浮かび上がる「時代の精神」
2017/02/11 23:21
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投稿者:Tora - この投稿者のレビュー一覧を見る
北条早雲の生涯を描いた書。
近年になり判明した史実とは大分食い違うが、物語として面白く、当時の社会情勢(武家貴族から、農民、商人に至るまで)が細部に渡り描かれているので、戦国初期の「時代の精神」のようなものが浮かびあがる。
文章のリズムが心地よく、時々差し挟まれる今様(当時の流行歌)も風情がある。
中国の古典への造詣も深く、なかなかこのような文章を書ける人は今はいないのではないか。
また、この小説が書かれた1980年代から時を経、その1980年代の「時代の精神」もまた隠し絵のように浮かび上がって来るように感じられた。
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関東制覇を目指して、先ず伊豆を切り取った早雲は、
越えがたい箱根の坂を越えて、ついに小田原攻略に成功した。
まさにその時、戦国の幕が切って落とされたのである。
伝統的教養と近代的領国経営法で関東の覇者となり、
治世の理想を実現させ、歴史を変えていった男、
北条早雲の一生を描いた傑作長編小説完結。
2008 9 27 読了!
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全巻通読後のレビューです。
代表的な下克上の大名である、北条早雲が主人公。
室町時代(応仁の乱以降)の様子が、政治的状況以外のこともよく書かれていて、非常に参考になる。
それに和歌も登場して、日本史や古典文学に興味のある人には、なかなか楽しめる作品になっている。
早雲の前半生は史料がないため、筆者の創作となっているが、これもなかなか楽しめる。
また、当時にあって、早雲の思想の新しさも、この作品を一際輝かせているし、早雲が駿河に入って以降の合戦の様子も生き生きと描かれており、いかにもその状況が目に浮かんでくるようであった。
小田原北条氏五代の礎を築いた早雲の領国統治の方針は、現代にも通ずるものがあるのではないか、と思った。
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いよいよ最終章小田原を奪うまでの話。この部分ですごく興味があったのは、以前読んだ早雲の軍師とのつながり。早雲の軍師では、小田原を奪った後韮山でのできごとだった。ここら辺のつながりすごくおもしろい。
北条早雲というと小田原を騙し取ったと聞いていたが、それまでにはすごく緻密な計画があった。この本からも早雲が戦国時代を始めたということであるが、なかなかよく理解できた。そういった面でも歴史の始まりを知る意味で、明治維新のようなパワーはないにしても、同じような面白さはある。
これで3巻すべて読破。なかなかわかりづらい歴史の部分だけあるので、この時代を知りえたのはすごくよかったとおもう。戦国時代という歴史のメインが、また違った面から考えられる本といえる。
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伊豆を取った早雲が、箱根の坂を越えて小田原、そして相模を併呑する。旧弊を廃し、戦国時代の幕明けを演じた早雲は革命を起こした歴史的人物と言ってよい。11.4.3
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司馬氏のいう小田原体制(領国制)は最後の最後にちょこっと。
今川氏親を見守りつつ、後北条家の礎を作った早雲。
全体的に創作部分が多いため早雲をわかるというより、応仁の乱後、長く続いた守護・地頭体制がくずれ戦国時代が幕開けするという時代背景がが分かりました。
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箱根の坂とは北条早雲の話。北条といっても鎌倉時代からの北条家ではなく、元々は伊勢新九郎という名で、足利将軍家に仕える伊勢家の末流で京都の出身。末流ということで貴族意識が薄く、いち早く貴族が没落し、地侍、農民、足軽が力を付けてくる新しい兆候に気づき、かつ、礼節の家元伊勢流の伊勢家の出だけに、運命のいたずらを鋭い洞察力と古くからの礼節を持って際どい政局を乗りきっていく。この礼節と言うのはビジネスの世界というかサラリーマン社会にもしっかり根付いている。少しでも欠けようものなら足元をすくわれる、ある意味陰湿なものでもある気がする。こういうことをドライにやれる人は相当な人格者か策士のどちらか両方だな。。オレには無理だな。。
