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投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
朱子学といえば江戸幕府が公認学問として奨励し身分制社会に都合が良い学問だったという先入観を持っていたが本書ではそういう話は一切出てこない。性善説をもとに性とは理とは心とは善とはということを探究していく学問なんだという風に感じた。
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木下鉄矢『朱子学』講談社,2013年:「朱子学とはどのような学問か」という問題を追及した本で「学」「性」「理」「心」「善」の五字を綿密に読み解いている。木下氏の方法は弟子の書いたノートである『語類』よりも朱熹(1130-1200)その人が書いた注釈や問答、講義に依拠するという方法である。最初の「学」は「〈われ〉の主体者としての覚悟と力量を涵養する試み」とされ、「性善という人間の真実にめざめる」ことである。この議論に先だち、氏は朱子が書いた注釈のスタイルを分析している。「AB也」「A猶B也」という注は「ここでの意味は」という文脈上の注釈である。これらは「物は事なり」「命は猶ほ令のごとし」など、注釈が必要でないかにみえる常用語について解している場合が多く、「A猶B也」は「AB也」より気持ちの猶予がこめられているそうだ。これに対し、「A之為言B也」はAの語源的根源的な「ラディカル・センス」がBだとする注釈である。『論語』の「学びて時にこれを習う」の注に朱熹は「学之為言、效也」といい、「学」の本質が先覚を「まねる」(效)こととなる。また、『論語』のキーワードの一つに「己」をあげ、『論語』の「いにしえの学者は己のためにす」や「仁を為すに己による」などの注釈から「仁を為すことを起動する機(引き金・スイッチ)」が「己」にあることを指摘している。「己」には善なる性が、天地が人物を生んだときに、否応なく組み込まれており、これを「得ている」(自分のものにしている)のが人であり、善なる性を起動するスイッチはあくまで「己」である。人は善を行うための操り人形ではないのである。では、「性」とは何かというと、後漢の鄭玄がいうように「生の質」(生まれつきのたち)ではなく、朱子によれば、程頤にもとづき、「理」なのである。そして、具体的には「仁義礼智信」(「玉山講義」など)の徳=心理機構のセットであるとする。氏は朱熹の『大学章句』や『語類』では「仁義礼智」としてしており、改訂があるとする。さらに、「性」は「気」や「心」などの媒質があってはじめて働くとしている(グラニュー糖に蟻が気づくには水をたらさねければならないという「実験」をしている)。「性」のあり方には四つの疑問が呈されていて、「性」は気の塊である「心」にあり、人・物のすべての個体に性は同一で、「太極」をひきついでいるという点で人や物に共通であり、「太極」を自分のものにしているので、一身の行動の主動者である「心」が重要であるされる。「性」に関して「形」と「象」のちがいも指摘している(これはshape[形]とform[象]の違いに近い)。ともかく、「性」は「理」であるが、では、「理」はなにかというと、「理」(=太極)とは「動」「静」のスイッチングするバランス感覚、または「意志」である。氏は「理はどうように存在するか」という問題を設定し、ここで関わってくるのが、朱子が「天命」の「命」を「令」と読ませることである。「命」は「特定の個人に特定の命令をする」ことであるが、「令」は「職務令」であり、その職務にあるものが一般的に守らなければならない規定である(穀物倉庫の番人などの例で説明)。氏によれば、「理」は「令」と同じ形式で存在し、「純粋な意志」として存在しているとする。また、「理は何に関わるのか」という問題も提起し、ここで関係してくるのは「物」である。朱子は「物」を「事」と読むように注釈している(『大学章句』ほか)。つまり、「物」とは人間が応接する生々しい「現象」である。「事」には「職」の意味もあり、「役目」の意味がある。このような「現象」としての「物」の「役目」を「プログラム」する存在として「理」は「物」に関わっているとしている。氏によれば、朱熹は『大学或問』で「理」には「然る所以」と「当に然るべき所」の二つがあるが、『経筵講義』では「然る所以」が削除されており、この背後には朱子の考えの変化があったと指摘している。この変化とは人間の行うべき「当然」をしっかりと得れば、「然る所以」は自ずから得られるというものである。ここに「心」の問題がでてくる。なお、氏によれば朱子の「理」に関する考えには、一貫性のヨジレがあり、朱子学が体系的に完備した思想ではない面もあるとする。「心」は基本的にいろいろな現象の「感」(うごかし)に応じる「感応」(知覚)の束で、「仁義礼智」の「道心」がでてくることもあれば、「飲食男女」に代表される「私欲」がでてくることもある。