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ニーチェ自身がニーチェについて語る。書名の「この人」とはニーチェのことであり、当時世間から理解されることが少なかったニーチェが「(愚民ども)この私を(もっと)見よ!」と言っている。(笑)
「解説」を読むとこんなにも深淵な大望が記されているのかと思いをいたすが、普通に読んでいると随所で笑いがこみあげてくる。(笑)
章立てをみると、
「なぜわたしはこんなに賢明なのか」
「なぜわたしはこんなに利発なのか」
「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」
といった感じでこれだけでも抱腹ものだ。(笑)
「ひとにわたしのことを悪く思わせる技術を、どうしても身につけることができなかった」ニーチェさん。(笑)食べ物を通した比喩を記しているのかと思えば、本当に好きな食べ物の話を延々としているし・・・。(笑)「ドイツ人」や「キリスト教」へのねちねちと執念深く罵声を浴びせたりなど偏執ぶりもさることながら、数千年にわたる人類歴史のなかで最強の天才であるという自分自身への躁的誇大的な自画自賛を読んでいると、就寝前読書としては笑いがこみあげてしまい困ってしまう。(笑)
ニーチェにとっては「ツァラトゥストラ」像は、辿りつくべき理想像なのですね。というか自分自身の仮託でしょうか。自身の概念であるディオニュソス的たらんとする思いだけはとっても強烈に伝わった。
余談だが、ギリシャ神ディオニュソスは別名バッカスで、ワインの神。酒を飲まなかったというニーチェだが、バッカス「好き」なところは同感する。(笑)
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初めて読了叶ったニーチェ。此の一冊から採ったなら 挫折も少なく済んだかも知れない。其の猛進ぶりについて 既に病的だとか事実に反する部分があるとか様々云われるようだが そんな訳で彼について全く無知で在ることが 此の読書には却って麗しく作用したらしい:純粋に其の思想のみに耳を傾けることが出来た。在ったのは 足頸括られ市中の真ん中に逆さ吊りされた眼にしか映じない景色。覚えある胸には決して過激でも反道徳的でも彼はなかろう。
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何をそんなに思いつめているのか、という印象しか受けない。彼は哲学者であるらしいが、詩人でもあり、狂人でもあろう。
たまにこういう哲学者が現れるのかな、とも思う。今までの哲学にすべて絶望して、罵っている。まあ、分からなくもないが、破滅的思考は身を滅ぼす。もっともこれは彼の最後の作品であるので、他を読んでみないことには彼への評価も断片的でしかない。
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ニーチェが発狂する1888年の前年の秋に書かれた。
題名のラテン語“Ecce homo”は新約聖書『ヨハネによる福音書』19章5節から引用されてる。
各章の表題が笑わせてくれる。
◆なぜ私は、こんなにも賢いのか?
◆なぜ私は、こんなにも利発なのか?
◆なぜ私は、こんなにも良い本を書くのか?
◆なぜ私は、一個の運命であるのか?
もー、この表題見ただけで、好きになった。
だって、おかしい。
笑わせようとしてる?
これを書いたとき、すでに狂い始めてたのでは?と考える人もいる。
でも、たしかに彼は「こんなにも良い本」を書いた。
彼の苦闘し続けた人生を、こんなふうに表現できるなんて!
