歴史が人を伝説にし、捨てる
2016/12/25 12:59
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投稿者:燕石 - この投稿者のレビュー一覧を見る
60年安保ブント系全学連で委員長を務め、華々しい「伝説」となった唐牛(かろうじ)健太郎の評伝。とかく、60年安保の対立構図を、当時の首相岸信介=右翼 対 全学連=左翼と単純化し勝ちだが、著者は、根本を米国駐留軍の力を借りない自国軍による防備を目指したナショナリスト岸信介と、当時のソ連に追随する日本共産党に反旗を翻したナショナリスト全学連の、「ナショナリスト同士の対立」と捉える。それゆえ、田中清玄等の右翼勢力が全学連に資金援助を行ったことも、ある意味必然だった。更には、経済界でも、レッドパージされた戦前のエスタブリッシュメント勢力が岸信介との結び付きて復活の兆しを見せ始めたことを背景に、これら旧勢力と、戦後の復興を目指して自信をつけつつあった新興勢力との対立が、あった。そして、彼らが、米国の軍事力の傘に入ることと引き換えに経済成長重視路線を志向し、岸内閣に替えて池田勇人内閣を誕生させ、高度経済成長を実現させるのだが、60年安保にも「すべての政治変動の背景には、必ず経済的な原理が働いている」と言える。こういった文脈の中で辿られる唐牛健太郎の人生の軌跡は、時代に押し上げられ、文字通り捨て去られ、忘れられた。そして、私生児という出自ゆえに、常に孤独であり、それゆえに人懐こく、男性・女性双方を魅了する好漢だった。橋本徹に対するヒステリックな誹謗中傷記事を書き、私を含め多くの佐野ファンを失望させ、ジャ-ナリストとしては葬り去られるはだった佐野眞一が、なぜ唐牛の評伝を書いたのか?その答えは、正に時代と真正面から向き合うことにより、もう一度歴史に誠実に立ち会うことを、佐野自身が宣言するために他ならないと、私には思える。
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唐牛健太郎。60年安保闘争時の全学連委員長。機動隊車両上に飛び乗り国会突入をアジり、その後に大勢の学生が続いた。交友関係も広く、一水会最高顧問鈴木邦男は唐牛を「僕の中の理想であり、ロマンであり、指標である」と書いた。
全学連と右翼はなかなか近しいものがある。両者共ナショナリストなのである。今のネトウヨ共には理解出来ないだろうが…。
現に転向右翼の親玉田中清玄から全学連は資金提供を受け、左翼運動から抜けた後も、田中の庇護にあった。更には山口組の田岡組長からも寵愛を受ける。
友人達も色々出てくる。全学連副委員長だった西部邁。今でこそ保守派の中ではまともな部類の論客であるが、唐牛とは同志の関係だ。
学生運動のドキュメンタリー映画を作った惣川は青山高校。ここの教師は100人の生徒を連れて、血のメーデーに参加し、当時の3年生が大量に指名手配され、学校の屋上に住み、下級生が飯を持っていくことになっていて、民青に入るのが当たり前の雰囲気だったそうだ。うーんすごい時代である。惣川の父親は三井化学の監査役で、デモを指揮する惣川に、公安は拡声器で「惣川君、お父さんが嘆いてますよ」と説得した。
機動隊の弾圧も凄まじく、当時の読売記事で”あとは警棒の雨。「殺せ、殺してしまえ!」とキチガイじみた怒号を飛ばし警棒の雨は瞬く間に血の雨となった”と表現された(この姿勢は現在も沖縄方面で生かされているようだ)が、政府が正力らマスコミの大物を集め、報道姿勢の変更を要請し、この記事は遅版では表現を差し替えられた。
しかしこの本の主題は、唐牛のその後である。ヨットレジャー会社、小料理屋、漁師、オフコンのトップセールスマン、徳洲会の徳田の選挙参謀…きっと魅力的な人物だったのだろう。女にもモテ、子供にも人気があった。入院中は加藤紘一、西岡武夫、菅直人が揃って見舞いに来るほど。
1984年にガンで亡くなった。享年47歳。
