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新しい巡礼
2016/04/18 21:55
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:猫目太郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
キリスト教に関わりの深い聖地巡礼。徒歩で聖地を回る、信者にとっては一大行事に他ならない。だが、そんな信仰深い人々だけではなく、無信仰を自負する人さへ聖地へ旅立つ。それは信仰とは関係の無い、同じ場所に向かう「同行者」との交流であり、神秘的な物へ触れるための観光と言える。
日本で流行りだした「お遍路」も観光のひとつだと思う。本書を読む前は、昔から続く徒歩での巡礼かと思いきや、90年代に流行りだし、以前は車またはバスだったとか。徒歩での巡礼が流行りだしたのは、お遍路を「世界遺産」として思われたところだ。
「世界遺産」として忘れられた宗教が思い出され、地域のアイデンティティになる事は良いことだと思う。世俗化した社会に、宗教的な物は必要無く、パワースポットやスピチュアルといった、信仰とは別に新しい価値観で作られた「聖地巡礼」が行われる。
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文章わかりやすい。聖地と呼ばれる場所がたくさんあることを改めて知った。宗教とは切り離される場所に無宗教の人たちが多く集まることの意味も考えるきっかけになった。
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現代社会における宗教の特質として、世俗化と私事化という概念を提示したうえで、その枠組みのもとで、観光と宗教の融合である現代における「聖地巡礼」を考察している。
聖地であるためには、「真正性(オーセンティシティ)」、すなわち「本物らしさ」が必要だが、それは現代においてはそれぞれの「聖地」で多様な形であらわれているということが、サンティアゴ巡礼やキリストの墓、パワースポットの例などをまじえて示されている。
地域における観光振興を考えるうえでも示唆に富んでいると感じた。
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霊的センターの世俗化による求心力の強化が共同性の紐帯としての役割を果たし、新しい宗教のスタイルを形成する例をいくつも提示している点が興味深い。帰属意識の惹起は宗教の普遍的命題だと思うが、時代に合うようにアップデートされるという指摘がおもしろかった。
余談だが、「霊的センターの世俗化」がはらむエネルギーは、古くは比叡山の僧兵などにも見られるわけで、民衆の生活にコミットする力を生み出す方法なのかもしれない。
内田樹先生は「霊的センターの機能しない住宅地はまずい」旨の記述を何度となくされている。その理由はさまざまだが、この本で指摘されている社会学的側面からも十分に説明可能なのではないかとも思いました。
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聖地巡礼と聞くと、寺社巡りをしている自分にとっては、観音巡礼や四国お遍路を思い浮かべますが、最近ではアニメ作品の舞台を訪れる意味の方が強まってきているように感じます。
以前、秩父観音巡礼に行った時、観音巡礼の地図をもらいにいった観光案内所に「聖地巡礼」コーナーを見つけて近寄ったら、そこには『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(あの花)の地図があったので、(むしろこっちなの?)とかなり衝撃を受けましたことがあります。
この本は、そうしたさまざまな聖地巡礼を取り上げたもの。聖地という言葉の定義から、宗教的な意味合いが含まれる内容になっています。
以前は熱心な信者のみが行っていた聖地巡礼ですが、「パワースポット」という言葉が出てきてから、一気に宗教色が薄まり一般に広がっていったといいます。
さらにアニメ大国である日本では、実在する場所を舞台にした作品も多く、思い入れの強いファンがその地を訪れて世界観に浸るということがメジャーになってきました。
その行為に「聖地巡礼」という言葉を当てはめ、そうしてどんどん一般的な意味合いを含むようになっていったというわけです。
宗教と離れたものであっても、その地を訪れる人はすなわち観光客であり、経済的にもメリットがあるため、自治体にとっては歓迎すべき状況。作品をもとに観光に力を入れるなどテコ入れも行っています。
海外の大きな巡礼であるサンティアゴ巡礼は、古い歴史を持つ敬虔なクリスチャンの修行の旅だと思っていましたが、実はこれが広まったのは20世紀末からで、カトリックと無関係の映画やユネスコに認定されたことがきっかけだったそう。
時代とともに宗教の在り方も変わりますし、いろいろな意味合いを持つ聖地が存在するわけです。
そう考えると「聖地巡礼」という言葉は、ますます幅広いものになっていくだろうと思えます。
なんとなくモヤモヤと気になっていた言葉についての疑問が解けてスッキリしました。
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宗教学者 岡本亮輔氏による、現代における「聖地巡礼」のもつ意味を宗教学、観光学などから考察したもの。本書の基本的な立ち位置は宗教学。宗教的に重要な場所をゴールとするものが従来の「聖地巡礼」とすると、そこに辿り着くまでの過程を重要視するのが現代の「聖地巡礼」である。また、ゴールとされる場所を「パワースポット」や「世界遺産」という言葉に置き換えることにより心理的な障壁がなくなり、誰もが触れやすくなった。なお、本書で取り上げられるアニメの聖地は宗教学の立場からなので、寺社仏閣が絡んだものだけとなっています。
