想には多大なる影響を受けていると思う。キリスト教を有る程度理解している方が、解りやすいとは思う。
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「死に至る病とは絶望である」キルケゴールの語る絶望は真理であるように思う。しかし、神を信じぬ者には絶望をすることすら許されていないかのような彼の筆致には、反感を覚えつつ憬れも抱く。
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まずキルケゴールがキリスト教的な視点から「絶望は死に至る病である」と言っていることを知らなくて驚愕したり…
勉強させてもらってます。
しかし読めば読むほどキリスト教という特殊な宗教と哲学を結び付けている点は疑問に思わなかったのかな?とも思いました。昔のことなので仕方がないのかもしれないけれど、絶望者の心理状態には丁寧に思索をしている印象があるので。
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読めば読むほどキルケゴールの考え方に囚われていく。なんて魅力的なんだろうと思う反面、恐ろしい。自分は自分で在りたいのか、それとも絶望して尚自己であり続けたいのか。著者の考えのほんの一部も理解できていないと思うけれど、言葉は自然に頭に入ってきた。
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実存主義というマジメな哲学はまったく古くなく、いまだに力強く人生のパートナーたりうる。
大林宣彦の新しい方の「転校生」や園子温の「自殺サークル」の核には、これがある。つまり「自分が自分と関係する」ということを考える。
絶望とは、神の前に自分自身から離れること、そして、神の前に自分自身であろうとすることとである、という。
え、じゃあ、どうすれば絶望から逃れられるのか、といえば、神を受け入れ、キリスト教を受け入れる、ということになる。
これに反発する人は多いだろうが、これは、べつに特定の教団への入信をすすめているのではない。「神」を「人生の意味」に読みかえて理解されたい。
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世界を認識する“私”という存在。西洋哲学の中でそれに眼を向ける実存主義。まず、題名に衝撃を受けました。
キルケゴールはキリスト教における神を通して、己の存在を受け入れる、ということになりますが、キリスト教に限らず、その“神”を別のものに置き換えて、己のあり方、それを考えるきっかけになる本でした。
己の存在を受け入れ、社会との関わりを、その責任を全うする事――
それを放棄してしまうことが“死に至る”事でした。
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キリスト教信仰に基づき「絶望」を突き詰める。さすがに速読しただけではきちんと理解できませんでした。改めてじっくり読みたい。
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最初はのめりこむように読んだが、途中からだれた。ようは自分が良いと思えば良くて、悪いと思えば悪いと言うことを、色んな方面から述べているのだが、結局同じ結論、同じ様な内容な分けで、途中から、もういい加減にしろって思った。内容的には3分の2がそんな感じで、終盤になると哲学・思想のジャンルではおなじみのキリスト教についての話題になるのだが、日々の生活にキリスト教が馴染んでいない日本という国に生まれた俺には、相変わらず、どうも理解できない部分が多い。まぁ、なんつうか、期待はずれ。歴史的な著書だろうが何だろうが、文章としては同じ語や内容のの繰り返しでお粗末だし、題名負けしてると思った。
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「死に至る病」とは絶望のことである。絶望することができるということは無限の優越である。けれども現実に絶望するということは唯に最大の不幸であり悲惨であるだけでなく更に最大の堕落ですらある。
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作品の内容はともかく、人間の生み出したものであるにもかかわらず人間を躓かせ、罪を与え救済を与える神は無神論者のニコにとっては本当に衝撃的だった。
異教徒を徹底的に排他するキリスト教の恐ろしさはほかでもなくこの作品で学びました。
