文字通り功利主義を学び始めるのに最適の書
2016/12/31 14:32
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投稿者:miyajima - この投稿者のレビュー一覧を見る
デイヴィッド・エドモンズの「「太った男を殺しますか? 「トロリー問題」が教えてくれること」の次に読みました。
「トロリオロジー」では功利主義を理解していることが必要ということでベンサムを読む前に予習。
功利主義は18世紀の哲学者ベンサムが定式化した倫理思想のこと。何かをなすときに指針となるのは「功利性の指針」をおいてほかにないと説きます。分かりやすく言えば「最大多数の最大幸福」を指針として行動せよ、ということです。
この場合の「功利性」とは人がなすべきことは社会全体の幸福を増やすことであり、社会全体の幸福を減らす行為は不正な行為ということ。「共感・反感の原則」とは、正しい行為とは自分が気に入った行為のことで、不正な行為とは自分が気に入らない行為のこととする考え方。
ベンサムによれば彼以前のほとんどの哲学者の考えがそうです。彼らは自分の考えをもっともらしく見せるために「自然の法」とか「良心」とか「永遠不変の真理」とか言う言葉を持ち出したのです。でも結局多数派が少数派に、権力者が社会的弱者に自分たちの考えを無理やり押し付けることになるとベンサムは批判しました。
そして功利主義では一個人の幸福を最大化することを考えるのではなく、人々の幸福を足し算して最大になるように努める必要があります。つまり利己主義ではないし、一人を一人として数えるという公平性の配慮が働きます。
功利主義への批判として、一例ですが次のようなケースがあります。火事の建物に二人が閉じ込められている。一人は大作家で、もう一人は主婦である自分の母親というものです。この場合功利主義者は迷わず大作家を助けるべしとします。ですがこの点が批判を受けるわけです。ですが、このような原理主義の功利主義者は現代では少数派となっています。
現代の功利主義者は年がら年中功利主義を振りかざしているのではなく、「約束を守る」「家族や友人を大事にする」などの道徳的義務や規則に従って行為することを勧めます。例えば家族を大事にする人は家族以外の身近な人をより幸福にできて功利主義的にも望ましい、とするのです。常識的な規則や義務が功利主義的に見て一部の人を不公平に扱っていると思われる場合の判断基準として機能させるわけです。
ややもすれば「最大多数の最大幸福」というスローガンは「少数派の犠牲の上に多数派が幸福になるための思想」と理解されがちです。ですが、そもそもベンサムが功利主義を唱えたのは産業革命が進行中で、既得権を守ろうとする上流階級がそれ以外の階級を虐げていると考えたからです。
政策決定において無視された労働者や女性などの社会的弱者の幸福も等しく考慮に入れるべきという立場だった点を忘れてはなりません。
ということで、功利主義についての現代的知見というか現在の地図を理解したくて読んだのですが、実にわかりやすく入門書としては大変に優れた本でした。
功利主義から始まる倫理学入門
2016/02/11 11:16
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投稿者:カント - この投稿者のレビュー一覧を見る
ベンサムを軸に功利主義の考え方の概要を論じていて面白かった。
特に「幸福」について述べられているところが一番面白い。
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
幸福について、道徳などの身近な項目別に解説してあります。希望をいうならば、もう少し、深く書いて欲しい部分もありました。中途半端なところで、切れていて……
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新書ということもあって、とても平易に書かれている。人間の倫理観を疑うような事件が次々と起こっているが、倫理というものは『学ぶ』ことではなく『考える』、『考え続ける』ことが重要であることがわかる。「いつわりの世界で幸福感に浸って生きるよりも、真実の世界で不満を感じながら生きていた方がよい」(P152)。不満があるということは人間として『正常』であるということなのかな。
