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「えー、こんなことまで活字にしてんのお~」と妻は絶句した!
2009/05/21 20:33
19人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ある意味で小谷野氏の人生を救った快著いや怪著である。「もてない男」とは、あくまで自分(小谷野氏)が惚れた相手に思いを通じさせる男のことであって、地上に存在するあらゆる女性から全く相手にされない男(箸にも棒にもかからない男)という意味ではないそうだ。小谷野氏自身、この本を書くまで大学生活含め「まったくもてなかった」そうだが、かといって全く女性にご縁が無かったわけではなく、こっちは全く興味はないが向こうは当方(小谷野氏)に興味があるという状況はそれなりにあったそうだ。
それにしても、よくもまあこんな本を書いたものである。これは小谷野氏版「ウィタセクスアリス」とでもいおうか。小学校の頃、棒登りをすると股間が妙に気持ちよいので何度も登ったという告白にはじまり、童貞だった大学(院)生の頃、深夜いそいそとレンタルヴィデオ屋に向かい堪能するようにアダルトヴィデオのパッケージを眺めたとか、10年もアダルトヴィデオでオナニーしていると飽きてくるとか、よくもまあこんなこと活字にしたなあという記述がこれでもか、これでもかと出てくる。
なかでも最高なのが「ああ、妬ましい。悔しい。どいつもこいつもいちゃいちゃしやがって。爆弾でも投げてやろうか。なんで俺ばっかりこんなに孤独なんだ。だいたい俺は東大出ているんだぞ。こんなに女にもてなくて振られてばっかりいるんなら、なんで苦労してあんなに勉強したんだ。あいつら、頭はからっぽのくせしやがって。少おしばっかり背が高くてしゃっ面がいいだけで、下手すっと日本がアメリカと戦争したことも知らねえで、アメリカの首都はニューヨークだと思ってんじゃねえか」(104ページ)。なんでも著者は本書を「義憤」ではなく「私怨」で書いているんだそうだが、いやはやなんとも。
これだけあけすけにプライバシーの切り売りをして内面をぶちまけている小谷野氏だが、読後嫌悪感より爽快感が残るのは、氏が基本的に真面目で純粋で女性に対して真剣だからだろう。要するに憎めないのだ。小谷野氏は売買春をきっぱりと拒絶している。プロの売春婦相手に性欲を処理するのは不潔で虚しく、やはり異性との精神的結びつきを経て肉体的結合に至るのが重要なんだと繰り返し述べている。このあたりが彼が好感をかもし出す所以ではないか(ただ東南アジア、モスクワ、東欧なんかでは、江戸時代の遊郭よろしく半分素人相手の擬似恋愛みたいな売買春もあるとも聞くんだけどなあ)。
「女は押しの一手だ」とか「強姦された女は強姦した男を好きになる」などという話は大嘘だというのはその通りだろう。「ラブレター」にまつわる神話もその通りで、興味も関心もない男からラブレターをもらった平均的な女性の感想は「気が重い」「どうして処理していいかわからない」「気持ち悪い」といったもので、およそ「文章の力で女性を振り向かせる」なんてことは不可能のようだ。自分の文章力に抜群の自信を持っていた立花隆は「千通のラブレターを書いて、あの女性を振り向かせて見せる」と宣言して実践し、自爆轟沈している(笑。
山口昌男、筒井康隆らが1975年に某女子大大学院日本文学課修士課程卒業生のお別れコンパで起きた教授による女子学生強姦事件において強姦犯の教授を弁護し、教授を訴えた女子学生に罵詈讒謗を浴びせているという話も俄かには信じられない話だ。特に山口は女子学生を強姦した二人の大学教授を弁護しようと「強姦という文学的行為をしてくれた人物(大学教授)への憎しみから、告訴という破壊行為に走るようでは、大学院で文学をやる価値など全く無い」「憎しみだけで二教授の文学的業績を葬ろうというのは。。。最低だし、そもそも二教授の文学的業績を認めていなかったことになり、やっぱり大学院での勉学は無駄だったのだ」などと放言し、その勢いで「満26歳、数え年で27か28のオールドミスの貞操が、二教授の社会的生命及び学問的業績及びその家族の生活をおびやかすほど価値があるものなのかどうか」(いずれも月刊「太陽」平凡社1975年9月号掲載記事で、同じものが「知の遠近法」岩波現代文庫にも収録されている)などと書くに至っては、全くの噴飯モノである。正気か?山口昌男!今なら、即、大学教授解任なんだけどなあ。惜しい!
