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紙の本
「所有」をめぐる愛のダイナミズム
2002/05/07 17:02
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投稿者:森岡正博 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「愛する人を所有するということ」、これはほんとうに悩ましい問いだ。だって、誰かを好きになったら、どうしてもその人を自分だけのものとして独占したくなるだろうし、それがさらに進めば、その人のことを一部始終監視していたいという気持ちに襲われるかもしれない。
でも、好きな人を独占して、その人にまったく自由を与えないというのは、「その人を愛していること」ではないにちがいない。では、いったいどうしたらいいのだろう。好きな人のことを、まったく縛らないなんてことができるんだろうか。
浅見さんは、この本の中で、次のように考える。誰かを愛し始めた人は、その人をどうしても所有したくなる。
だが、もし仮にその人をほんとうに所有してしまえば、そのとき「愛」は終わるであろう。なぜなら、愛とは、自分のコントロールを超えた他者によって、この私が津波に襲われるように翻弄され、私が私であるという同一性を破壊される寸前にまで押し流されてしまう、ということでもあるからだ。
そして、私の同一性が破壊される崖っぷちで、ぐっと踏ん張って、みずからの自我を保持し、なんとかサバイバルしようとする試みこそが、「愛」なのだと浅見さんは考える。相手によって自分が壊されるという動きと、それを克服するために自我を再生させるという動きの、両方を巻き込んだダイナミズムとして「愛」というものをとらえるのだ。
浅見さんは、さらに、セックスの営みにおける愛撫を例にとって、「自我」や「所有」が立ち現われない融解状態というものがあることに注意をうながす。だが、人は、このような融解状態にいつまでもとどまっていることはできない。やがて人は、融解状態を離れて、ふたたび「自我」と「所有」の世界に戻ってくるのである。
この二つの世界のあいだで引き裂かれざるを得ないのが人間の「愛」であると浅見さんは言っているように見える。
私自身は、所有を離れた愛への道筋は開かれていると考えるが、浅見さんのこの本は敵ながらあっぱれという出来映えだ。
初出:信濃毎日新聞
紙の本
愛を語ることの不可能性
2001/09/15 13:51
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投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
愛、あるいは最近では「恋愛」の研究において、どうしても避け難いアポリアが存在する。それは、小谷野敦が『<男の恋>の文学史』で述べているように、恋愛、愛の研究家は総じて「通奏低音のように「恋愛(や結婚)はいかにあるべきか」という「問題」に対する答え」を出そうとしてしまう。結局、研究はいつしか研究者による「べき論」になり、つまり教訓的、説教的な論になってしまう。
本書は、愛するということには、その愛する対象をつまり他者を「所有」する/したいという罪を避けることはできないということを中心として「愛」の分析をしている。そして、「所有」を介在しない「愛」は可能なのかという巡って、議論が行われる。では、なぜ「愛」には「所有」が付きまとってしまうのかといえば、他者を「愛」する、すなわち特定の人を特別な関係を結べば結ぶほど、主体の同一性が揺らいでしまう。他者の侵入における自我の揺らぎを止めようとするとき、他者を「所有」したいとなる。「所有」するということは、他者を自分の自我の同一性を脅かさないように害のないように、他者を抑圧してしまうことだ。
こうして、自我は同一性を確保しようとすると、どうしても他者を「所有」しようという意思も働いてしまうらしい。そういうわけで、本書では「所有」はネガティブに論じられる。「愛」に「所有」があれば、互いに傷つけあう結果になり、最後は「愛」は不可能ではと思うようになるだろう。
本書は「所有」という罪を逃れた「愛」の可能性を探ろうとしている。だが、全体的にネガティブな印象がある。「愛」や「所有」について分析されるほど、読んでいるほうは窮屈になってくる。それは、はじめに書いたように、「愛」を語るとどうしても最後はなぜか「愛」の理想論になってしまうからだ。それは、著者の理想の「愛」を押し付けることになる。それがよく現れているのが、第5章である。ここでは、愛する他者から自分の理想とは異なる者を発見したとしても、その刺激から新たな自分に改変していく「関係」が述べられている。
「それは、愛する者と相手との「関係」が生み出す存在の振動と輝きであり、いずれの当事者の存在にも還元できない「あいだ」の「なりゆき」が創造する、存在の活気と躍動にほかならない。そのときの愛は、次々と立ち現れる他者の魅力に結びつこうとする態度よりも、互いの交わりを通じてお互いの存在の振動と輝きを生み出すことそれ自体を追求する関わりとなっている。」
この部分を読んで思わず、「愛」の弁証法かなと思ったのだが、これが良いとか悪いとかということよりも、問題はこのような「愛」の形を提示することは、この「愛」に当てはまらない関係は「偽りの愛」となってしまうことである。これが、「愛」を語ることにおけるアポリアではないだろうか。すなわち、ここで著書は思わず「「恋愛(や結婚)はいかにあるべきか」という「問題」に対する答え」を出そうとして」しまっているのである。私が、この本を読んでいて窮屈だと感じたというのは、このことが原因なのである。ここで、「愛」の分析が、「愛」の理想論になってしまうのである。
ちまたには「愛」や「恋愛」を語る人や本が溢れている。だが、そのほとんどが「愛とは何か」ではなくて、「愛はいかにあるべきか」という語りになっている。「愛」の理想論ではなくて、「愛」そのものを語ることは出来ないのだろうか。
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