オイ、ヴェイ、ヴェイ。・・・・
2015/10/24 23:25
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投稿者:okadata - この投稿者のレビュー一覧を見る
雷に打たれ命を取り留めた替わりにいきなり音楽に取り憑かれた男、金管楽器の低音に反応しててんかん発作を起こす船乗りと言った様々な症例を紹介するオリバー・サックスは「レナードの朝」の原作で有名な神経学者だ。
歌手がよく音楽の力を口にするがどうも一定の条件では本当に力を持つ。言葉を話せなくなった失語症の患者が音楽にのせると会話ができるようになる事がある。なんと話しかけても「オイ、ヴェイ、ヴェイ。・・・」を繰り返す自動症の患者に音楽に乗せて問いかけると答えが帰ってくるようになった。「コーヒー、それとも紅茶?」「コーヒー」・・・「デイヴィッドは治っている!」彼の食事を持って帰りこう告げた。「デイヴィッド、朝食だよ」「オイ、ヴェイ、ヴェイ。・・・」
絶対音感を持つ者がいれば、音楽を認識できない人もいる。4~5歳で音楽の訓練を始めた場合ちなみに中国人の6割は絶対音感の基準を満たしたのに対し、普通のアメリカ人の場合わずか14%に留まった。声の高低を使う声調言語が音感を鍛える様なのだ。絶対音感のある音楽家の脳は側頭平面の大きさが、左右で大きく違っており、赤ん坊の方が絶対音感に頼るところが大きいことから「大部分の人間は絶対音感をなくし、音楽能力が縮小した」のかも知れない。とは言え絶対音感と美しい音楽を作る能力は別物だ。
生まれつきの視力障害の場合に聴力が発達するのは使われない視神経を聴覚に割り当てるからで、感覚神経は融通が効くものらしい。音色や言葉や数字に色を感じる共感覚はなんだか電話が混戦しているような話だ。特定の才能だけが飛び抜けている知的障害のサヴァン、「なぜ私たちみんなにサヴァンの才能がないのだろうか?」、胎児や乳幼児で弱い左脳が損傷を受けた場合、右脳が対照的に過剰発達をしてしまうのか。左脳が発達すると右脳機能の一部を抑制したり阻止したりするのだが左脳の損傷で変則的に右脳優位になる場合がある。
脳神経に起きているのはおそらく物理的な現象だがそれにしてもいろんなことが起こる。オリバー・サックスの新作は「見てしまう人々 幻覚の脳科学」すでにiPadの中で積ん読状態でこちらも楽しみだ。
音楽は言葉の代替手段なんだろうか
2016/03/21 00:20
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投稿者:タヌ様 - この投稿者のレビュー一覧を見る
絶対音感は4,5歳までにトレーニングすると身につく、最初はある人が多い。実際にそういう実例を見てきた。
なんとも、この音を捉える力は、不思議なのである。
音楽専門の人に言葉が通じないと言うか、聞こえていても理解していない。コミュニケーション不可だと思う一方で、日本語以外の言語をいともたやすく身につけている。苦もなくなのだ。そう、聞いているうちになんか身につけているのである。
本書でそういう不思議な外界世界と関わり方をする人の脳はMRIでたやすく変異が確認されるとある。作家や数学者はできないんだそうで。
脳という未知なる世界が創り出す人間像をサックス氏は語っている。なんとも驚きではあるのだが。
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投稿者:Tucker - この投稿者のレビュー一覧を見る
映画「レナードの朝」の原作者としても有名な脳神経科医オリヴァー・サックスによる医学エッセイ。
著者の他の作品でもそうだが、長い脚注が玉にキズ。
「音楽嗜好症」という名前の病気があるわけではなく、音楽に関連する症例と、その考察となっている。
また、症例だけでなく、音楽に関するサヴァン症候群の話や、音と色の共感覚の話などもあり、実に盛りだくさん。
音楽を聴いたり、演奏したり、歌ったりするする事は、脳の様々な部位に関わり、かつ深い部分に根ざしているらしい。
病気やケガで、脳の機能の多くが破壊されてしまったとしても、音楽を認識する機能は、なかなか損なわれない。
歌う事ができる失語症患者がいるかと思えば、リズムをつけて歌うように話す事で意思の疎通ができる認知症患者もいるし、記憶が数秒しか持続しない元音楽家の患者は演奏する事ができる。
そういえば、映画「レナードの朝」でも、指一本動かせない患者が音楽に反応するシーンがある。