朱子は、私欲も天が与えた「善」であるとしていて、「外物に誘われる」ことに問題があるとしていた。「理」に関する朱子の考えの変化も「心」の二つの理路、「形気」(欲)と「性命」(仁義礼智)に関する考えの変化からきていると指摘している。最後は「善」についてであるが、人間が天地からうけついでいる「性」を活性化し、天地がエネルギッシュに物を生むように、人や物を育て生かすこと(化育)が「善」であるとする。そして、宋学の「聖人学んで至るべし」という学問の目標も、「聖人」になることが目標ではなく、天地の化育を人として助けること(これは聖人がなしうる)が真の目標であるとしている。全編、複雑に連関しており、島田虔次氏など先覚の通説を批判しつつ、日本語のフィルターを外して、古代中国語の語感にせまっている。「神」「霊」「妙」などの難訳語に対しても名詞ではなく、「状態詞」という品詞を設定すべきであると提言している。難しい本であるが、たいへんためになった。「理」を「プログラム」とすることについては、朱子の文脈では氏のいうようでいいのだろうが、「プログラム」というのは、制御するハードウェアがなくては存在しえない。すくなくともハードウェアがなければ無意味である。たとえばコンピュータにおける「判断」は加算回路で引き算を行い、その符号のみを利用することで成立している。プログラム(理)が先か、ハードウェア(気)が先かという問題は、明代にはややこしい問題になっていると思うが、氏のこの比喩は朱子学の展開にも示唆を与えてくれるのではないかと思う。
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朱子学について学ぶ時、「性」「心」「善」といった語が重要であることはわかるものの、それが一体何なのか明確にとらえることがなかなかできず、いつも気持ち悪い思いをする。その点、この本は、それらを朱子の関係するテキストを丁寧に示しながら説き明かしてくれる。またそれぞれの説明において「すなわち・・・」として、明快適切にまとめもらえているのはありがたい。「格物」の「物」という語の捉え方も勉強になった。ただ、そのことに関係して陽明学について触れられているが(154頁)、これについてもう少し詳しく知りたかった。もし王陽明が「物」をモノ(物体)でなくコト(現象)と捉えていたならば、朱子の立場を批判することはなかったのかどうか。本書の最終章を読んだ印象では、王陽明も人間の心のあり方について、結局朱子と同じような捉え方をしているような気もする。理解が不十分であることを露呈するようではあるが、そんなふうに質問すれば、著者はきっと誠実かつ丁寧に答えてくれるだろうと思う。そんな気になる良書だ。
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朱熹の論に対する著者の考察がひたすら述べられているというかなり思い切りの良い構成。朱子学そのものに対する解説もないに等しい。また、朱熹の著作は当然として、過去の主要な解説書を読んでいることを前提とした考察なので少なくとも最初に読む本ではない。幾つか解説を読んでなにか違うと感じたら読んでみる本だと思う。
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タイトルは「朱子学」となっていますが、伝統的な朱子学の展開を概説した本ではありません。朱熹のテクストを引用して、そのていねいな読み解きをおこないつつ、著者自身による朱熹の思想の解釈を提出している本です。とりあげられているテーマは、「学」「性」「理」「心」「善」の五つです。
著者は、「朱熹の思想は首尾一貫する体系性を持ち、中国史上に現れたさまざまな思想の中でも飛び抜けて完成された論理的整合性をその大きな特徴とする、という認識が実は相当に誤った断定であると感じざるを得ません」と述べています。本書では、朱熹そのひとのテクストのうちに思想の揺らぎを読み解くときつつ、とりわけ存在論と倫理学・政治思想を一体のものとして理解するような伝統的な朱子学の解釈に対する異議申し立てをおこない、朱熹そのひとの思想をテクストそのものに立ち返ることで正確にとらえることをめざしています。
ただし著者は「はじめに」で、朱子学をたんに朱熹そのひとの思想と理解することはできないと述べています。「日本朱子学」や「朝鮮朱子学」ということばに含まれる「朱子学」は、「趣旨の行い示した学」というだけではなく、「趣旨を先達、先覚と仰ぐ「学び」」であり、それを通じて「われ」の真実にいたることがめざされていたという指摘がなされています。このような立場から、あらためて朱熹の思索そのものと格闘し、「学び」の実演を示しているという意味では、本書を朱子学の入門書と呼ぶこともあながち的外れではないのかもしれません。
このように、かなり意欲的なねらいをもった本ではありますが、いわゆる朱子学の概説書としては、本書で厳しく批判されているとはいえ、島田虔次の『朱子学と陽明学』(1967年、岩波新書)の意義は現在でもうしなわれていないのではないかと、個人的には考えます。