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司馬遼太郎大ファンとしてはもっと早く読むべきであったと後悔の書。伊勢新九郎/北条早雲の生涯の物語。戦国期の作品については国盗り物語から読めば良いと認識していたが、道三、信長、秀吉、家康の前に絶対読むべし。鎌倉幕府成立の意味を、南北朝室町幕府の意味、応仁の乱、その衰退と戦国時代へと変遷の必然をの司馬氏得意の経済変化と民情の変節から明解に説明し切ります。
後北条家にこれまでは思い入れを持って見た事がなかった。この一冊で最も尊敬できる歴史上の人物の一人となりました。司馬遼太郎氏も早雲は手放しで好きのようです。早雲、その人こそが戦国時代の幕を切って落とした人。
公家化、古い権威への執着、政治機関としてあまりに無能の足利幕府。地方農業の生産性の向上と国人、地侍の力の蓄積と広い連合、国人一揆。最も早く、この経済変化を捉え、かつ次の時代の形を具体的に示し得た思想と実践が一体化した人。
歴史教科書として、中国哲学の日本への影響(孔子と孟子、仁と義)、政治の重心の変化、それに対応する仏教の拡大浸透の歴史(公家:天台/真言、武士:臨済/曹洞、農村、民衆:時宗/一向=浄土真宗)、典礼(伊勢流、小笠原流、今川流)、戦国時代前の守護の家系、源平藤橘の氏の系譜、まあ良くここまで明解に、かつこの物語に即して説明してくれるものです。
前半生を描く上巻当たりでは、何となく物語の進行とそのリズムが緩慢でダレる。何となく司馬さんらしくないと感じた。北条早雲その人の前半生については本当に謎だらけであり、本当に記録がないのだという。司馬流を発揮するべき材料がなく、司馬遼太郎氏自身が後書きで、可能な限りの断片から、こうであろうという考えがまとまるまで時を待って"造形した"と解説している。
バサラの気風などではない。明確な時代把握と新たな政治への信条を持って、それでも究極の勇気を必要とした、古い権威、封建制度の破壊。本当の下克上。本当の乱世、戦国時代への変換点を通過する勇気。その越え難い峠への長い坂、箱根の坂を越えて行く早雲の姿の美しさに感動出来る。
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北条早雲の物語。北条早雲自体は、非常に魅力ある武将。ただ、室町期の武将の考え、背景の説明が長く、頭に話が入ってこなかった。
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最終巻。北条早雲が伊豆に入り、小田原を手中に収めるまでを描く。最終巻では、関東での三浦氏、大森氏等との争いが舞台となり、読んでいても小気味よい。
早雲は時間をかけてでも自分の目指すところを実現し、その実現の過程で軸(「義」なのであろう)を貫き通す。
「あとがき」にもあるように、早雲が「領国制」という戦国時代に先駆けての新たな行政区を作ったことが歴史的にも意義のあることであり、その意味でも歴史上、押さえておくべき人物なのであろう。
以下引用~
・早雲は、やれようがやれまいが、四公六民ばかりはつらぬかねばならないと思っていた。
・戦国とは、百姓をじかに支配しない守護が消え、代わって大名とよばれる者が、農村を直接支配した時代ともいえる。
・平家政権の平清盛が、日本国最初の貿易主義の政治家で、さかんに対宋貿易をおこなった。決済商品として、金が必要になった。当時、奥州平泉の藤原氏がにわかに繁栄したのは、北上川の砂金の採取権をもっていたためで、この砂金が清盛の貿易につかわれ、宋に流れた。
・国内での海賊行為をやった集団で、上陸した土地の大名になった者もある。古い例としては鎌倉の世の承久元年十二月、甲斐の武田氏の一族73人が、大いなる船にのって奥州八戸に上陸して土地を支配したのが南部氏のおこりだということが「奥南旧指禄」に書かれている。