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六十年安保を指揮した全学連委員長の唐牛健太郎に関するノンフィクション。全く馴染みのない題材だが、なかなか強烈な生涯で興味深かった。佐野眞一の左翼臭は多少鼻につくけど。
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北大自治会委員長から全学連主流派委員長に就任、4・26国会デモでアジ演説ののち、警察の装甲車に飛び込んで逮捕。
47歳でガンに倒れるまでを周辺の人々の証言から追ったルポ。
60年安保の指導者が、その後の高度経済成長の波に乗って成功したものが多い中、ヨットクラブ、居酒屋経営、トド撃ちの漁師、オフコンのセールスマン、選挙参謀など職業を転々とした生涯は、敢えて「何物にもならない」「大衆であること」を選んだ人生のようだ。
希代の「人たらし」の生涯。
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本書の結語ともいうべき一節、<唐牛は、安保闘争が終わったとき、常民として生き、常民として死のうと覚悟した。それは彼の47年の軌跡にくっきりと刻まれている>には、後追いながらも同時代の空気を吸い続けた佐野氏の、そしてあの時代を熱く生きた男たちの唐牛健太郎に寄せた夢を解き明かしてくれたように思う。
本書には60年安保という時代とその後の日本を、佐野氏が宮本常一の『忘れられた日本人』のスピリットをもって伝えようとするかのような気魄がみなぎっている。
それにしても全学連の側には田中清玄と山口組三代目田岡一雄が、岸政権の側には児玉誉士夫と右翼が、そしてその間を陸軍中野学校出身者が蠢くという構図は、佐野氏をも含めた70年安保の時代を担った団塊の世代の人間にカルチャー・ショックを痛感させたに違いない。
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60年安保の全学連委員長としてヒーローになった唐牛健太郎のその後の人生。堀江ヨットスクールを立ち上げたり、与論島、紋別での漁師生活、そして喜界島での徳田虎雄派の選挙運動。西部邁、青木昌彦のように学者として名を挙げた人に比べて決して幸せとは言えない、日本の繁栄に背を向けた生活。しかし筆者の視線は優しい。唐牛の清々しさ、潔さをそこに見出す。転向右翼の田中清玄、山口組の田岡一雄らからの支援と交流もはショッキングな事実であるが、「東条内閣閣僚が首相になって戦争への道を再び歩もうとしていることは許せないとの気持ちが一致した。」との著者の説明は分りやすい。唐牛自身の言葉「田中清玄はカネは出すけど、口は出さなかった。口は出すが、カネは出さない進歩派より有難かった」、そしてそれを支持する吉本隆明の言葉が明快なのである。
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唐牛健太郎は、1937年2月に生まれ1984年3月に癌のために亡くなっている。1960年安保闘争を前に学生運動が盛んだった1958年に北大全学中央委員会委員長に就任すると、5月には全学連中央執行委員に就任している。さらに翌年の1959年6月には全学連委員長に就任しているが、当時の全学連委員長というのは、運動にかかわっている学生ばかりではなく、全国的に一般の人からも注目される、ある種の「スター」でもあったようだ。1960年4月26日の、国会突入を謀ったデモを指揮して逮捕されるが、この事件は、唐牛の名前を更に有名にする。その後、学生運動内部の分裂等により、1961年7月に全学連委員長を辞任、更に1962年5月には学生運動の団体から脱退し、運動から身をひく。1958年に北大委員長に就任してから、唐牛が運動に関わったのは、わずか4年のことである。
本書は、唐牛健太郎についての評伝である。筆者の佐野眞一は、唐牛の生い立ちから、学生運動から身をひいた後の活動、そして、癌を患い亡くなるまでの、すなわち唐牛健太郎の誕生から死までを、関係者へのインタビューや資料の読み込み等を通じて、丁寧に再現している。