もっともその同じ筒井康隆が医者から禁酒禁煙を指導された際、同席していた奥さんの前で「わたくしは何を楽しみに生きたらいいんですか」と叫び、奥さんから「私がいるじゃない」とたしなめられたりしている。こういう「ちょっといい話」がこの本の救いなのではないか。
自分はちゃっかり結婚しておきながら「非婚のすすめ」などという本を書くデブの売文業者森永卓郎を「大馬鹿野郎」と一刀両断するあたりは小谷野節の真骨頂である。
まあ、小谷野氏の気持ちは分かる。私は彼とほぼ同世代で、私たちが大学生だった頃は、あの軽佻浮薄な山田吾郎あたりが仕掛けた「ホットドッグプレス」なんかが全盛を極めた時期で、要するに大学生になった以上、彼女がいて当たり前で、クリスマスは二人でホテルで迎えようなんて、ほんとにそんなことやっていた奴が何人いたのかという企画が世の中を席巻していた時期だ。こういう無責任な連中が無責任に世間を煽った結果、小谷野氏のような「良心的な人」が非常に苦しめられたというわけだ。全く、軽佻浮薄な連中が商売のために男女関係だのセックスだのを商品化して煽るというのは、まことに無責任で有害な行為である。それにだ。大学時代同衾した「彼女」がいたとしよう。そのままゴールインすればよいが、かなりの確率で分かれたりする。そうなると双方かなり心に傷を負ったりする。見事20歳そこそこでゴールインしても、その後、飽きてきて分かれたりすることもある。だんだん相手の短所が鼻についてきて我慢できなくなることもある。男女関係は真に複雑怪奇なものだ。男女関係は帝国主義に似ている。小谷野氏は「植民地が欲しい」ともがいていた日本やドイツみたいなもので、彼の主張は「持てる国と持たざる国」の不平等を説いた「英米本位の平和主義を排す」に通じるものがある。しかし、実際に膨大な植民地を持った国々はその後莫大なコスト負担にあえぎ、最後はフランスのアルジェリア戦争のように大きな犠牲を強いられて撤退を余儀なくされた。妾だの愛人だのは、恐ろしいまでの所得分配の不平等が存在する社会で初めて可能となる話しであって、今の日本のように世界でも有数の超平等社会では、こうした逸脱はほとんど不可能なのである。その意味で小谷野氏は極めて小市民的で健全な存在である(だって悶々としたのは小谷野氏ひとりであって、誰も傷つけていないでしょう)。
それにしても同世代なのだから、「おかず」として宇野鴻一郎の一連の小説や漫画では芳谷圭児「高校生無頼控」「カニバケツ」「学校の探偵」や叶精作「実験人形ダミーオスカー」が出てこないのはどうしたわけか。なんか理由でもあるのか。
知りたくないようで、実は指の隙間から覗いてみたい男のキモチ
2002/06/26 20:24
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぱおっち - この投稿者のレビュー一覧を見る
ここでいう「もてない男」とは、性欲を金で解決できるような輩とはまったく対極にいる人種である。理想ばかり高く、そのへんにいる手直な女子などでは妥協できずに、しかし本当に焦がれる相手には見向きもされずに悶々とした日々を送るようなある意味純(?)な男性のことを総称してそう呼ぶらしい。確かにその点女性は妄想に走る傾向は少なく、現実に地をつけた恋愛や結婚をする傾向にある。妄想と現実の狭間に悩みつつも折り合いがつけられない男は、現代女性に「キモい」「クラい」などとくくられてしまうが、そういう男子って、現実に妥協できない人種であって、実はある種の潔さがあるのではないかな?などとも考え直してみたりして。でも結局、最終的には「空想で生きていけるかよ!」なんて思ってしまうあたり、やっぱり私は女です。
もてない男でいたい症候群
2002/03/29 00:55
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:egg - この投稿者のレビュー一覧を見る
小谷野氏の言う「もてない男の恐怖」はまさしく同感である。童貞時代、飛行機に乗って「このまま飛行機が落ちたらニョショウを知ることもなく死ぬのだ(詠嘆)」という感情に何度となく襲われた。その感情の深いところには「世界の約半分の秘密を知ることが永久に出来なくなる」という根源的な畏れがあった。
僕は、もてなかったのか、もてたのか、正直よく分からない。だけど「俺はもてるんだ」などという認識は、恥ずかしい。過剰な自意識の病だと思う。逆に「俺はもてない」という自己認識もあまり釈然としない。あまりに世界を固定化して捉えているからだ。現実は「もてたりもてなかったりする」もんだよね。だから「俺はもてない」と決め付けることも過剰な自意識の裏返しに過ぎないし、本人の「現実認識のなさ」を露呈している。どちらもいないしどちらだけという人間もいない。この貧困な2分法は従って「非現実な概念装置」であるということになる。