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「功利主義はとっつきやすく、倫理学に入門するテーマにもってこい」…しかし筆者の言う通り、それは様々な論争を経て現在より精密なかたちに更新されている。ロールズやサンデルだけ読むともう功利主義の行く先はないように思えるが、やはりそんなことはない。
とっくに乗り越えられたように思われて、実のところその根本にある歴史的経緯だったりの面白さはまだ全然解明されたとはいいがたい。これは、たとえばフロイトなんかにもいえることだと思う。
戸田山節を彷彿とさせるような軽妙さと、それでいて温度を感じられる文体が素晴らしいです。1日でがつっと読んでしまいました。おすすめ。
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「道徳」の本質を批判的に考察していく倫理学。倫理学にはスタンスの異なるいくつかの理論があるが,中でも分かりやすい「功利主義」を中心に据えて,他の理論についても触れながら解説。
功利主義は帰結主義,幸福主義,総和最大化という三つの特徴をもつ。初期の徹底した功利計算は,「偉人を救うためなら親を死なせる方が良い」など常識はずれの結論を出していたが,このあたりはいろいろ修正が施されて,そんなに突拍子もない理論ではなくなってる。にもかかわらず,しばしば功利主義に対する批判は「藁人形攻撃」になってしまっていたりして,功利主義はイメージが悪い。しかし,「津波てんでんこ」や医療現場でのトリアージに見られるように,現実に採用されている政策・ルールにも功利主義的なものは多く見られるし,結構有用な理論。
現代の功利主義は,功利計算の結果を権威主義的に押し付けるようなものではなく,自由主義を擁護する。しかしその自由はあくまでも手段であって目的ではない。道徳や法律を自然法や自然権に基礎づける自然法思想とは,この点で一線を画する。
「最大多数の最大幸福」というが,「幸福」とは何かというのも大きな問題だ。個人の選好が充足されたことをもって良しとする立場は,「高望みしない人々」を多く作って低いレベルで満足させれば目的達成ということになってしまうし,幸福とは快楽の追求ということにすると,「快楽の質」の問題が生じて,選良たる「快楽のソムリエ」による道徳の支配という危惧があるし。幸福とは利益と言ってみても,利益にも絶対的な基準がない以上,それは同語反復にすぎないことになりかねない。
なかなかもどかしい。というか,いろいろと理論が洗練されているんだろうけれど,想定する状況がいかにも人工的で(トロリー問題とか),なんだかなじめないな。いやでも事態に直面してから考えている暇はないし,事前に考察を深めておくのは良いことだとは思うけど。やっぱり理系だなぁ,自分。
何がトロリー問題で気になるって,「このままだと5人死ぬけど進路を変えれば死ぬのは1人で済む」ような状況が現前してるなんて,一瞬で判別できないよねってとこ。ましてや「巨体の男を進路に落としたらトロリーは停まって死ぬ人数が減る」なんて,ホントに停まるって確信できる状況が想像できない。
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功利主義に興味があったので。大変わかりやすく、功利主義や倫理学一般について分かりやすかった。考えさせられる一冊
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中学の時、生徒会に入り、当時の生徒会会長のK君の提案によって「語る」という企画をやった。追試制度など、生徒にとって嫌な学校のルールについて先生と討論するというものだ。私もパネリストとして参加したが、言いたい放題の参加者を眺めながら終始沈黙し、最後になって結論めいたことをぼそっとつぶやいていいところを持っていくという、おいしい役回りをやっていた。
その時にはたと気がついたのが、ルールや統治というものは、社会の原理として存在しているのではなく、それがあるとみんなが信じているから成立しているだけで、個人的なルール違反そのものは倫理上問題ないということだった。全裸で逆立ちして学校に通おうとも、それはわいせつ罪で警察に捕まるというだけで、その行為自体はなんら自分だけの倫理として問題ない。そう感じた。
