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投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
奥州藤原氏の政権が北海道の勇払や樺太、博多から大陸、奄美、琉球と交易していた様がよくわかった
平泉仏教が大日如来や五大明王といった京都で盛んな密教は導入せず大陸の『法華経』の教理にもとづく二仏並座多宝塔を用いることで独立色を出したという話が面白い。法華経で説かれた平等思想を用いて仏の前では俘囚・蝦夷と日本国の都も対等だという意識で奥州藤原氏は平泉仏教王国を建設したという説は新鮮だった。
平泉政権を単なる日本の一地方と捉えず渤海や琉球王国といった交易国家のような存在に進化した可能性もあるという視点が面白かった
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近年の相次ぐ遺跡・遺物発掘(2011年世界遺産登録)でその歴史像が塗り替えられつつある奥州藤原氏時代の平泉に関する概論書。平泉政権を「東北の地方政権」の枠を超えた「日本国」から相対的に独立した地域王権として位置付け、その独自の宗教秩序(国家鎮護の顕密体制の拒否)や北方・中国大陸との交易ネットワークの存在を明らかにしている。平泉・奥州藤原氏研究の最新成果を知る上で非常に有用である。
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980~1020年代:桓武平氏や陸奥平氏、藤原秀郷といった有力な軍事貴族が鎮守府将軍・陸奥守に任じられる。板東の「兵」を奥羽に派遣。兵と軍事貴族の抗争が頻発。
1028年:平忠常の乱を経て鎮守府将軍の任命中止。
1051年:北方交易の主導権を握る安倍氏と陸奥守の対立激化から、前九年の役が勃発。源頼義は独力で戦争勝利の道を開けず、隣国出羽の清原氏の力を借りて決着をつけた。
1083年:源義家が陸奥守に就任。義家は奥六郡を分割し、清原氏に分け与えたが、これが清原氏の分裂を招く(後三年の役)。奥州藤原氏の政権成立へ。荘園・公領の年貢を中央政府に納めることは請け負うが、中央政府の介入は断固として断るという姿勢。
1099年:陸奥守が鎮守府将軍を兼任。中央政府は軍事貴族を陸奥守・鎮守府将軍に任命し、奥羽・出羽と蝦夷を支配しようとする政策を放棄。河内源氏は奥羽から切り離され、都では伊勢平氏が登用される。藤原清衡による鎮守府と秋田城の管轄が事実上承認される。
・奥州藤原氏の平泉政権は、南北奥羽・蝦夷を支配する政権だった。アイヌの首長層が握る交易品の生産・集荷を間接的に支配(支配-従属関係ではなく、平和で対等な関係)。
・1179年:平氏の軍事クーデター。清盛は後白河法皇を幽閉。これに対して以仁王は清盛追討を呼びかける令旨を東海・東山の源氏に発する。
・1189年:奥州藤原氏滅亡。奥州藤原氏に代わり、鎌倉幕府が軍事力を掌握する唯一の軍事部門であり、蝦夷の担い手となる。