つまるところ、その概念装置を身にまとうことが「美」なのかどうか?という「スタイルの問題」になるのだ。
しかし、そう考えると「もてない男」という概念に対して、ますます僕は共感を覚える。少なくとも「もてる」概念男よりも「もてない」概念男のほうが存在的に平和にちがいない。腰も低いし、人を殴れない感じがする。僕は基本的に「もてない概念男」でいたいと思う。
だが、恐怖もある。僕は、もてたり、もてなかったりした結果、結局は現在の女房と結婚でき(これは結局もてたことになるのか?)子供が二人いる。その長男の行動と眼差しを見るにつけ、「ああこの子もいづれ僕と同じような男の根源的恐怖を感じるのであろうな…」というオヤバカ的感慨に浸ってしまうのだ。その恐怖の共有に親子を超えたどうしようもない男の浪漫なんぞを感じてしまう。
おお! 息子よ! お前もなんとかかんとか「生涯の女性」を発見するまでものすごく苦しむのだなぁ…ひょっとして見つけられなかったりしたら、その父である僕も未来に再びその恐怖を追体験(?)することになるのだなぁ…。
結婚できたからといって決して「もてない概念男」は捨てられないのだ。ここらへんに、悲しさとともにどうしようもなく「俺はもてない男でいたい」という欲望が滲み出してくる根本があるのだ。
面白悲しく痛ましい
2002/01/17 10:16
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Snake Hole - この投稿者のレビュー一覧を見る
なんつうかなぁ,世の中には立場によって読みましたよ,あれ,とか言いにくい本というのがあるではないか。で,買ったくせにずっと読まないでいたのである。つまりですね,40ツラ下げて独身でいると,こういう題名の本を読んで「面白かった」と言うことにコトバ通りの意味以外の「ニュアンス」というものがついてまわってしまうんである。これがまことに煩わしいのだ。
著者小谷野クン (いきなり親近感持って「クン」とか呼びたくなっちゃうのだ) の論旨はつまり,「今の世の中は恋愛教に冒されているのであり,その中で『恋愛弱者たるもてない男』たち不当に貶められている!」というもんで,このことを古今東西の文学,戯作,マンガに評論などを引き合いに出しつつ面白悲しく痛ましく説いて行くのだ。
本人はこの文章を「私怨で書いている」と言うが,だからこそ面白い読み物になっている。特に「源氏物語」は平安期には「オナニーのオカズだったはずだ」という論考とか,高橋留美子「めぞん一刻」を引き合いに出しての「女は押しの一手」というのは罪作りな幻想だ,という議論,そして「妾の存在意義」と題した愛人論などは,掛け値無しに読むに値する。
しかし何よりも評価し賞賛すべきなのは彼がこの本をこの題名で書き出版したそのこと自体である。この本が売れ彼の論考が有名になればなるほど,必然的に彼は「『もてない男』の小谷野さん」になっていくのであり,文字で書けばカギカッコがつくからまだしも,会話の上では「もてないおとこのこやのさん」なのである。そして,付和雷同メダカスクール的傾向を強めるこのクニの風潮では,「もてないおとこの」とキャッチフレーズのついた男に惹かれる女性は加速度的に減少し続けているのである。
「もてない男」について身辺で起こったこと
2001/06/09 14:44
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投稿者:nokia - この投稿者のレビュー一覧を見る
私はこの本が紀伊国屋書店の街頭販売売り場で平積みになっていたころは著者を知らなかったために、全く見向きもしなかったのだが、ひょんなことから著者についての情報を得て、「軟弱者の言い訳」を読んで面白かったので、この「もてない男」も読んでみました。
さて、内容のほうに軽く触れておくと、やっぱり面白いのは上野千鶴子とのやりとりが書かれたところ(コミュニケーション・スキルを磨け云々のところ)とか、童貞論、自慰論とかかな。エッセイだから、こともなく消費するように読める。
ただ、結婚していて非婚を勧める森永卓郎に対し、おおばか野郎というのはどうか、と思う。その点に関して言行一致は必ずしも必要ではないのではないか。森永のいう、「日本のラテン化」は、「もてない男」にとっては地獄になるかもしれないが。
今から読むなら、「恋愛の超克」とセットで読むことを勧めます。この「もてない男」の後日談も書かれているし、そっちのほうがより理論的でかつ深い。エッセイ風に構成されているけど、明らかにエッセイではない。