自分の事を振り返ってみても、Youtubeなどで、子供の頃、見たアニメや特撮番組の主題歌を聴いたりすると、ストーリーは、さっぱり覚えていなくても、自分でもビックリするほど、正確に歌えたりする事がある。
それに音楽ではないが、「イイクニ作ろう」と言われたら、未だに「鎌倉幕府」と反射的に答えてしまう。
(今は、鎌倉幕府の成立は「1192年(イイクニ)」ではないらしいが・・・)
つくづく思うのは、人間の脳の働きの不思議さ。
チェスや将棋など特定のルール下で行われるものなら、人工知能が人間に勝つ時もあるが、「故障」に対する「冗長性」では、人間の脳の方がはるかに進んでいると思える。
本書で紹介された患者達は、「故障」した機能の代わりに動き出した部分が、過剰に活動してしまっているが・・・。
ところで、実際に音楽を治療に用いる「音楽療法」というものも、あるらしい。
薬も効かない症状に対して、音楽が効く、というのも、不思議と言えば、不思議な話。
(ただ、音楽によって、発作が起きる、あるいは症状が悪化するケースもあるので、音楽は決して「万能薬」ではない。)
一体、人間にとって、音楽とは何なのか?という疑問も湧いてくる。
音楽も作曲者や演奏者との「触れあい」と考えれば、映画「レナードの朝」のラスト近くのセリフが頭をよぎる。
「一番の"薬"は"人の心"(=人との触れあい)だった。」
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難しい本だった・・・。時間かけすぎたかもしれない。色々な症例をもとに、医学的、哲学的、工学的にその分析をする。分析結果がどうつながるのかは分かるものもあればわからないものもある。と、目的を掴むのに苦労する内容に思えた。こういう例があるので、応用すると何らかの音楽的才能が開ける、とかいう話ではなかった(少しその辺に期待してしまった)。
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脳神経外科医である著者による、音楽と様々な病気に関する医学エッセイ。
専門的な内容もあるが、決して難解ではなく、基本的には気軽な読み物。
脳の機能については解っていないことも多く、事故や病気で一部の機能を失った患者がどのような症状を訴えるかも様々だが、本書では何らかの形で『音楽』が関わっている症例が纏められている。
誰にでも経験があるだろうが、『頭の中でひとつのフレーズが繰り返し再生される』あの現象についてもしっかり書いてあったw 何かツボにハマると繰り返されるよねえ……ヨドバシカメラとかジャパネットとかww
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音楽に取りつかれるということ、脳の虫、才能、絶対音感、共感覚、音楽と身体機能、音楽と感情、音楽と記憶、認知症。
今まで論じられてきたこと、あるいは、語られることなく、個人的な「あるある」でバラバラに済まされてきたような諸々が「脳」をキーステーションにして展開される。その纏め上げだけでも面白いが、さらに特筆すべきなのは、それぞれに紐づけされた事例の多さ。
脳科学者である筆者自身が診察した患者、過去の研究、筆者のもとに手紙で寄せられた体験談、歴史上の人物や作曲家についても考察や分析が及ぶ。
自分の身に覚えがある事例もあり、納得したり感心したり、時には感動もしながら読み進められた。
基本的にはただの音楽好きが読んでもついていける平易な筆致。ただし、脳の知識(たとえば部位ごとの機能マッピングなど)が頭に入っている人なら、ずっと面白く読めるのだろうなと思った。
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「言語の発明、言葉の形成、思考の分析が邪魔をしなければ、人の霊魂と霊魂は交信していたかもしれない。その手段の例としてただ一つ挙げられるのが、音楽なのではないだろうか。しかし可能性は無に帰したようで、人類は別の方向に進化したのだ。」(『失われた時を求めて』)
というわけで、しばしば人にとり憑くそんな音楽の幽霊を脳神経科医が探求する。果たしてその正体は?
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2014年9月14日読了。
素晴らしかった・・・!医療エッセイはほとんど読まないので、何の予備知識もなく、店頭で吸い寄せられるようにして手に取ってたのだけれども、間違いなく、それだけのパワーがあった本だと思う!
