神々の争いの調停者としてのプラグマティズム
2011/09/04 07:36
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投稿者:まむ - この投稿者のレビュー一覧を見る
『プラグマティズム』は、W.ジェームズの哲学での主著である。プラグマティズムはアメリカで生まれた代表的哲学である。日本語では「実用主義」「実践主義」などと訳されることが多い。「実用主義」と訳されることもあり、一段低く見られ、また初めて「プラグマティズム」の言葉を使ったC.S.パースの「プラグマティズム」を「誤解して成り立った」といわれるジェームズのプラグマティズムは、そういう意味でも軽くあしらわれているように思われる。
しかし、本書は古典と言ってよいものであり、ものごとを考える上で、本書の示唆するところ、有効なところは大きい。このプラグマティズムの観念の歴史はギリシャ語「プラグマ」から来ていて行動を意味し、英語の「プラクティス(実際)、プラクティカル(実際的)」という語と派生を同じくする。
私が考えるに、今日的にW.ジェームズのプラグマティズムを哲学・考え方の一つとして、「神々の争い」(M.ウェーバー)、つまり真理と真理、信念と信念、信仰と信仰、価値と価値の争いの調停者としての考え方・方法として捉えられることができるのではないか。主要な論点は、「行為」「実践」「実際」を通して、「真理」と呼ばれる諸学問の調停者としての立ち現れるのではないか。
「われわれの真理のどれでもの最大な敵は、われわれが現にもっている真理以外の真理であろう。真理というものはもともと自己保存および自己に矛盾するものはなにものをも絶滅しようとする欲望、このすさまじい本能をもったものである」(p.86)。
真理と真理の競合は、その真理が実際に働く意味として、自分にとって正しく働くかどうかである。もっと具体的に言えば、ある信仰(真理)がその人にとって「実際的に(プラグマティックに)」利益をもたらすか、もたらさないか、別の信仰(真理)がその人にとって「実際的に」利益をもたらすか、もたらさないかどうか。
こうも言えないだろうか。ある宗教(信念)がその人にとって有効である。別の宗教(信念)が別の人にとって有効である。とするならば、前者の信仰と、後者の信仰はプラグマティック(実践的に)言って、どちらも正しいと。プラグマティズムが絶対的なものが多元論的に存在することもありうるということの調停者として働くことができるのではないかと。
現代の「正義論」のように「正義が多元論的である」という認識は必要だ。その上でそれらを精査し合意を形成していくことも必要なように思われる。例えば「人を殺すことは絶対悪」、「原子爆弾を使用することは絶対悪」など、プラグマティックに相対的であると捉えたものを精査していく必要があると思われ、そこでも、プラグマティズムの考え方を応用することができるのではないだろうか。
にもかかわらず、である。アメリカが民主的なプラグマティズムの考え方を持ち合わせているにもかかわらず、自国の正義を他国に押し付けようとするのはなぜなのか。「調停者としてのアメリカ合衆国」という意識が働くのだろうか。“I am the LAW”といわんばかりに国際政治に介入していくアメリカ。やはり、プラグマティックな考え方でさえも、一つの考え方としての謙虚さ、相対性を持つ必要があるということだろうか。
プラグマティックとは
2015/09/16 23:52
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投稿者:ryota82819 - この投稿者のレビュー一覧を見る
プラグマティズムは超越論と経験論の中庸、で間違いはないとはいえ、著者の立場的には一元論的な硬直性を批判する傾向が強い。が同時に宗教に関する超越性は肯定する。実感に訴える感じ。
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生活に実用性を持つ哲学でなければ、その論争に何らの意味も持たない。
合理論者と経験論者の論議、一神教と多神教、それらはそれらでそれぞれ真に違いなく、また偽でもある。それら一方を取ることになんの意味があるのか?なるほど、そういった論争に勝利することで得られる優越感などの意味においてであるなら、まさにそういった論争もプラグマティックでありうるだろう。
宗教を信じないものは、信じないという心情において無神論は真であり、有用である。しかし、それを絶対視できるのは、自分の内心のみにおいてであり、信者にとってみれば、いかなる宗教も偽ではありえなく、それが信者の糧となる限り、その意味において、宗教は限りなく有用で、それらが正当性を言い争うことはまったくもって無意味というほかない。現実とは、様様な真の集合体であり、それら一つ一つの真から、たの真を見たとき、偽に見えるというだけの話である。
人間は、無駄な知識を欲するのであれば、トリビアは、知識欲を満たす意味において、決して無駄ではないのだ。
とてもとてもポジティブな考え方。
プラグマティズムがどんな仕組みかを知りたいのであれば、前半だけで事足りると思う。
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こくいちで高校倫理を勉強していて気になった一冊。自分の考えに近そうだな、と思って。哲学書は普段全く読まなかったので読むのに時間はかかったが、今日やっと読了できた。
プラグマティズムとは、実際主義とも訳されるもので、
私なりの解釈では、「その命題が有益かどうか、実際の世界で役に立つかどうかで考える物の考え方」という感じ。
経験論とか合理論とかは、表面的にすら知らないけど、両者のいいとこどりをしたのがプラグマティズムである。という私なりの解釈。
筆者のWilliam Jamesは、最初は生理学をやってたらしいけど途中で哲学に傾倒していったという人らしい。
それを知って、生命科学をやりながら経済や思想にも興味のある自分とどっか似てるから共鳴するんかもなあ、とおこがましくも思いました。
難しい理論とかを聞いてよく
「…で、結局、どうなん?」
と思ったりする人は読んでみて損はない。
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非常にスッキリして分かりやすいです。これで連続講演なんだよな。凄い。思わず,ノートとか作りたくなってしまいました。
多元主義という世界観は非常に現代的なのではなかろうか。いや,そういう目で読むからそう思えるというところは多分にあるのだろうけれども。
この流れがどこに行ったのか追いかけたいですね。ウィルバーも受け継いでると思うのは誤読だろうか?