・自分の施政について直接農民と約束するというやり方も、減税という布告の内容も、日本国はじまって以来のことではなかったか。
・日本の地名につく小(お)は、物の大小をあらわすよりも、その地へのいとおしさをこめた場合が多い。
・義は人が、いわば私情を殺して意志力で外からひきよせ、行動目標もしくは、ばねとするもので、義をおこなうのは情としてはつらく、しばしばわが身を危うくもする。しかしながら、義がなければ国家にも個人にも美しさがない、と氏綱はいう。さらに、美しさがなくて繁栄をえたところで仕方がないものだ、と氏綱は痛烈にいうのである。
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日本史で北条早雲の名前は知ってはいたが、それ以上はいったいどういう人物なのかまったく知らなかったので興味深く読むことができた。
北条早雲はその前半生に関して資料が少なく、どうやら本書でも伊勢新九郎と名乗っていた北条早雲の前半生はこうであったろうという司馬遼太郎氏の創作になっているようである。
本書を読んで、北条早雲は中年以降になってやっと歴史に登場してきた大器晩成型の人物だということがわかった。婚姻も遅い。城持ちとなっても驕ることがなかったことや、これまでにないほど租税を減免し領国経営に手腕を発揮したことなどその先駆性に驚かされた。
そのため、日本史上最初の戦国大名と呼べる人物が北条早雲だったということも初めて知ることだった。
北条早雲のようにその前半生を名も無き貧しい者として一生を終えるかと思われた人物が突如として歴史の表舞台に登場し大名として画期的な革命ともいえることを成し遂げたというのは、自分と引き比べて心強いものを感じさせてくれるものがある。
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北条早雲はある日突然伊豆を乗っとりました、って感じの人なので、若い頃の資料が少ないです。この本では伊豆を乗っ取るまでの話が十分すぎるほど書かれていて、多少くどいところはあるものの、面白く描かれています。
↓ ブログも書いています。
http://fuji2000.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_2a1c.html
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・興味深かったんだけどどうも読み進むのが遅かった。いまいちのりきれなかった。
・北条早雲、元の名は伊勢新九郎。足利将軍家の子供を預かって礼儀作法を教え込んだりする伊勢家の末端の男。つまりもとは京都の名家の人なんだが、応仁の乱を経て一介の旅人に。そして縁あって駿河の今川家を助けることとなり、その後色々あって伊豆を盗り、三浦半島を攻め、武蔵の戦いに巻き込まれて川越で戦い、やがて小田原の主となり…そして、関八州の長となる。京都中心の政治のなかにいた人が流れ流れて関東にくるわけで、近畿から見た関東ってどんなだったのか、という視点で語られる部分が個人的には面白かった。
・太田道灌が江戸城を作った。太田道灌て人はそうとう素敵な人だったようだ。
・早雲さんたいそう気が長い。この時代、駿河に来たとき既に40過ぎで、伊豆を盗ったとき60近くで、小田原を落としたのが64、小田原の元城主三浦氏にとどめをさすべく兵を動かしたのがその17年後の81歳、そして87でついに決着をつけ、翌年死ぬ。長寿。だし、長寿であることを知っていたかのように、なかなか焦らない。面白い人だ。
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得てして人は歴史上の人物を経営者に例えたがる傾向にある。はてこの伊勢新九郎、小笠原家、今川家とならぶ行儀作法の家元の伊勢家の傍流ではあるが出自は怪しくない。後の早雲庵伊勢宗瑞、そうこの北条早雲はどうであろうか。
応仁の乱の最前線で生き、戦国時代の幕を切って落とした男と言われる早雲の評価は、彼の当時における一国の統治方法の大胆な価値観の変革であろう。
現代の経営に置き換えるなら、『会社は人に有りき』と言えようか。社員に如何に社長である自分を信じてもらえるか、社長を信じてこそ社員は全力で仕事にぶつかる。そう、どこぞの経営方法論何ぞ読んで人心掌握した気分で偉ぶるより歴史上の人物を掘り下げた本を読んだ方が経営者にとってきっと為になると、俺は思うが。