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オリヴァー・サックスは、ぼくが脳神経学に興味を持つきっかけになった「妻を帽子とまちがえた男」の著者。
一般的には、「レナードの朝」で有名。
本書では、脳に障害を抱えた人たちを音楽の視点からみている。
脳の障害が様々な困難を引き起こすにもかかわらず、音楽的な能力は損なわれず、むしろ、向上するケースがあることを具体的な患者との関わりを挙げながら、説明していく。
いつものかんじではあるけれど、ぼくに音楽の知識がないせいか、するすると読み進めることができなかった。
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以前からこの本のハードカバー単行本を書店で見かけ、気にはしていたのだが、突然文庫化されたので早速買ってみた。
著者は「レナードの朝」で有名な脳神経科の臨床医で、ここでは音楽にまつわる様々な脳現象(音楽が頭から離れない神経症的状況とか、脳の損傷の結果音楽が意味あるものとして把捉できなくなるといった症例とか)を豊富に列挙しており、音楽現象の一面として、興味深い。
ただし、著者は臨床医としての誠実さから、「わからない」ことはわかったように書かないため、諸事象の根本的な理由、その解釈が、読者には呈示されない。
その辺は興味本位で読んでいる我々にとってはちょっと不満である。解釈のほどこされない諸現象が列挙され、私たちは不安になってしまう。もちろん、これは自然科学の限界をよくわきまえた、極めて適切な書き方なのだが。
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雷に打たれ命を取り留めた替わりにいきなり音楽に取り憑かれた男、金管楽器の低音に反応しててんかん発作を起こす船乗りと言った様々な症例を紹介するオリバー・サックスは「レナードの朝」の原作で有名な神経学者だ。
歌手がよく音楽の力を口にするがどうも一定の条件では本当に力を持つ。言葉を話せなくなった失語症の患者が音楽にのせると会話ができるようになる事がある。なんと話しかけても「オイ、ヴェイ、ヴェイ。・・・」を繰り返す自動症の患者に音楽に乗せて問いかけると答えが帰ってくるようになった。「コーヒー、それとも紅茶?」「コーヒー」・・・「デイヴィッドは治っている!」彼の食事を持って帰りこう告げた。「デイヴィッド、朝食だよ」「オイ、ヴェイ、ヴェイ。・・・」
絶対音感を持つ者がいれば、音楽を認識できない人もいる。4~5歳で音楽の訓練を始めた場合ちなみに中国人の6割は絶対音感の基準を満たしたのに対し、普通のアメリカ人の場合わずか14%に留まった。声の高低を使う声調言語が音感を鍛える様なのだ。絶対音感のある音楽家の脳は側頭平面の大きさが、左右で大きく違っており、赤ん坊の方が絶対音感に頼るところが大きいことから「大部分の人間は絶対音感をなくし、音楽能力が縮小した」のかも知れない。とは言え絶対音感と美しい音楽を作る能力は別物だ。
生まれつきの視力障害の場合に聴力が発達するのは使われない視神経を聴覚に割り当てるからで、感覚神経は融通が効くものらしい。音色や言葉や数字に色を感じる共感覚はなんだか電話が混戦しているような話だ。特定の才能だけが飛び抜けている知的障害のサヴァン、「なぜ私たちみんなにサヴァンの才能がないのだろうか?」、胎児や乳幼児で弱い左脳が損傷を受けた場合、右脳が対照的に過剰発達をしてしまうのか。左脳が発達すると右脳機能の一部を抑制したり阻止したりするのだが左脳の損傷で変則的に右脳優位になる場合がある。
脳神経に起きているのはおそらく物理的な現象だがそれにしてもいろんなことが起こる。オリバー・サックスの新作は「見てしまう人々 幻覚の脳科学」すでにiPadの中で積ん読状態でこちらも楽しみだ。
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音楽『嗜好』症というタイトルだけあって、29章すべてで音楽をKEYとして、様々な脳機能上の欠損(事故、病気、先天性、手術)を原因として起きる様々な症例が扱われる。
異常に音楽が好きになった、音楽が嫌いになった、楽しめなくなった…そして音楽に救われた、等の話が様々な症例とともに詳細に紹介される。
どれもこれも人間の脳機能の不可思議さに驚くばかりだが、こうなることが誰にでもありうると思うと怖くなる。
音楽(主にクラシック)の素養があるともっと理解が深まるかもしれないが、さほど素養が無い私の様な読者でもYouTubeなどで動画を見ながら読むとより一層楽しめた。