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お父さんはシャーロック・ホームズのモデルの一人、自身も偉大な最高裁判事Great Dissenterのオリバー・ウェンデル・ホームズの考え方とされているプラグマティズムをきちんと理解したいと思い、読んでみた。まさに教条主義と判例主義の違いのような、大陸法系のどちらかというと正しい法があるというイデア的な考え方とそれって違いがどこになるの?考える意味あるの?的な徹底した経験主義の違いと理解した。考え方としては、最初の第二講までで大体理解できる。あとは現実の問題への適用、例題、あてはめといった講義になる。回を追う毎に、アメリカで開拓時代を生き抜いていく上で重要な考え方だったのだろうなと想像できた。
大人になった自分はたぶんプラグマティズムだけでは解決できない、説明しにくい問題もあるだろうなということもわかってきたけれど、分析の手法として、プラグマティズムを用いて突き詰めていくのは悪いことではないと思う。それにプラグマティズムは、違いを認める考え方であるので、相手にも変化にも寛容であるところがとても好ましく、また使いやすいと思った。
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ヨーロッパの思想史を貫く合理論と経験論の両立を目指すプラグマティズムは全くもってアメリカ的だ。原理原則ではなく事実や結果を重要視する姿勢は真理すらも到達点ではなく仮定のものであるとし、同時に有効であり善であるものを真理だとする考えが日本人には不可解に見える科学的態度と信仰心の両立を可能としている。一見いいとこ取りに見えるプラグマティズムだが、価値の判断基準を常識に置くその姿勢には、近代経済学が「完全に自由で合理的な個人」を前提とする様な嘘臭さを感じてしまうのだ。「常識」とは時に、簡単に「世間」に堕胎する。
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ダマシオ「無意識の脳 自己意識の脳」
ウィトゲンシュタイン「ウィトゲンシュタイン全集 哲学探究」
ウィリアム・ジェームズ「純粋経験の哲学」
クワイン「ことばと対象」
ジョージ・バークリー「人知原理論」「ハイラスとフィロナスの三つの対話」「視覚心論」「哲学の改造」
ジョン・ロック「人間知性論」
スティーヴン・シェイビン「「科学革命」とは何だったのか」
丹治信春「クワイン ホーリズムの哲学」
富田恭彦「科学哲学者」
ニコラス・ハンフリー「赤を見る」
ブルーノ・ラトゥール「科学が作られているとき」
ガザニガ「脳のなかの倫理」
リチャード・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」「リベラル・ユートピアという希望」
オースティン「知覚の言語」
ミル「自由論」
セラーズ「経験論と心の哲学」
カール・ポパー
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解説の影響をすごく受けた適当な感想だけど、抽象的なものを形作っていく哲学のスタイルがプラグマティズムだとすれば、そこには何か引っかかる感覚があって、ハマりそう雰囲気を感じるなぁ・・・。そして岩波のハードカバー触り心地良い!
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W.ジェイムズ。桝田啓三郎訳、岩波文庫、1957年。
中野にて購入。卒論の先行研究調査として。
カール・バルトの聖書解釈にプラグマティックな側面があることに気づいて、そのあたりの言及がないか検索。
パースよりもより道具的?この解釈で合っているのかは要確認。道具主義的だとしたら私の目的にはよりかなっている。
宗教についての記述も多めで助かった。
私は原始教会がプラグマティックであるということを言いたかったのだなとはじめて自覚した。なので、プラグマティックに聖書講読をする方向性に切り替えることができそう。有用。
世間一般的に了解可能性が低い内在論理であると思われる。プラグマティックであるからこそ聖書解釈も煩雑になるのだと思う。どうやって証明するのか?
