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『三四郎』『それから』に続く、三部作最後の作品。ぱっとみ個々の物語は完結したようにも見受けられますが、まだ根本的な解決には至っておらず、将来的にも影を残したまま物語が終わります。
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歳喰うにつれて、三部作内の好みも三四郎→それから→門と移り変わり。給料もらう身の物思いとか、昔も今も変わらないのね、って感じで笑えます。漱石は大御所の顔してるくせに、ちょくちょく落語的風景を落とし込んでくれるから好き。文体も今の現代文の基礎となったような人なので、実はものすごく読みやすかったりします。エラソーではないので読まないと勿体ない気がする。そしてエラソーな本だと教えるのは読書的に逆効果のような気がしてならない。
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人生で2回目の夏目漱石。1回目は昔授業で読まされた「こころ」。
この作品が「それから」の続編と言われていることも、「三四郎」とあわせて三部作と言われていることも知らずに読んだ。だから、ただ静かに愛し合う夫婦の物語として読んだ。
この夫婦の、特に宗助のあり方を見ると、明治と平成の間に隔たりは感じない。明治という時代は直接現代に繋がっていると強く思った。素晴らしい文章で綴られた、古くささなんて感じない作品。所謂、「名作」や「古典」というものは敬遠しがちだったけど、目を開かされた。漱石、面白い。
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結局、くぐることで簡単に浄化してくれるような門はなく、
自らの背負うべきものは、背負いながら生きていくしかない。
逃げるのもひとつ、挑むのもひとつ、どちらにしても自らの過去を消し去ることはできない。
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ここ最近、読書にいそしむなか、前回読んだときよりも
深い感銘を受けた最初の一冊。
前のときは前期三部作の中でも、只管暗い、地味・・という
イメージでしたが、今回は「それから」よりも面白いかも
と思ってしまいました。
たんたんとした日常の中に、繰り返すことの美しさを見ました。
それにしても大根のお漬け物とお茶漬けが美味しそう。
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宗助と御米は世間から見捨てられた夫婦だ。それは二人にとって覚悟の上でのことであった。 宗助の終わりの言葉「うん、然し又ぢき冬になるよ」はあまりに悲しい。
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巡る巡る繰り返し。
喜怒哀楽を伴いそれはただただ繰り返す。
冬が過ぎ春が来てもまた冬になる。
苦しいこともない、愛しいこともない、ただの繰り返し。
それなのに苦しい、それなのに愛しい。
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横町の奥の崖下にある暗い家で世間に背をむけてひっそりと生きる宗助と御米。「彼らは自業自得で、彼らの未来を塗抹した」が、一度犯した罪はどこまでも追って来る。彼らをおそう「運命の力」が徹底した映像=言語で描かれる。
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『三四郎』『それから』に続く、いわゆる三部作の締め。もっとも、前2作とは打って変わって、筋立て上ではドラマチックな展開はほとんど無い。むしろ、『それから』にも通じるような道徳上の「不義の愛」が、いつまでも宗助と御米の人生を暗くし続けている。その描写が手を変え品を変えなされる。『それから』同様に、「自然」とも「運命」とも称される、自我を超越した何らかの力が生活に働きかけているとしか思えないような出来事を、宗助も御米も体験してしまう。この繰り返しは、生活上の小康状態を得た最後のシーンでもなお予感されている。「またじきに冬になるよ」という言葉は、「自然」「運命」の力の強大さを表して余りあるものではないだろうか。
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夏目漱石の前期三部作、三四郎、それからに続く最終作の位置づけ。
ある事情により俗世を離れ崖下の家でひっそりと暮らす宗助と御米。
過去も未来もない二人がその日その日を緩やかに生きていく。
そんな二人の時間に一つの変化が訪れる。変化の中を生きて行くふたりを書いた退廃的でそれでいてどこか羨ましい。
ゆるやかな日々に羨望を抱く小説でした。漱石の作品の中でも随一だと思います。
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漱石前期三部作のトリを飾る作品『門』。
世間から冷たい目で見られる覚悟を互いにしてまで不倫関係となった代助と千代子。その二人は今後どう生きていき、どう世の中を渡り歩いていくのか。その答えが『門』にあると、『それから』の解説では述べられていた。