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文字通り“雷に打たれて”以来、ピアノを弾くことに取り憑かれてしまった医師。隣人の家から大音量で流れるレコードプレーヤーの音楽のような幻聴。聴覚は機能しているのに脳が音楽を構成する要素をうまく感知できず、無感動になってしまう失音楽症。反対に、言語に不自由を抱えている人たちが音楽の力によって、コミュニケーション手段やアイデンティティを取り戻す過程。脳神経科医の著者が出会い、あるいは送られてきた手紙や時に自身の体験談から、音楽とヒトの脳の関係を語ったノンフィクション。
私が本書で一番興味深かったのは絶対音感にまつわるくだり。ニューヨークと北京の音楽学校で行った調査で、4歳から5歳のあいだに音楽の訓練を始めた生徒のうち、中国人生徒は約60%が絶対音感の基準を満たしていたが、英語話者の生徒は約14%しか基準を満たしていなかったという。この差は中国語が言葉の意味を区別するのに音の高低パターンを用いる「声調言語」であることに関わっている。幼児期において言語能力の発達はふつう絶対音感の保持を妨げるのだが、声調言語はそれ自体音感を必要とするために、絶対音感も保たれるということらしい。
これは同時に乳幼児はみな絶対音感の潜在能力を持っているのだが、言語を習得するため、あるいは聴覚情報を総合的に処理できるようになるために抑制されていくものだということも表している。話はさらにネアンデルタール人の時代へ飛び、原始の人類は音楽でコミュニケーションをとっていたはずなのだが、言語の発達により大部分の人間は絶対音感を失くし音楽能力が縮小した、というスティーヴン・ミズンの仮説を紹介している。
まるで「文字禍」。他の章では古代ギリシャ人が膨大な「イーリアス」や「オデュッセイア」を覚えていられたのは叙事詩に節がついていたからだ、という当然の指摘もあり、ネアンデルタール人と比べて音感が退化してからも人びとは音楽で記憶をつなぎとめていたとわかる。言葉と文字が音楽をコミュニケーションの中心から追いやってしまったのだろうか。
もちろん音楽は今でも人間の記憶と感情を喚起させる力を失ってしまったわけではない。本書第3部、第4部で紹介された音楽療法で救われたさまざまな人たち、特にチック症状に悩むトゥレットの患者たちがドラムを叩くことで解放されていく姿にはとても感動した。視覚・聴覚・知覚に障害を抱える人みなに音楽が作用するのはそれが〈振動〉に他ならないからではないかとも思い、コロナ禍の今、現場で音楽を共有することの意味をまたもう一度考えることになった。
音楽に救われた人だけでなく、音楽に苦しめられた人びとも紹介されている。その多くは耳をよく使う音楽家だ。蝸牛管の衰えによって大脳皮質における音のマッピングが歪んでしまい、音感がズレてしまった作曲家の「自分がもっている耳で仕事をするんですよ。自分がほしい耳ではなくてね」という言葉には胸が痛んだ。聴覚が変調をきたすと、その空白を補うために脳が幻聴を聞かせることもある。ヒトの脳は〈意味〉を求め、〈意味〉をつくりだすことから逃れられないのだ。
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面白かった。この本ほど「自分にとっての音楽とは何か?」を真剣に考えさせられた本はありません。また、これほどまでに音楽的才能というのが解剖学的遺伝(つまり生まれつき)からの影響に支えられている事に驚き、自分には自分が生まれつき持っている手札で鍛錬していくことしか出来ないのだという事実と、自分には自分が生まれつき持っている手札を存分に使って良いのだと選択肢を貰いました。私と貴方が聴いている音楽への認識に、例えどれほどまでに違いが合ってもそれはそれで良いのだ。名著。
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プロの音楽家の脳は一瞬のためらいもなく見分けることができるらしい……他の芸術家、作家、数学者とかの脳は、ほとんど不可能なのに。それくらい、音楽家の脳梁は肥大しているし、運動野、聴覚野、視覚空間野(?)、小脳も発達しているんだって。あと、音楽に定期的に触れることで、脳の音楽を聞いたり演奏したりするために協調しないといけない部位の発達が刺激されるから、音楽は読み書きと同じように教育上重要なんだとか。私も音楽したくなった。自分の子どもにも経験させてあげたくなった。