他者のための食べ物としての肉体
2003/05/31 20:37
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
レヴィナスは人間を神の家畜と考えていた。この凄まじい人間認識を真正面から受け止めるため、『全体性と無限』を〈繁殖〉で終わるべき書物として読み抜くことを目指したのが本書だ。著者はあとがきにそう書いている。
レヴィナスは、さまざまな道徳的経験の下に「人間の根源的な事実」が横たわっていることを指摘した。それは「私が他人を食べ物としないという事実、あるいは、私が食べ物としないものが他人であるという事実」である。倫理にはこの事実以上の根拠や基礎付けは不要である。レヴィナスの倫理の核心は、「自分のために生きることが、肉体の次元においては、また、労働の次元においては、他者のために生きることにもなってしまっている」ところから一切の事柄を考え直すことにある。「肉体の次元」とは、私が身体的主体(認識主観・行為主観)として能動的活動を行うことではなく、他者のための食べ物になりうる肉体を私が養い維持することだ。そして「労働」とは、肉体の代わりに贈与できるものを生産する営みのことである。
他者のため、人類のために生きる。とはいえ、私は死ぬ。私やあなたは無に帰する。しかし、人間は無に帰さない。ここで働いているのが生殖である。馬が馬を生むように、人間を生むのは人間であって神ではない。人間が死ぬのは、人間が新たに人生を始めるものを生むからである。肉体の愛において、愛はその肉体を食べようとするわけではない。愛撫を通じて、愛する者は未だ存在しない「崇高な食べ物」を、未だ存在しない肉体を求めている。愛撫される肉体には、やがて消滅するものの死の影だけではなく、未だ存在しないものも宿っているのだ。「死にゆくはずの肉体に触れながら、他者のために生きるとはいかなることかが問われている」。
──従来の哲学と倫理学は、人間が人間を生むということについて、重く深く考えることをしてこなかった。「繁殖性を存在論的カテゴリーに昇格させなければならない」。小泉氏はレヴィナスのこの問題提起を真っ正面から受け止めようとする。「繁殖性を受肉の意味として受け止めながら生きて死んでゆく」次元において、何のために生きるのかという問いに対する答えが「来るべき他者のために生きて死ぬ」であるとして、では「来るべき他者」とは何か。レヴィナスの思索の限界が、その祖述に徹した本書の限界だ。
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烏兎の庭 第二部 書評 7.23.05
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto02/bunsho/mamiko.html
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レヴィナスの噛み砕き本。
内田樹を読みなれている人ならスッと読める。
たまに思い出して読んでハっとしたい本
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[ 内容 ]
真の人生は、どんな人生なのか。
人間は、生まれて、生んで、死んでゆく。
この事実をどう受け止めるか。
レヴィナスと共に、人生の意味と人生の目的について根底から考え直す。
[ 目次 ]
はじめに 生きていてよいのか
第1章 自分のために生きる(こんなもののために生まれてきたんじゃない;No Music,No Life ほか)
第2章 他者のために生きる(倫理の始まり;他者の顔 ほか)
第3章 来るべき他者のために(とはいえ、私は死ぬ;存在と無、生成と消滅、生と死 ほか)
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[ 参考となる書評 ]
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『ヨーロッパ思想入門』で震えた「他者」の概念にも触れられているが、本書の肝は「繁殖」の概念。適所で例示を示し、レヴィナス思想の核心に迫る試み。
気になった記述。
・働きながら生きている。ということは、なにものかを享受して生きていることになる。
・人生は無条件に幸福であり、「人生は人生への愛である」。
・「享受において、私は絶対的に私のために存在する。私はエゴイストであるが、他者に対してエゴイストであるということではない。私は独りであるが、孤独であるというとではない。私は無垢な独りのエゴイストである。」
・自殺に定位して死を考えたところで、生まれて老いて死んでゆく肉体の次元には決して届かないからである。
・虐げられた貧しき人びととに告発されることが倫理の始まりであり、虐げられた貧しき人びととの連帯と共同性を目指すことが倫理であるという思いは変わっていない。
・倫理の根拠や基礎付けをほしがる心性には、どこか怪しげなところがある。繰り返しレヴィナスは倫理こそ第一哲学であると語った。
・「他者の本質的な悲惨に答えうること、私を資源として発見すること」によって、私はエゴイズムを脱することになる。
・<死んだら終わり><死ぬまで頑張る>は未来の他者に向けての遺言ではないか?
・従来の哲学と論理学は、人間が人間を生むということ、二人の人間が一人の人間を生むということについて、重く深く考えることをしてこなかった。
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度肝を抜かれた。前半部が最高にいい。今年ベスト。「なんでいきるのか」「幸福になるために生きている」……これは非常に凡庸な問い(と答え)だ。
そこからの、小泉=レヴィナスのよる、問題構造の立て直し方がすごい。
目的を問わなくても、人は生きていける。息を吸って、食物を食べて、風景を眺めること…、我々はそれらをすでに享受してしまっている! 享受し続けている時点で、生きているという時点で、我々はもうすでに幸せなのだ。
……それでも、享受しているはずなのに、元気じゃないときがあるよね、特に理由もなく。
→→それは、「実存そのもの」に疲れてしまっているのだ。生きて、存在することへの倦怠。
そしてそこから抜け出す方法は、ただ自分が「幸福に生きる」という堂々巡りするだけの回答から導き出すことは出来ない! という。
もう、こんな入口を建てられた時点ですごい。ものすごい。
それにくらべて後半部は引き込みが若干弱いと思う。それが、ただ単に私の理解不足なのか、おぼろげに理解していても小泉=レヴィナスに共感できないからなのかは、わからない。
でも、いずれにせよ、こんな「問いの入り口」があるのだ、と知れただけでも大きな収穫である。入り口に入ったあとの道は、自分で探してみるのもよいと思う。…とにかく、読んでよかった。
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レヴィナス入門てかんじ。読みやすいかな。何のために生きるのか、が冒頭では淡々とわかりやすくかかれてる。
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レヴィナスの入門として。生きる意味とは、レヴィナス的にいけば「人間の繁殖のため」「来るべき後世のため」ということになる。
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何のために生きるのかという問いは、他者のために生きると、また、他者のために生きることを通して人類のために生きると答えられた。そして、何のために生きるのかという問いを駆り立てる欲望は、そんな欲望に駆り立てられる子どもを生むことによって充たされる。ここにきて、何のために生きるのかという問いは、人間の繁殖のために生きて死ぬと答えられることになる。