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仕事でお客さんと話してる時に「サンティアゴ・デ・コンポステラへ行きたい」という話題になった事がきっかけで本書を手に取りました。
「信仰心を持たない人々が何故、巡礼の旅に出たり、山岳信仰のある山に登ったりするのか?」という問いに答えてくれた1冊でした。
以上の人々は「目的地を設定し、歩き、人と出会う事で自己を見つめ直す」事を目的としていると。
わたし自身、旅行に出るのは単に「行きたいから」だけど、こう言葉にしてくれると何か納得。
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世俗化と私事化が進展した社会における宗教の位置づけを「聖地巡礼」を軸に紐解く一冊。
サンティアゴ巡礼については寡聞にして知らなかったため、第2章は特に面白く読みました。
信仰のない現代の巡礼者にとってはサンティアゴ大聖堂の聖遺物は旅の目標にはならないため、代わりに徒歩巡礼を選び、サンティアゴまでのプロセスに意味を与えているのだといいます。
「インタビューや無数の巡礼記からは、他者との交流体験、つまり巡礼仲間との出会いや別れに高い価値が置かれている様子がうかがえる。」(第2章 3 ゴールより重要なプロセス オスピタレーロとゲスト同士の交流)
そして、「信仰者の巡礼体験が本物で、信仰なき巡礼者の体験が偽物なのではない。」「巡礼から宗教性が失われているわけではない。」(第2章 4 予定調和の巡礼体験 パターン化される交流体験)と明言されています。
私は転勤で京都に住んでいた頃に松尾大社の女神輿を担いだことがありますが、お酒造りの神様らしい、ぐらいの感覚で、松尾大社の御祭神の名前も知らないままでした。
それでも、同じ肩の痛みに耐えた仲間たちとの一体感はかけがえのないものだと感じました。趣味嗜好が多様化する現代において貴重なこの「他者との交流体験」もひとつの宗教的体験だったのだと本書を読んで気づかされました。
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そもそも観光の対象とは、ほぼ宗教的な場所、動機が発生するところであり、民衆の憂さ晴らしにも支配者側の支配のツールでもあったこと
宗教文化の観光用商品化、経済的な利用、
宗教への意識や向き合い方の変化による巡礼の多様化、
目的地ではなくそのプロセスを重視する信心によらない巡礼行、
サンチャゴ巡礼(コンポステラ、、、私的なタイミングとしてちょうどこの本読んでるときアバンタバンの篠田くん本を模索舎で発見し、コンポステラという音楽グループ始めたとき篠田くんが、コンボステラ星の巡礼の道があるんだよ、いいよねって笑っていたのを思い出した)
サンチャゴ巡礼をカトリック信仰のものとしない例としてのシャーリーマクレーンの本にも言及(篠田くん繋がりでじゃがたらのなべちゃんがシャーリーマクレーンに傾倒してアウトオンアリムを読まされた、けど、カミーノは知らなかった。二人ともその後死んじゃったこと)
という交錯もなんやかんやとありながら、
サンチャゴ巡礼はかなりのボリュームで面白いし、
2000年代に聖人認定されるピオ神父とか、カトリックの数々の秘跡も興味深い。
青森県のキリスト伝承も笑ってしまうけどこんな者でも真剣に利用しようとした権力者有力者もいたわけだし、経済効果とは関係なく地元の人の温かい眼差しも良い。
富士山信仰(衆生救済のため最後は死ぬまで断食した富士講の食行身禄、、)
パワースポットなるパワーワード登場以来、神社などでオリジナリティあふれる経済活動、アニメの聖地など。まあすべからく人のなすこと行き着く先は金勘定なんだけど時代による心のニーズとうまく合わさって面白く、
かたや、チベット仏教徒の、徒歩によるサンチャゴ巡礼よりはるかに過酷なカイラス山やラサへの五体投地巡礼はどうなのかなと思いを馳せる。意外と盛りだくさんで豊かな知識を得た。行きたい聖地もたくさん!!
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何かのきっかけで購入して積読本になっていたが、旅行をきっかけに読了。
「聖地」という単語は専らアニメ等のゆかりの地を指す単語として耳にすることが多いが、そうでない「聖地」も近時に再発見されたもの、新たな意味合いが与えられたものetcあることは興味深い。
戸来村のキリストの墓をめぐる地元の人の想いや、サンディエゴ巡礼者のプロセス重視、世界文化遺産と無形の伝統の摩擦等のエピソードが面白かった。
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宗教と観光の交差を読み解く。ジャンルとしては宗教学になるのだろうか。
アカデミズムの世界で観光が研究対象とされてこなかったことと、宗教的信仰において私的な巡礼が無価値とされることは、権威的存在が既得権益を守るために自分以外を異端視する点で似ている。
愚かな大衆がニュー・エイジ的な潮流に乗っかったとみる向きもあろうが、内面の原初的な宗教心が目覚めた世代が、宗教以前の原初の体験を切実に求めていると分析することもできよう。
それは単に人々との交流うんぬんが巡礼の目的ということではなく、内面の神性を自覚するということである。
アカデミズムも組織宗教もザルであり、その枠内において中核となるスピリットについては、それを漏らさず掬い取ることができていないように思われた。