で、特にその中に『うるさい日本の私』の中島義道氏について言及される場面がある…。「ああ、あの騒音問題の人ね。」で、済まされてしまっているのに直面した小谷野氏。きっと自分も「ああ、あの「もてない男」ね。」と言われているのだろうと考える。…このような文章があるんですが…全くその通りなんですね。さっき言った「ひょんなこと」とはまさにそのこと。学校の科学史の教官に「『もてない男』の小谷野敦が…」と言われたことが、小谷野氏を認知したきっかけなんですよ。生協にも全著作(田山花袋についての本を除く)が平積みされているし。
何はともあれ、両方とも、一読して損はない本でしょう。
恋愛の無根拠性を暴く学問エッセイ
2001/03/14 20:19
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投稿者:sai - この投稿者のレビュー一覧を見る
「これが学問?」と言うなかれ。古今東西の文学・マンガ・評論を自在に引用しつつ展開される「もてない男」論は、これまでの恋愛論やフェミニズムが扱うことを忘れていた新たな議論領域を切り開くきわめて思想的な試みだ。
著者によれば「恋愛教」は勝利し、「恋愛不要論」は連戦連敗する。我々は生まれてから歌謡曲やら恋愛映画、恋愛小説、トレンディドラマに「恋愛賛美」の方向へ向けて「洗脳」されており、「『恋愛教』は一般社会に完全に浸透している」。そう、かつて「家父長制」が社会の常識だったように。恋愛イデオロギーに支配された現在の社会では、「もてない男」は「恋愛弱者」にほかならず、著者をも含めた「もてない男」を救済するには、「恋愛教」の無根拠性を暴く作業を進めねばならない。おそらくはこうした意図で説かれる本書が強い説得力を持つのは、「私」の経験をあけっぴろげにさらしたところで語られているところにあり、著者はその文体を「エッセイ」と呼ぶ。
本書の議論そのものの面白さもさることながら、著者の文体が「評論教」に対するアンチテーゼになっていることも見逃してはなるまい。
「もてる/もてない」を越えたとき見えてくるもの。
2004/06/28 01:49
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投稿者:Ryosuke Nishida - この投稿者のレビュー一覧を見る
もてない男とは、評者のことを指す…ではなくて、「もてないというのは恥ずべきことではない」をモットーに東京大学大学院比較文化専攻博士課程を経て、ブリティッシュコロンビア大で学術博士を取得した筆者が古今東西の媒体から引用して、もてない男の文化論を展開する。残念ながら、これを読んでももてる男にはならない。ジェンダー論の一種、男性学の一形態を論じていると思えば良い。しかし、世の中、評者の他にも、もてない男は思いのほか多いらしい。
若いときにもてないのも悪くない
2002/07/17 21:50
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:イカレ=ポンティ - この投稿者のレビュー一覧を見る
好きな女ができ、ものにしようと奮闘し、ものにしてからは何かといざこざがあり、別れてからは意気消沈し、という一連の過程は、非常に時間とお金がかかる。あとから考えて無駄だったとは言わないが、もてないのも悪いことばかりではないだろう。
その証拠に、実際にもてなかったという著者は、性欲過多な青春時代に、男と女の煩わしい関係に巻き込まれなかったおかげで、古今東西の膨大な本を読むことができ、また映画を見ることができたようだ。
表題からはどのような内容かわかりづらいが、引用されている本や漫画などは、学者らしく一般人が気づきそうもないようなカタイものも多く含まれていて、とても勉強になる。女に振り回される時間の代わりに、これだけの本を読むことができたわけね。
ただ、この程度の本なら二週間で書けると「あとがき」に書いているように、こっち(読む方)も半日で読むことができてしまって、もの足りない。もう少し本格的な内容の著者の本を読みたくなった。
はっきり言って、人生のなかのどこでもてようが別にかまわないと思う。著者もこれから「もてる男」になればいいではないか。勃起しながら女を口説いているような季節を過ぎて、著者くらいの年齢になってからもてる方が、この日本では重要なような気がする。
中二階状態
2001/10/22 14:33
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投稿者:みゆの父 - この投稿者のレビュー一覧を見る
小谷野さんの「もてない男」論は有名だし、僕も聞きかじってた。だから本物を読むことは必要ない、といえばいえないこともない。でも、ここで出てくるのが親心ってやつで、「うちの(親の目から見たら)可愛い娘が、まだ二歳だけど、将来もてない男に…」などと要らぬ心配をしてしまい、はっと気がついたら本屋のレジにこの本を出してたのだ。まぁよく考えたら、僕自身もてない男だったから、自分の過去を振り返ってみれば十分なのかもしれないけど、一応理論武装もしておくかって感じで読んでみた。