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経営者たる者、かくあるべし!!きっと北条早雲を大河でやったら…地味だろうなぁ。だから、すごい観てみたい。
北条早雲になって、堀越公方を追いやる、いよいよ関東を獲る!しかし…盛り上がらないぞ!? それが北条早雲らしさ。この達観した感じがいいのさ。
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p13 検地
最初の検地は太閤秀吉とされているが、早雲が最初に手を付けている。農民を直接管理・指導するという早雲の考え方から検地を実施したようだ。
税が安い分、確実に徴税しないといけないから厳しく調べた。
p19 伊豆=厳(イズ)
司馬氏曰く、伊豆の語源は厳(イズ)であっただろう。伊豆の山々は荘厳さと神秘的な風景を持つ。
p25 貧窮
地頭としての早雲は財政的に貧窮であった。というのも、税金が安いのだから当然である。だから、豊かな伊豆の地を取るべきだと考えた。
すでに腐敗した伊豆公方の土地…そのうち勝手に崩壊するだろうが、獲りに行くことを本気で考えた。
p31 金に目を付けた
早雲は伊豆で採れる金に注目した。当時、日本の経済は赤子のようなものであり、貨幣の信用・流通はまだ一般的でなかった。しかし、採取した金で足軽隊を組織しようと考えた早雲はやはり先見の明があると言わざるを得ない。
p77 まろ
堀越公方:足利政知は息子:茶々丸に殺された。狂人であった茶々丸ではなく弟の義遐を世継ぎにして親子仲が悪化したのがきっかけ。そこから逃げてきた義遐は早雲に助けを求めてきた。彼は京に逃れ、細川政元の策略で足利義澄として11代将軍になる。
義遐は早雲のもとに落ち延びた際、「まろ」という一人称を用いた。武士が貴族化している。どうやらこの時代、北陸の一向寺院でも僧が「まろ」という一人称を使うほど腐敗していたらしい。
昔の人にとって、貴族というのはそれほど憧れる地位だったのだな。積極的に腐りたいのか…。
p82 足利という家
この世に巣くう魔物とは足利御家であるようにみえる。人々の血を吸うそれだけの家である。
早雲激おこである。
p85 義澄
義遐が第11代足利将軍になるという数奇な運命。明応の政変ね。
p92 一山一寧
元寇ののち、北条時貞の時代に元の成宗が日本に修好を持ちかけようと派遣したのが、一山一寧和尚であった。しかし、時貞はこれを間諜と思い、修禅寺に幽閉。時貞が一山一寧の徳の高さを知り、建長寺や円覚寺の禅寺の和尚にしてもらった。
p94 鎌倉五山
建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の臨済宗五大寺である。
京都五山は足利家によって模倣された臨済寺である。天龍寺、建仁寺、相国寺、東福寺、万寿寺
p114 馳走
馳走とは本来、馬を鞭打って駆け付けることを言う。
御馳走になるとはこれが意味変質したもの。自分のために戦力を(食事を)供与してくれることである。
p138 韮山の北条
北条氏は高時の時に滅んだ。その後、高時の遺児である勝長寿丸という者が信州に逃れ、北条時行と��て足利氏と争った。時行の子孫が伊豆の韮山で細々と生き延びて、その地では北条様といわれ敬意を持って扱われた。
早雲はその北条家の屋敷を使った。それゆえ、周囲の民から北条様と呼ばれるようになった。
早雲自身が自分を北条と名乗ったことはなかった。
p153 早雲の考え
早雲は自身のことを「旅の者」と考えていた。
早雲は自分の領地を歩き回った。お付きの者は少人数で。そうやって地の人たちと交流を持って、新しい地頭スタイルを創り出した。
p187 みかん
蜜柑の来歴はよくわからない。奈良朝から平安朝にかけて中国から様々な植物の種子が輸入され、その中の柑橘類の中にやたらと甘い「温州」があり、薩摩で発見され、全国に広まった。
この全国に広める役割を担ったのが、禅僧であったというのは、文化である。
p270 スガ
砂地の土地は田んぼにならず、使い道のない土地として「スカ」と言われた。そういう土地を「菅」「須賀」と言葉を当てられたらしい。そういう名前の場所は、、、気にしてみよう!!
p317 乱世じゃ!!
