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安易に本書を手に取るな!本書は読者を厳しく選別する本である。高学歴者以外、近寄ってはいけない(笑
2009/03/06 23:29
16人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
高田里惠子の本である。彼女の繰り出す文章の不思議な引力(魅力という言葉を敢えて使わない)につられて、また買って、読んでしまった。まず最初に断っておくが、本書は一般大衆向けに書かれた本ではない。あくまでエリート高校から東京大学のようなエリート大学(まあ、京都大学、大阪大学、一橋大学、東京工業大学も可とする。ただし早稲田、慶応は不可)に入学し、卒業した人限定で書かれた本である。この範疇に該当しない人が、うっかり手に取ると、かなりの確率で不快な気持ちになるのではないか。それくらい「いやったらしいエリート主義臭をぷんぷんさせた」本であることをあらかじめ知っておく必要がある。
どうして「いやったらしいエリート主義臭ぷんぷん」の本を高田は連発するのか。その意図が、実は常に曖昧にされている。ただし高田は本書の巻末で若干のヒントを読者に提供している。キーワードは三つ。「世代」「学歴エリートたちの孤立」「異質なものとの接触」。本書は基本的に一高東大と進学した超エリート(同世代のわずか0.7%しか大学まで進学できなかった時代である!)が軍隊という「平等社会」に投げ込まれて「懊悩する」ことが縦糸となっている。世代というのは世代によって「徴兵をまぬかれ得をした世代」と「徴兵されて損をした世代」とも読めるし「世代によって海軍短期現役士官制を利用してそそくさと士官となって優雅な軍隊生活を送った世代」と「二等兵として内務班生活を余儀なくされた世代」とも読める。「学歴エリートたちの孤立」については、エリートとはそもそも庶民とは別格の存在で、基本的には下民とは親しく交わらない存在であるにもかかわらず、これを高田ですら「孤立」と表現するところに日本社会における「エリート」の特異性があると読むことも出来る。19世紀から20世紀にかけて日本では階級制度、社会制度が大きく変わった。明治維新でそれまでの支配階級だった武士が否定され四民平等が掲げられタテマエとして能力主義、平等主義が打ち出された。しかし、社会には社会を運営するエリートが必要である。そこで新たに創設されたのが「学歴エリート」なのである。近年、安易に欧米社会と日本とを比較することが盛んだが、欧米、特に欧州は、いまだに江戸時代のような階級社会の残滓を引きずっている社会だ。欧州には、いまだに階級格差が厳として存在し、エリート校とは社会からあまねく人材をすくあげる装置というより支配階級の子弟を支配階級の後継者たらしめる階級の再生産装置といった側面が強い(欧州の上級エリート校は江戸時代における藩校のようなものと考えると理解が早い)。かの地のエリートは「である(Be)」存在なのに対し、日本の学歴エリートは「なる(Become)」存在であることも理解する必要がある。既に地位も財産もある階級にとって、必要なのは名誉だけであり、名誉獲得の手段として「教養を極める」ことは重要な手段であり目的となるのだが、日本のような「地位も名誉も今後とも延々と続く出世競争の末に一瞬だけ手にする(ことが出来るかもしれない)学歴エリート」にとっては、「教養」とは常に「それは何の役に立つのか」という問いの対象となる。それは戦後のみならず、実は教養主義が横溢していたはずの戦前の旧制高校時代もそうであったことを高田は本書ほかで暴いていくのである。これに関連して、貴族階級を憎むヒトラーが能力主義に基づく平等な組織としてヒトラーユーゲント(及びその延長線上としての武装親衛隊)をドイツ貴族が支配するドイツ国防軍(及びその支配機関としてのドイツ参謀本部)に対抗する組織として設置し育成したという記述は興味深い。
社会におけるエリートの位置づけの違いは、軍隊に対するエリートの姿勢にも明確に現れている。欧州では「社会を統治する支配階級として一般大衆の先頭に立って軍を率いるのがエリートの本分」と思われていた。日本だって江戸時代はそうだった。これが明治維新で大きく変わった。エリートとは刻苦勉励の果てに栄耀栄華を極めるために「なる」ものになり、戦場で華と散るのは「話が違う」と明治以降の日本ではなってしまうのである。その意味で、日本ではノーブレスオブリージュという概念は掛け声としては常に存在しても「階級に染み付いた作法」としてはついに定着しなかったのである。なぜなら能力主義によって公平に選抜された「なる」エリートは、そもそもノーブルな存在ではないからである。参考までに「戦争とはお武家のするもので百姓町民のするものにあらず」という通念は日露戦争の頃までは一般常識として日本社会に広く共有されており、この社会通念を歌にしたのが与謝野晶子の「君、死にたもうことなかれ」で(戦後、サヨクが盛んに反戦の宣伝材料に晶子の歌は決して反政府反戦の歌ではなかった。だからこそ明治政府はこの文章を禁書にもしなかったし晶子を逮捕したりもしなかった)。一方で、庶民が蠢く血の池地獄から脱出して天上界へと解脱することを狙いつつ、一方で己の出自ゆえに一般社会からの「孤立」に悩むというのも日本的学歴エリート独特の特徴だ。本来エリートとは一般庶民とは「別種」の存在であり、下民にどう思われようと気にも留めないし関心も持たないものなのである。英国の貴族は戦場において、庶民兵士は数万単位で戦死しようがなんとも思わず、彼らを「将棋の歩」よろしく差配しつつ、たった一人のイートン校の同級生の戦死の報せを聞くと日がな一日涙したという話を聞いたことがある。