自分自身その事が気になっていただけあって、「門=不倫後の話」を頭の中で繰り返しつつ読み進めていった。けど、どこにも見当たらない。気付けば残るページは1/3。ここから先にようやく出てくるのかと思いきや、迫りくる事態に対処できる自信をつけるために参禅し、戻ってきたら無事暗雲は過ぎ去っていきましたとさ、めでたしめでたし。気付けば注訳のページになっていた。
宗助とお米が不倫関係であることに全く気付かなく、解説を読んでそのことを知った時は衝撃が走った。言われてみれば確かにそのようなくだりがあったかもしれないと思う程度のおぼろげな記憶しか残っていなかった事実を再認した。おそらくその箇所は現と夢の境を彷徨っている中読んでいたのだろう。それらしい記憶もあり、今では納得できる。
今度読み直す時は宗助とお米の関係に特に注意し、心の底から『それから』の続編であると実感したい。
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前期三部作の第三部。
宗助と御米は不倫の末結ばれた夫婦で、他人との交流を最小限に抑えてひっそりと慎ましく暮らしていた。彼らの不義は社会的な制裁のみならず、運命的な力も彼らを苦しめる。宗助は不安を解消するために宗教にすがるが、何も変わらないまま季節は移ろいでゆく。
宗助・御米夫婦は、互いを慈しみ支え合って生きている。きっと理想的な夫婦と言えると思う。しかし、「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」(P224)のイメージが示すように、悲哀や不幸、憂うつから逃れるすべをもたない。哀しくて切ない。
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「二人は...道義上切り離す事のできない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合ってでき上っていた。彼らは大きな水盤の表に滴したたった二点の油のようなものであった。水を弾はじいて二つがいっしょに集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事ができなくなったと評する方が適当であった。」
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宗助と御米の仲のよさがうらやましい~~。
高等遊民の坂井さんも良し。
序盤で宗助が丸まってたのが、かわいらしかった。
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夏目漱石の門 (岩波文庫)を読んでみた。こんな日本の近代文学の名著を読むなんて実に久しぶりだなあ。学生時代にはこの手の本を色々乱読したものであるが、特に社会人になってからは、経済関係の本や仕事がらみで必要な本などで結構時間がとられるし、我輩の敬愛する椎名誠さんの本は新刊が出るたびに読まなければならない。小説といえば最近話題になっている現代作家のものを読むくらい。社会人の読書も結構忙しのですね。と言う訳で漱石など手に取る機会何てほとんどないんだよね、実際。
「門」は「三四郎」「それから」に続く夏目漱石の初期の3部作の3作目。ストーリーは言わずもがなでありますが、主人公である宗助の人生に立ちはだかる越えがたき「門」が物語が進むに従って様々なモチーフで浮き彫りにされていく。やはり名作ですね。情景描写は実に素晴らしく、明治時代の当時の東京の情景がVividに脳裏に展開されていく。物語の後半に宗助が山門に入るあたりの描写は実に荘厳で格調高いものであった。
ふと社会人がこのような近代文学の名著を読む事の意味というものを考えてみた。一昔前は、こういった一般教養を深く身に着けているという事は一種のステータスであっただろうし、仕事絡みでの様々な社交の場での会話に必要不可欠であったのかも知れない。大前研一さんの最近の著書にも書いてあったけど、今はそういったクラシカルな教養よりも、スティーブジョブスがスタンフォード大学の卒業式で何を語ったか、などなどグローバルな世界で起きている最新の話題をネットでいち早く情報収集して会話のストックにしておく事が必要な時代になっているのかも知れない。
では、近代日本文学なんてサラリーマンが忙しい時間を割いて今更読む意味なんてないんだろうか?中々難しい問題でありますが、我輩なりの考えはこうであります。素晴らしい物語には必ず伝えられるべき強烈な「メッセージ」があると思うのであります。今回読んだ「門」から感じた事。「人生にはいくら頑張って越えたくても如何ともし難い巨大な門が立ちはだかっているものだ。これは大なり小なりみな同じなんだ。それを越えようと皆必死に頑張っている。」当たり前の事だけど、忙しい日常でこういう事を「ハッと」気付かせてくれる機会何てそうあるもんじゃない。更に、忙しい日常を離れて「情緒ある美しい世界に一時的にせよ浸ることが出来る休息の時間や幸せ」を得るという意味も無視は出来ないだろうと思う。
そうだ!これからも時間が許す限り素晴らしい近代文学の世界に再び浸ってみようと思う。学生時代に読んだ本の山が実家のどこかに眠っているはずだ!!
【Dance1988の日記】
http://d.hatena.ne.jp/Dance1988/20120102