室町時代、家督争いは日常茶飯事だった。それ故に応仁の乱などが起き、乱世だった。
しかし、早雲が伊豆・相模の地を取れば、意味は全く違う。地侍の長でしかないものが、将軍家を転覆させるようなものだ。
p321 山本判官
罪人の子である源頼朝を監視する役だった、伊豆代官山本判官。平家打倒に蜂起した頼朝は第一歩として山本判官を討ち取った。
p331 お!
地名に「お」がつくのは大小を表すというより、その土地に敬意を込めた「御」という意味の方が多い。小田原も、ただの田原ではなく、重要な土地として小田原と呼ばれたからそうなったのだろうと。
p375 早雲の戦い方
甲州武田氏が諏訪氏に戦を挑んだ。諏訪氏と今川家は懇意の中なので早雲も諏訪氏支援のため武田氏攻めに出た。その際、事前に攻め地に密使を送り、「村は焼き給うな、こちらも焼かぬ。」と相手を傷つけず、国境に無駄に恨みを買うようなことが無いようにした。
無暗に力を顕示しようとしない所、達観していて好き
p384 悪党
早雲は今でいえば戦国大名の走りであったが、当時はそんな言葉はなく、「悪党」の大玉である。
p410 長生き
早雲は88歳まで生きた。
ちなみに小田原城を取ったのは64歳。ちなみに今川氏親の相続を阻む今川範満を撃ったのが56歳。
下剋上に乗り出してから30年も活動していたのだから、たいしたもんだ。
p413 下剋上
下剋上という言葉は後世にできた言葉ではなく、当時からあった言葉。下の者が上の者を討つ革命、ではなく、下の者が上の者より人気者になり立場がひっくり変わる、というのが正しいらしい。
p422 玉縄合戦
三浦半島南端の新井城に三浦道寸は籠城した。早雲は兵糧攻めに出た。三浦氏は扇ガ谷上杉氏に援軍を頼んだが、早雲はこの援軍を玉縄の地で打ち破った。
これは卑賤の地頭が、関東管領という室町の支配者に初めて打ち勝った歴史的一戦であった。
p427 教育
早雲が家臣に口やかまし��生活習慣を説いていたが、それは領民にも広がった。
この時代、農民に生活規範などなかったであろう。ある程度の生きる上でのルールはあっても、新たな民政を作り上げるだけの規範意識はない。早雲は新たに貫高制や貨幣制度を取り入れる先見の明があった。それには民草の教育が不可欠である。
p434 『孟子』は危険書
孟子では、殷の紂王が周の武王に討たれたのは正義であると、下剋上を正当化している。士族の世を転覆する根拠となるこの書物は中国から輸入禁止だった。
これは早雲の愛読書だった。
理想的政治家は、その言に多少倫理的問題があっても、その目指すところに「義」があるから許容される。
マキャヴェリズムだね。
p437 暁の男
早雲という名前を考える。この言葉は造語である。
早雲とはおそらく暁の雲のことであろう。朝焼けに染まる雲は、降雨の兆しともいわれる。
早雲は自分の名前がこれからの世を体現するようにしたのだろうか。
戦国時代という旧支配体制の崩壊と新しい人の世の始まり。乱世という雨が降り、地が固まるという予想。
早雲という名前、ステキデスネ。
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思ったよりも盛り上がらないけれど、THE パイオニア
って感じの人のお話は、現代の経営者の伝記っぽくて、そういう意味で面白かった。
経営者とは斯くあるべき!
北条早雲の大河ドラマ化の論議があった。視聴率獲れないだろうけれど、ぜひやってほしいなぁ。
http://okwave.jp/qa/q7861872.html