唐牛健太郎は学生運動から身を引いた後、右翼大物と交わったり、ヨットスクール経営、居酒屋店主、漁師などと職を変え、日本中を漂流している。60年安保闘争の学生運動組織の幹部たちの多くは、その後、社会に戻り高度成長期を享受し、世に出て活躍した人たちも多い。一方で唐牛健太郎は、何者でもなく死んでいく。それが何故だったのかを探るのが本書を書いた佐野眞一の意図であった。
本書の最後の部分に佐野真一は記している。
【引用】
唐牛健太郎は、全学連仲間の島成郎や青木昌彦らがそれぞれの分野で目覚ましい業績をあげたのとは対照的に、「長」と名の付く職に就くことを拒み、無名の市井人として一生を終えた。
だが、それこそが唐牛が生涯をかけて貫いた無言の矜持ではなかったか。庶子として生まれた唐牛は、安保闘争が終わったとき、常民として生き、常民として死のうと覚悟した。それは彼の47年の軌跡にくっきりと刻まれている。
【引用終わり】
すなわち、全学連の「トップ/長」として、多くの学生を率いて戦った、すなわち、多くの学生の人生に影響を与えた彼は、「トップ/長」を退いた後、二度とそのような立場に就かないことを決意し、それを生涯守った、と佐野眞一は言っているのだと理解した。私は1960年安保闘争を知らない世代であり実感はわかないが、佐野眞一の世代の人たちにとっては、それだけのものだと考えることが不自然ではないほどの大きな出来事だったのであろう。
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安保闘争の真っ只中
この世に生を受けた者はかろうじて年金受給にありつけており、 それなりに暮らし 政治の腐敗に憤っても真剣さはない。
度胸も知恵も 同輩も持たず 不毛地帯にどっプリ浸かっている。
野次馬根性とでばがめ意識は持ち合わせ 私達が真実 形はどうであれ、米傘下に胡座を掻いている。
ひとつにならずセクト争いに明け暮れ(内ゲハ)悲劇を生んでも未来は生まないのは確かだ。
日がな一日 読書し
拙い字面で他人の目を汚しているのも真実
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著者、佐野眞一さん、ウィキペディアによると、
---引用開始
佐野 眞一(さの しんいち、1947年(昭和22年)1月29日 - 2022年(令和4年)9月26日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。東京都葛飾区出身。
---引用終了
で、本作の内容は、次のとおり。
---引用開始
革命なんて、しゃらくせえ!
「昭和の妖怪」岸信介と対峙し、
「聖女」樺美智子の十字架を背負い、
「三代目山口組組長」田岡一雄と
「最後の黒幕」田中清玄の寵愛を受け、
「思想界の巨人」吉本隆明と共闘し、
「不随の病院王」徳田虎雄の参謀になった
全学連元委員長、47年の軌跡。
ノンフィクション作家・佐野眞一が北は紋別、南は沖縄まで足を運び、1984年に物故した60年安保のカリスマの心奥を描く。
「唐牛健太郎を書くことは私自身の過去を見つめ直す骨がらみの仕事だった」――著者3年ぶりの本格評伝
---引用終了
唐牛健太郎さんのことは、最近知りました。
年齢的には、1937年生まれとのことで、私の母と同年生まれになります。
日本の学生運動家で、1960年安保闘争時の全学連委員長になります。
47歳という若さで病死されています。
それから、安保闘争ですが、安保闘争というのは2度あったようです。
まあ、何となくは分かっていたのですが、ちょっとまとめておきましょう。
第1回 1959~1960年
第2回 1970年
私は1961年生まれなので、第2回の安保闘争をテレビで見た記憶はあります。
が、当時は小学生でしたので、背景はほとんど分かっていませんでした。
最後に、第1回の安保闘争関連人物の生年没年を見ておきます。
岸信介(1896~1987)
唐牛健太郎(1937~1984)
樺美智子(1937~1960)