やっぱり、ただものじゃない。
人間をこえていこうとした。
ニーチェの本の中で特に好きなのは、『アンチ・クリスト』とこの本だ。
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数年前から、超訳ニーチェがちょっとしたブームだけど、最初に手を出したのが本書。
阿部六郎訳で旧かなの新調文庫版。まだ平成になる前、世の中、バブルで浮かれてた。
バブルにも乗れない僕には、あまりにも強烈すぎた。
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「なぜ私はこんなにも利発なのか」のような見出しからもわかるように自らを人類史上希有な、旧来思想の転覆者として語る自伝的文章。堂々とした文体が魅力的だが危険でもある。
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この自叙伝が書かれたのは、ニーチェが44歳のとき。この年が彼の正常な精神活動の最後の一年だったらしい。
彼の精神活動の最後に遺されたこの自伝は、ニーチェの思考と著作の全体について自ら細かく解明していく構成になっている。
シニカルな余裕に満ちた箴言、大上段から一気に振り落とす傲慢な名句に心踊るニーチェ好きには、目次からどストライクかもしれない。
・なぜわたしはこんなに賢明なのか
・なぜわたしはこんなに利発なのか
・なぜわたしはこんなによい本を書くのか
言うまでもなく『この人をみよ』の「この人」とはニーチェさん自身のことである。
とはいえシニカルな余裕というよりは、自己欺瞞にすらも目を背ける、傲慢と自虐の極致を両取りしているかのような弱さも垣間見れるのも事実。
人間一般を観察し分析し記述することに関しては比類なき才をもちながら、とびきり強がりで誠実なニーチェさん。だから、この本はニヤニヤしながら読んでください。
ニーチェは、人生には、人間には、そして世界にはなんの意味もないことを言ってのけた。国家の強大化、文化の繁栄、来世における救済、正義の実現、貧困の解消、幸福の追求。
人生に何らかの意味、価値、目的を認めること、それは大いなる錯覚なのだ、と。
はっきり言ってその思想の前にはすべての人間は生きる価値を剥奪される。だがニーチェ自身はどうだったのか。
弱き者を徹底的に糾弾したのはなぜか。神が死んだと、神にこだわり叫び続けたのはなぜか。それは彼自身が極めて弱く、敬虔なクリスチャンとまでは言わないまでも誰よりもキリスト教的であったと言えなくもないのだ。これもまた外せない一冊。81点。
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ポール・ヴェーヌによるフーコーは、あらゆる既成の真理とされているもの、さらにはもちろんあらゆる権威を徹底的に疑う者、つまり真正ニーチェ主義者とされたのだった。
そして、さかのぼって、このニーチェ自身によるニーチェ。自作に対する尋常ならざる自負心を込めた饒舌は、まるで菊地成孔さんだが(笑)、発狂直前のこの明敏過ぎるスパークに、フーコーばかりでなく、後世は最大限の賛辞を贈らなければならないのだ。
ニーチェが牙をむいたのは、キリスト教よりもむしろドイツだったことを改めて確認しよう。ワーグナーからの離反とともに。
そして、ニーチェは確かにキリスト教を攻撃したけれど、キリストその人に対してはそうではなかった。むしろ時代の受難者として、自己を模していたのではないか、との訳者の指摘に納得する。
ニーチェの超人は、後期フーコーに至ってより現実的に新たな自己の倫理の探索にとって変わられた。それは未完のまま、わたしたちの前に残されたままである。
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いい感じに思想的なものに飽きてきた。しかし、新しい楽しみ方を発見した。現実逃避しがちなときにここまでのがちがちの思想系の文章を読むことによって「ここまでではないな」ということで現実世界に戻ろうとする自発性が生まれるらしいのである。先人の絶望との格闘履歴に感謝。
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途中から気付いたけど明らかに読む順番を間違えた
主要著作を読んでから改めて読み直したい
誰かそういう色んな人物の読む順番をまとめた本とか出してほしい
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自伝でとっつきやすい。
しかし永井均がニーチェについて言ってたことが少しわかった気がした。
ニーチェの人間味が溢れている
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この狂気には最早お笑いだとしか思えない方も多いだろうと思う。
論理的矛盾も多く、病的なまでに自意識過剰だ。
しかし、狂気こそが体系を破壊し、要素の抽出、肥大化によって思想を再建するのだ。
あらゆる矛盾が、矛盾したまま同居することが真理なのである。
多分に危険を孕んだ書である。生への渇望、その熱量に圧倒された。
ニーチェは哲学者というより文学者と言うべきだろう。
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今まで感じたことがないような凄みを感じました。難しくて分かりにくかったというよりもニーチェ氏の考えについていけなくて分かりにくかったです。おいおいとツッコミたくなるような部分も多いので信じるか信じないかは読んだ人次第だと思います。
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すごいこと主張する人だな、と感じる一方で、この人のことをもっと知りたいと思いました。本の作者に対してこんな感情を抱いたことに、ちょっと驚いています。