その瞬間から目が開けて?、社会の前提を疑ってみるどころか、ありとあらゆるものが気のせいだという考え方で今日まで生きてきてしまったので、客観的な物事の判断というものの客観的な存在に対して、全く信じないようになってしまった。
しかし、やがて科学の道を志すようになるが、自然の摂理を自分の自然な好奇心によって学ぶとはいえ、現代社会においてそれを職業とする場合、究極のところ社会との接点の問題を避けて通れないということに再びぶち当たった(小5の時に一度ぶつかっていたが、理論物理に進めば解決可能だと信じていた)。
現在は、さらに社会と関わるところで生きてしまっている。こうなると、公共の利益とは何かとか、政治に参加するとは何かということを、改めて考えなおさざるを得なくなっている。
さて、本の内容にはいる。素晴らしくわかりやすく面白い。
まず最初の部分で、興味深いデータが紹介されていた
人間が幸福になるためには自然に従わなければならないと考えている人26%(1953年)→19%(1968年)→51%(2008年
自然を制服してゆかなければならないと考えている人23%(1953年)→34%(1968年)→5%(2008年)(統計数理研究所の国民性調査)
このデータが示すように「やっぱり自然がいちばん」というように考える人は、高度成長期を底に現在はかなり増えてきていて、逆に自然を征圧する対象と考えることから遠ざかっていることが分かる。かなり時代精神を反映しているように思われる。1968年の頃といえば、原発の建設がはじまったり万博が開催されたり、まさに科学万能主義がピークだった頃ではないだろうか。
老荘思想が言うような「無為自然」という行動規範は、小賢しい意図を排除する個人の生き方としてとても魅力を感じるが、何をもって自然とするかということは、実はかなり主観的だし、時代によっても異なる。
筆者は、我々がここで自然と呼んでいるものは実は、
(1)自分が慣れ親しんでいること
(2)自然の側面の中から自分が都合がいいこと
にすぎないのではないかと言う。もし���間の行動規範が、「自然が一番」であれば、倫理など考える必要もなくなってしまうが、「自然が一番」では基準にならないということがわかる。
本書で中心的な人物の一人であるベンタムの言うように「最大多数の最大幸福」を理屈で考えると、部分的な不幸や基本的な不正義も正当化される。これはベンタムが、当時他の思想家達が主張していた禁欲主義や共感・反感を重視する傾向に対する批判しようとしていたからだが、確かにちょっと行き過ぎな気もする。
ウィリアム・ゴドウィン(メアリ・シェリーの父):身内びいきを批判
そこから、功利主義の修正として、義務や規則はやっぱり大事だよねとか、家族も大事だよねと、様々な角度から功利主義およびそれに基づいた公共政策をより洗練させるための議論が始まるわけだが、煎じ詰めるとこれは、それぞれの人が(時空的に)どこまでの範囲共感・反感持つかという(動的な)境界の前提と、社会の構成員がどこまで合理的に現在や未来を考えることが出来るという前提に立つかで、決まってくる。
政策面の話では、公共の利益の為にどこまで政府が介入して個人の自由を縛るべきか、うまいやり方はないかという問題にも派生する。例えば、リバタリアン・パターナリズム(自由主義的な父権主義(おせっかい))の考え方によれば、喫煙や飲酒、過度な広告による誘導など、人間は必ずしも社会合理的な行動を取らないので、行動の自由は与えつつ、非合理な行動をとりにくくするためのインセンティブやディスインセンティブなどを設けて、行動を誘導するという考え方などがある。
エドウィン・チャドウィック:パターナリスティックに英国の公衆衛生を改善しようとして反感を買う
つぎに、そもそも「幸福とはなにか」という議論に入っていく。倫理学の世界は20世紀前半の言語哲学の流行を背景に、個人の幸福の問題よりも、「善い」とは何か、などを問うメタ倫理学が盛んに研究されてきた。ジョン・ロールズの登場により、倫理学と密接に関わる政治哲学側からのアプローチが出てきたが、そこでも社会のあり方を問うだけで個人の幸福までは立ち入らなかった(自由主義的な個人の幸福に対する不介入主義)。その為、幸福とは何かという重要な問いは、ラッセルが言うように古代人の議論から殆ど進んでいない。
ここから、ミルの快楽の高級・低級説や、客観的幸福感の話が出る。