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今最も大切な本は?と聞かれれば、これを挙げるかもしれない。
この本は、熱烈なキリスト者であるキェルケゴールが、真のキリスト者とはどういうものかを語っている。それを無宗教者の僕は、キリスト教ではない人間に普遍的な価値の問題として突きつけられた。
「死に至る病」とは絶望のことだ。絶望とは、「真の自分自身」から逸れてしまっていることを言う。だから、夢に敗れて希望を失った状態だけでなく、安逸に浸って高い人間性を見失ってしまった状態もまた絶望である、と説く。ここでキェルケゴールが言う「絶望」とは、普通われわれが使う意味を含みながらも、かなり違う概念として使われている。
キェルケゴールは、「完全に自分自身であることができる人間はいない」と言う。誰もが本当の自分になれず、不純物を自分自身の中に抱えている。つまり程度の差はあれ、誰もが絶望とは無縁ではない。その絶望を詳述することで、いかに絶望を逃れ、本当の自分(実存)をとらえることができるかを、かつてない高みから説く。のちにニーチェ、ハイデガー、サルトルらに続く実存主義の祖と見なされている。
20世紀の知の巨人であり経営学の祖P・F・ドラッカーは、キェルケゴールを、我々が住むバラバラの世界をもう一度統一した世界にするためには、キェルケゴールまで遡らなければいけないと言う。僕がこの本を手に取ったのも、ドラッカーの小論文「もう1人のキェルケゴール」を読んだのがきっかけだった。
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この作品は絶望について始終言及しているといっても過言ではない。
そういうこともあって、初めて手に取る人はこの本に非常に陰鬱なイメージをもたれるかもしれないし、実際読んでみて陰鬱な気分になったりするかもしれない(経験者談)。
そうだとしても、私はどうしてもこの作品を絶望的な作品だと認めることができない。
絶望を通り越した希望がそこにあるからである。
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「死に至る病とは絶望のことである」――有名な言葉ですが、この場合の絶望とは、一般に想像するそれとは異なる、もっと人間の存在に関わることである、そう論ずるのが本書です。入手から4年にして、キェルケゴールの代表作をやっと読破できました。
前編では冒頭の言葉が副題として掲げられ、絶望の種々の形態が論じられます。が、延々と描写される絶望者の生々しいまでの内面を読んでいると、だんだんと「読まされている」ようなたまらない感覚になってきます。なにしろ著者は、絶望は人間という実存をけっして捉えて離さず、いったんそこに入り込んだ者は容易には絶望から抜け出すことはできない、しかも当人が自身の絶望を意識していればいるほど、その度合いは重く脱することもより困難になる、ということが、延々100ページにわたって綴られているのです。しかもそこまで書いているのに、肝心の絶望の対象や本質には、ごくごく抽象的なことだけでしか触れられていないのです。何より恐ろしいのは、絶望者の生き方が現代社会に生きる人々に驚くほどに合致してしまうことでしょうか。「なりたい自分」「自分探し」果ては「自己実現」。10年前くらいから頻繁に聞くようになったそういったものすべてに、絶望に通じる危うさが潜んでいるのではないのか。そう思えるのです。キェルケゴールは一体どうして、これほどまでに絶望した人間の内面を洞察することができたのでしょうか。
そして後編には「絶望は罪である」という副題がついています。罪といってもcrimeではなくsinのほうですが、絶望することは神に対する罪である、と今度は説いていきます。しかし、罪であると宣告しそれを糾弾する文章には、同時に著者の優しいまなざしが含まれています。「絶望者よ、神の慰めを受けなさい。神はあなた方の絶望を慰めさせてくれと、身をやつしてまで嘆願なさっておいでなのだから」と。そこには、一人の人間の「実存」は、神の前にあって初めて明らかになるという思想がしっかりと流れています。
キェルケゴールのいう「絶望」とはすなわち神の信仰の喪失である、ということでしょうか。「信仰の喪失」という語句は本書では一度も使われませんが、読んでいてそんな言葉が浮かびました。PTSDのより重篤な疾病概念としてべセル・ヴァンダーコルク氏らの提唱した「DESNOS」には、この神の信仰の喪失が診断基準の具体例として挙げられているそうですが、これがどれほどの意味を持つのか。改めて理解してショックを受けました。
(2005年入手・2009年2月読了)