最近「新自由主義の蔓延による格差の拡大で憲法が保障する教育の機会均等が失われる」などという駄法螺を吹聴する学者が横溢している。しかし本書を読めば分かるように、日本ではタテマエとしての機会均等は今も維持されているし、世界でも稀なほど平等な社会であることは高学歴者なら分かることだろう(主要先進国中最も厳しい相続税を見よ)。そしてホンネベースでは、昔から教育機会に関する格差は厳然と存在し、受験競争の主役は昔も今も家庭の文化的資本と経済的資本に恵まれた中産階級であったことも本書に書いてある通りなのである。戦前は超格差社会で、その時から中学受験塾もあったし(丸山真男は府立一中受験を目指し母に塾通いを強制されている)、受験に熱心な母親は昔からいて中学受験名門の文京区誠之小学校や千代田区番町小学校に息子を越境入学させるため八方手をつくす教育ママは昔もいたことが本書を読むとわかる(こういうディテールが高田本の魅力でもある)。
さて最後になぜ高田が本書を書いたのかについて私なりの仮説を述べよう。なぜ高田はこういう「いやったらしい」本を書くのか。それは、教養に憧れ教養の獲得に前半生を費やしたにもかかわらず、さして尊敬もされず、しがない「ただの大学教授」にしかなれず、しかも高校大学と進むにつれ縁遠くなっていたはずの「出来ない坊主」たちに私大の教室で再会せざるを得なくなった現在の自分を、戦前の軍隊で現在の自分と同様の境遇に陥ったかつてのエリートたちに仮託して自分を癒す。これが高田が学歴本を世に送る本当の動機ではないか。こう私は密かに疑い始めている。
過去は現在の一部。
2008/12/02 19:08
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本に引用されている安岡章太郎の言に倣えば、過去は次に来る現在の一部を内在している。戦前が、元祖格差社会だったことは否めないが、戦後の平等社会の萌芽は、なんと軍隊にあったと作者は述べている。
「大衆化・平準化は戦争によって加速され、戦後の社会へとつながっていった。その動きを、高学歴兵士たちは、文字通り生身で体験したのである。旧制高校・帝大ルートに乗った、当時の若い学歴エリートたちは財産的・経済的な意味での特権階級というより、精神の貴族としての特権的共同体を形成していたが、帝国陸軍という平等あるいは不平等世界とのかかわりのなかで、彼らの正の面と負の面とがともにあぶりだされてしまったのだった」
貧しく学歴も低い人々も、帝大出の学士様もたとえば同じ二等兵として入隊する。三食食えて寝場所もある。下々の人はなんて軍隊は平等なんだと思うし、一方インテリゲンチャの学士様は内心忸怩たると思いというのか、不平等感を抱くだろう。まして学のない上等兵に理不尽な命令をされた時などは。
学生がアルバイトをしてヘマすると、そこの古参社員や先輩アルバイトから鼻白まれて、
「だから学生はダメなんだ」とか「勉強はできるかもしれないが、社会は学校の勉強とは違うんだ」とか、言われたりする。ぼくも似たような目にあった。それと同様に、本書によれば、「高学歴兵士」は、さほど期待されていなかったそうだ。ただし、戦前のほうが貧しくとも頭が良ければ、現在よりも「旧制高校・帝大ルート」というエリートコースへ進む機会は多かったんじゃないかなとも思う。だっていまどきの東大進学者の親の収入は、高額だそうだから。生れついてのセパレートコースって気がする。
青白きインテリじゃなくて文武両道、オツムも良くて勇猛果敢な「高学歴兵士」はいたことはいたそうだ。んで「旧制高校・帝大」出身者は、いま一度「精神の貴族としての特権的共同体を形成」を夢見ているとか。パブリックスクールなどのようなエリート育成機関(虎の穴)。いるんじゃない。MBIの資格取って外資で企業コンサルしている高給取りの人とか。それが、ノブレス・オブリージェの本音なのだろうか。だとしたら、誤解していた。
「社会学者の内藤朝雄は『いじめの社会理論』のなかで「中間全体主義」という考え方を提出している。要するに、学校や会社や町内会などの中間的共同体が個人に参加や献身を強制するというかたちのファシズムなのだが、-略-先ほどから問題にしているリベラルなインテリ層が戦争末期に下士官タイプの人間にいじめられるというものなのだ」
この箇所も実に首肯できる。「中間的共同体」とは、サイレントマジョリティ、大衆のこと。「中間全体主義」とは「赤信号みんなで渡ればこわくない」ってことか。この層が、あたかもオセロゲームの如く、被害者、加害者と立場がころころ変わっていく。
『男の子のための軍隊学習のススメ』のレビューに続く。
独特の文化
2024/05/26 14:32
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
旧日本軍、中でも主として陸軍と、旧制一高を中心とする当時のエリートたちを合わせて論じたものである。両者ともに独特の文化を築いてきたのであり、これが交わるとどのようなことが起こるのか。
何、これ?
2008/07/28 21:55
10人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
戦時中は勿論、旧制高校卒や帝大・私大卒は超エリートだ。その超エリートが大した学歴のない古年兵や下士官にいびられた思い出ばかりかき集めただけの内容で、著者が何を言いたいのか、理解不能な本だ。文体もひどいし。ついでならば、朝鮮人・台湾人も取り上げてほしいものだ。そんな事を羅列するならば、陸海軍の学歴のある人を対象にした制度の紹介や実態でも書いた方がまだましだ。(そう思って買ったから余計だ)。
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