大学一年の時、文系科目の単位が取れず、仕方なく心理学の講義を受けた時、レポート課題が「幸せとはなにか」だったので、とても腹がたって書き殴るようにレポートを書いた事がある。そのレポート内容は、本書のこの幸福に関する章とまったく同じ議論をたどっていて驚いた。最終的には、個人の幸福についてどれだけ追求しようと、客観的な視点が入った瞬間にご破算になってしまうという結論だったが、当時のレポートまだ残ってたらまた読み返してみたい。
色々と考えていくと、結局のところ幸福を考えるよりも不幸を考えた方がどちらかというと難しくないということがありそうだが、その考え方にも限界がある。確かに、様々な価値観で異なる幸福よ��も、病気や貧困といった不幸は分かりやすい。そこで、社会の不幸を最小化することに政治介入を集中すべきという、カール・ポパーらの積極的功利主義の考え方がある。しかし、民主主義社会においてそうした考えが受け入れられる為には、適度な格差と弱者に対する共感の両方が十分になければならない。また、一部の人に強い負担がかかることに対して、仮にその「一部」が自分が共感しない他者であって、そうした人が大多数の場合、社会的な集団いじめが正当化されてしまう危険がある。スケープゴートもその一例だろう。
また、無神論者の経済学者アマルティア・センは、例えば今米国のテロ事件でも話題のシク教の信者が、非常に厳しい戒律の中の限られた自由の中で幸福を感じている状態を「適応的選好」と呼び、果たしてそれを幸福と呼んでよいのかと問いかけた。これは、「足るを知る」にも繋がるので、必ずしも悪い(誰にとって?)わけではないが、客観的幸福感の問題でもある。ベストセラーにもなった「選択の科学」の著者、シーナ・アイエンガーも、厳格なシク教徒の両親にしつけられながらも、アメリカ人として育つなかで「制約の多い宗教は人をみじめにするのか」という疑問から調査をするが、幸福感が高いのは寧ろ厳しい教えの信仰を持つ人達だったという結果がある。幸福感にとって重要なのは、自分で決定しているという意識だという。
こうなってくると、意思決定としての民主主義のシステムの問題がまた出てきてしまう。自分たちの将来を、自分たちの意志で決めているという意識があれば、多少苦しくとも幸せ、ということもあり得るのだろうが、今の日本や先進国のようにここまで政治不信が進んでしまうと、民主的な意思決定そのものの効用はかなり低そうに思われる。さらに厄介なのは、現在日本で議論されているエネルギー政策の選択においては、安価なエネルギー供給の存在そのものが民主主義体制の根幹であるので、高価なエネルギーを選択すればするほど、民主的な意思決定は不健全な方向に向かってしまうという自己矛盾だ。
また、選択的効用の逆もあり得るだろう。つまり、よりよい選択肢があると事前に信じこまされたのちに、それが虚構であったと知らされた場合の失望という不幸である。民主党のマニフェストはまさにその典型例だったと言ってよいだろう。クリストファー・ノーラン監督の実写版バットマン三部作完結編「ダークナイトライジング」において、悪役のベインが「希望があれば、人はそれを夢見ながら朽ち果てる」と言ったが、長続きしない希望を提示して選択させて幸福感をもってもらう事が民主政治の限界なんだろうか。
様々な問題を議論している時でも、常になにか前向きなことはないのかと探してしまうが、そうした性向が議論を歪めてしまっていないかということによく遭遇する。
最後に直感と認知的判断のジレンマについて述べられている。たとえば、特定された個人の命についてはとても大切に感じるが、統計になった瞬間に感覚が麻痺してしまうという問題。マザーテレサも「群衆を目にしても、私は決して助けようとはしません」と言った。このジレンマを説明する考え方として、スロヴィックの「心理的麻痺」という考え方を紹介している。マサチューセッツ大学のエプスタイン教授の考えによれば、人間の思考には経験的システム(直感的思考)と分析的システム(合理的思考)がある。つまり、個人の命の問題の場合は直感による働きが大きいが、統計になると働きにくいということだ。また、fMRIによる脳の研究によって、直感に反する認知的判断を行う場合、時間がかかるということもわかっている。「道徳的思考における感情の役割はそう簡単には退けられない」のである。