この本は、童貞、自慰、恋愛、嫉妬、愛人、強姦、誘惑といったテーマについて、古今東西の文学についての博識を交えながら小谷野さんの考えを述べたものだ。でも、テーマの華々しさや文体の軽さに目をくらまされず、よく見てみると、小谷野さんの一貫した立場が貫かれてることがわかる。それは「恋愛弱者」(六八ページ)の立場だ。この立場からすると、「恋愛は誰にでも可能であり、さらにはそれのできない者は不健全だ」っていうのは「デマゴギー」で「嘘」(一九四ページ)だし、「もてないということは別に恥ずべきことではない」(八ページ)。「女性」っていう弱者を発見したフェミニストに対して、「もてない男」っていう弱者を発見したり、世に蔓延する恋愛至上主義を批判したりした小谷野さんの仕事のメリットは広く知られてるから、いまさら詳しく紹介する必要はないだろう。また、この本にそこはかとなく流れる反「現実のフェミニズム」(一一一ページ)に目くじらを立てる必要もないだろう。
この本には一つ大きなメリットがある。恋愛不要論者の奮闘にもかかわらず恋愛教が日本を支配してるのはなぜかという問いに対して(ちょっと引いてるけど)はっきり「要するに…恋愛以外のおもしろいことに話は戻っていく」(一九〇ページ)って答えたことだ。今の日本社会みたいに、他にあまり面白いことがなければ、手近なもので済ますしかない。その「手近なもの」が恋愛なのだ。だから、他に面白いものがみつかったら、恋愛教も卒業ってことになる。僕は、恋愛が不要だとは思わないけど、恋愛の他に面白いことがない社会っていうのは閉塞してるし危ないと思う。世の為政者諸賢は、もうちょっと「パンとサーカス」のことを考えてほしい(自分で考えることかもしれないけど)。
それはいいとして、この本を父親として読んだ感想は「はぁそうですか」だった。ついでに、不満を二つ。第一、議論の突込みが足りないこと。たとえば、僕はいまだに「性的嫌がらせ」の定義(具体的にいうと、どこから嫌がらせが始まるか)がわからなくて困ってるけど、この本には「強姦か、誘惑か」(一六一ページ)とか「これは据え膳なのかどうかの判断に困る場合がある」(一六四ページ)とか、解決の糸口になりそうな言葉がある。でも、小谷野さんはそれ以上突っ込まず、次の話題に滑らかに進んでく。これが小谷野さんのスタイルなのかもしれないけど、隔靴掻痒って印象はぬぐえない。
第二、「弱者」に徹し切ってないこと。「ほんとうに、救いがたく、容姿とか性格のためにまるで女性に相手にしてもらえない男」は「女なら誰でもいい、というようなケダモノ」(八ページ)だとか、「愛を告白する勇気がない」のは「チンケな輩」(八二ページ)だとか、「もてない男」の下に、更なる弱者を置きたがる。突込みが足りないのだ。「恋愛弱者」の「私怨で書いている」(一九四ページ)んだったら、一番弱い者の立場から議論を始めてほしい。そうしないと、「エリート・フェミニズム」(一一〇ページ)とかと同じような「中二階状態」に陥る危険あり。中二階状態が怖いのは、強者の前では弱者として、弱者の前では強者としてふるまう癖が付くことだけど、大丈夫だろうか。他人事ながら心配だ。
これは救済ではない
2000/07/18 05:16
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投稿者:ぴょん太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
恋愛至上主義の中では語られないもてない男(恋愛弱者)の視点から、日本の性愛文化、恋愛文化をとらえ直す内容。全部で7つの章にわかれており、それぞれ「童貞であることの不安 童貞論」といったスタイルで個別のテーマについて総論的にまとめている。
もっとも、まとめているといっても、筆者の雑談も含めて書かれる軽妙なタッチなので(本人曰くこれはエッセーであるそうだ)、胃にもたれることなくスラスラと読める。その分、食い足りないところも多々あるのだが、章末には筆者の薦める参考図書もあるので、より深くこのテーマに迫ろうという人にも有効である。
ただ、この本のメーンのテーマである「もてない男」は、救われるのか、それとも彼らなりの新たな価値をうち立てることができるのか、というとそのあたりは今後を待たなければいけない様子。ここでは、さまざまな批評(フェミニズムの視点など)が、その存在をすっぽりなかったことにしていることを指摘するに留まっている。もっとも、あとがきによると筆者は「大著」など書くつもりはないそうなので、「もてない男」がそれなりに理論武装したいのであるなら、筆者のアジテーションを待つより自分で考えたほうが早道かもしれない。