以下引用
もし神学上の諸観念が具体的生命にとって価値を有することが事実において明らかであるならば、それらの観念は、そのかぎりにおいて善である。そしてかかる意味で、プラグマティズムにとって真であるであろう。なぜなら、その観念がそれ以上にどれだけ真であるかということは、ひとしく承認されねばならない他のもろもろの真理との関係にもっぱら依存するであろうから。
(p59)
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哲学として扱われているが、その語源、化学の手法を哲学に持ち込んだものであるという経緯をみれば方法や手法と捉えたほうが分かり易い。哲学は何の役に立つのか?という問の答えを導く手段であるとの主張にしたがい、実際にそれを示すのに多くの紙面を使っている。残念ならが答えが導かれたようには思えないが、掴みどころのないものを実体のあるものとして扱うという点においては一定の成功を収めているようには思える。そして、”それは現実にどのような影響をもたらすのか?”というプラグマティズムが発する問いかけは哲学のみならず普遍的なものであり、多くの人に影響を与えたのも納得できる。
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ウィリアムジェイムズ。
真理とは、観念との一致である。つまり、真理とは事実ではなく、観念的に真であれば、それが真理である。
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簡単にいうと、哲学の本というより、哲学の読み方の本である。合理論を批判しているのであるが、それがどんなに変なことを言っているのかというのが分かる。そして、この立場は案外、中国思想にちかいと思う。また、「世界哲学」の基本におかれる考え方かもしれないと思う。
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ジェイムスのプラグマティズムは超越論であれ経験論であれ、また一元論であれ多元論であれ、あらゆる哲学上の立場と両立し得る。それは哲学の哲学、いわばメタ哲学であるからだ。哲学の使い方を問う哲学、哲学に耽るためではなく、哲学を生きるための哲学と言ってもいい。個々の哲学上の立場に対しては、「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」という可謬主義の立場をとる。全ては仮説(仮象ではない!)と割り切った上で、それが「役に立つ」かどうかを問題にする。何に役立てようというのか。もちろん良く生きることだ。哲学は「知への愛」だが、「知」は良く生きるための「知」であった筈だ。そのことを忘れた哲学は知的遊戯以外の何ものではない。この至極当たり前の考え方がプラグマティズムの出発点だ。
ただ、真理は役に立つかどうかで決まるというジェイムスの言い方は誤解を招き易い。ジェイムズはパースから構造主義(記号論)的な思考法を受け継いでおり、概念(言葉)と実在(世界)の一致ではなく、世界について語る言葉の内的整合性を真理と呼んでいる。言葉が生の形式であるならば、それが整合的であるとは生が整合的であることを意味する。言葉の外にある実在を写しとるのではなく、整合的で首尾一貫した生の表現(表出ではなく、創造であり自覚でもある表現)として言葉を用いること、これが「役に立つ」哲学なのだ。だがその整合性のパターンは一意には定まらず幾通りにも可能である。構造主義的なタームで言えば構造は「置換」可能なのだ。(最終的に言葉が実在に到達できると考えたパースとの違いが後にプラグマティズム内部の論争になり、近年パース再評価の動きもあるようだが、評者はローティとともにジェイムズにより共感する)
そして何が良き生き方であるかも人それぞれだ。世界をまるごと認識することに喜びを感じる者もいれば、不完全であったとしても、とりあえずの認識を携えて世界を変える、あるいは完成させることに喜びを見出す者もいる。前者は超越論や一元論、後者は経験論や多元論に馴染み易い。ジェイムス自身は後者に共感を示すが、前者を排除してはいないし、できるとも思ってない。人の生き方が簡単には変えられないのだとしたら、自分の生き方にフィットする哲学を信じる他ない。その哲学を通じてより良く生きたと実感できたなら、それを真理と呼ぼうではないか。ジェイムスはそう言ってるのだ。なんか変だ、おかしいぞと気づいたら変えたらいいのだから。
プラグマティズムは人間を離れた外的基準による真理の基礎づけを放棄する。その意味で相対主義と言ってしまえばそれまでだが、思い込みによる居直りのススメでは決してない。ギリシャ哲学以来二千年この方、万人が承服できる基礎づけを行った者は誰一人ない。いつ果てるとも知れぬ無益な真理ゲームから哲学を解放し、人間の生を豊かにするという根本課題に哲学を差し戻す積極的な相対主義だ。哲学をピカピカに磨いて人間が干からびては意味がない。
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極端に宗教に肩入れすることも、経験論に肩入れすることも否定しつつ、現実的な効用のあるものは、肯定し受け入れるという精神を表明した一冊。アメリカの哲学の源流にあたるウィリアムズ・ジェームズの代表的な一冊。