人間の思考をこのような2つのシステムで考えると、現在の反原発デモに参加する多くの人や、そうした動きを批判する方々の思考パターンが異なっている、という説明もできそうだ。例えば、反原発を批判するブロガー藤沢数希は、「恋愛工学」という考え方も提示しているが、経験的システムによる働きが弱く、合理的に物事を考える志向(およびその能力)が強いように想像される。
だからといって、集団における意思決定において、直感的な判断と認知的判断のどちらが優れていると一般的に結論つけることは出来ない。認知的判断が、結果として多くの利益・便益をもたらすとしても、アイエンガーの言う自己決定の幸福を奪ってしまったり、パターナリズムに陥る批判からは逃れられない。
折衷案としてのリバタリアン・パターナリズムの立場をとるとすると、大きくわけて2つのアプローチがある。つまり、指導者側が大衆の直感に訴えることにより結果として道徳として合理的に正しい道に導くというアプローチと、大衆側を教育してより道徳における合理的な判断をできるようにするというアプローチである。しかし、このふたつのアプローチにも問題がある。前者は、情動に訴える手法によって人を倫理的行為へと誘導しようという発想が自体がどこまで受け入れられるかという問題がある。また、あまりに情動に訴えすぎたために「共感づかれ」を引き起こしてしまうという問題もある。後者は道徳における合理的な思考をさせる教育というものがそもそも可能なのかという問題である。これは不可能で、合理的思考は一部の人間にしか無理と考える人もいる。
確かに、自分が考えぬいた結論に社会を導くために、表面的に大衆迎合するポピュリズムも問題だと思う一方、何らかの課題い対し広く関心をもってもらって正しい情報を発信することで、多くの人に合理的判断を期待するというやり方も広くなされており、どちらも限界があるということは明白である。どちらも行き過ぎると逆効果を生み出す。しかし、逆効果が発生する境界を知ることはとても難しい。
倫理学や功利主義がここまで公共政策や政治哲学に関わっているとは知らなかった。巻末のブックガイドの所に、政治哲学は文学部なら倫理学で、政治学科なら政治思想や政治理論で、法学科なら法哲学で研究されているとある。マイケル・サンデル「白熱教室」の人気により、政治哲学にも注目が集まっているが、日本で政治哲学があまり注目されてこなかったり、どこの学部にあるのかすらわからない状態になっているのは、小林正弥千葉大学教授が著書「サンデルの政治哲学」でも触れているように、日本では究極のところ皇室・天皇陛下まで話が行き着いてしまい、正面から取り上げにくいということも影響しているように思う。
こういう理屈を学んでしまうと、物事をすぐに単純化して捉えようとしがちになるという危険性も孕んでいるが、本質的な問題を捉えようとするとどうしてもそうならざるを得ない。今回、この著作を通じてある程度自分の思考の整理が進んだような気がするが、まだわかりかけてわからないことがわかっていないという状態だ。
それでも、あと少しというところまで来ているような気もする。その時は、エネルギーとは離れてまたなにか書いてみたい。
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明快な解説、豊富な事例くわえて洗練された文体を備えたすぐれた倫理学の入門書である。
著者の前作『功利と直観』を読んだ時には功利主義の論敵であるロールズの描写があまりにもヒロイックでそちらに目を奪われてしまったが、この新書ではあくまで功利主義の魅力が十二分に描かれている。これを読むと功利主義は、功利計算によって既存の道徳規範を批判的に検討する基盤を与えてくれるし、まさしく同じ手法のゆえに著しく常識的な道徳感情から逸脱したものを安易によしとすることもない、非常にすぐれた理論に思われる。
特に印象に残ったのは第5章の公衆衛生に関する箇所である。人間はそれほど合理的ではなく、最善の行動をとれるとは限らない、という理解のもとで公的な介入がどこまで許されるかというリバタリアン・パターナリズムの現実的な観点が魅力的だった。いってみれば「自己責任」と「パターナリズム」のバランスをとろうという発想かもしれない。確かにわれわれは行動を強制されることに抵抗をしめすが、同時に何かしらの指針も欲するものである。
社会における具体的な問題でもよいし、個人の人生についてでもよいが、倫理的判断について考えたいとき、本書はすぐれた導入になってくれるだろう。
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功利主義を学ぶことを通して倫理を考えさせてくれる内容。
自分にとっては、ちょくちょくむずかしい内容で読みづらい部分もあり。
自分がよく考える「公平性」についてはゴドウィンという哲学者が考えていたようです。哲学は歴史を通していろんなことを考えてきたんやなあと思わされた。
「幸福について」の章がおもしろかったかなあと思う。
著者が優しい物言いで書いてくれていて、すごく良心的なものを感じた。一度だけでは覚えられないのでまた読みたい。
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タイトルの通り、功利主義について様々な事例を用いわかりやすく解説するとともに、倫理学を学ぶ手引きとなるような一冊。
本書をきっかけに批判的思考を身につけ、実践して欲しいとの思いが込められている。
また巻末のブックリストが充実している。
功利主義については、古典的功利主義から現代の発展した(対応した)功利主義まで具体例を用いて説明されているので非常にわかりやすい。功利主義をはじめとした倫理学が「理屈なかりで人情が足りない」と言われるのは、誤解であることもわかる。
また6章「幸福とは何か」が最も印象に残った。
最大多数の最大幸福を唱える功利主義において、では何が幸福なのかということは最も大切なことであるからだ。
「太く短い人生がいい」と言い暴飲暴食をする人に対し、健康を気遣い食事制限を提言することは果たして当人にとっては幸福なのだろうか。個人の幸福の定義については人それぞれとしかある種言えない。個人主義の話である。ただ、ミルの他者危害原則でもいうように、「他者に迷惑がかからない範疇で」自分の幸福を追求するという考えは大切である。
またミルの「満足したブタよりも不満足な人間の方がよい。満足した愚か者よりも不満足なソクラテスの方がよい」という発言は納得半分と反対半分である。
確かに食欲や性欲など低次欲求を得ることよりも、知的欲求など高次の欲求を得る方が幸福度も違うかもしれない。が、だからといって知的欲求が最上と考えるのはいささか疑問を感じる。
まだ私の考えが足りていない段階の疑問なので、これから勉強のしていきたい。
総じて、読みやすく良本であると思う。
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基本的なお勉強をおろそかにしているのがベースの人生なので、ありがたいです。なんというか、無い頭で自分勝手に考えてきたことが、素晴らしい叡智によって巧緻に体系化されているのをいただいては「あーそれそれ!そうそう!」ってキャッキャはしゃぐっていうそういうゲームになってやしないかと小一時間(
功利主義の概念はいろいろな思考のベースになるものではないか、中高生にだってこういう思考の授業はしていいんじゃないかと強く思いました。
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ゴドウィンの人生についての話は個人的におもしろかった。
功利主義と公衆衛生、脳科学の関連についてなど、功利主義の理論の入門書としてだけでなく、現代のホットな話題と功利主義がいかに関係するのかについても概観することができた。
何より入門書として嬉しいのが、ブックガイド。これをもとに読み進めたい。
物足りなかった点としては、古典的功利主義から現代ではどのような修正功利主義があるのかについて、もっと突っ込んで欲しかった。まぁそれは同じ著者の『功利と直観』を読んでということか…
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面白かった。功利主義を通して倫理学全体を考えると言うことで、判りやすかった、ともう。
分析的システムと経験的システムは、人間と動物の相克ですかね。
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入門書ではあるけれど、あくまでイメージを掴めるという程度で本格的に学べる本ではなかった。この本だけで功利主義と言うものを判断するのはよくないと思う。議論は緻密でなく、例えも的を射ているとは思えなかった。マイケル・サンデルの「これからの「正義」…」や永井均の「倫理とは何か」の該当章の方が、議論も確かで内容も深い。