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  3. 燕石さんのレビュー一覧

燕石さんのレビュー一覧

投稿者:燕石

31 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

谷崎潤一郎全集 第20巻 細雪 下巻

大谷崎は、やはり大変態だ!!

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

森欧外の短篇小説「追儺」の冒頭に、作者自身の独白として「小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだ」と書かれている。この「細雪」は、大谷崎が、自らの文学生活の集大成として、それを具体化した作品に思える。 
                        
ただし、「細雪」には劇的なエピソードはほとんどどなくー阪神大水害で、四女妙子が命を危険にさらす、妙子の恋人の板倉が中耳炎の手術の失敗で急逝する、妙子の妊娠と死産、といった程度-、物語の中心は、三女雪子のなかなか成立しない複数の見合い話の経過と、その成り行きや様々な世間体、本家との関係に盛んに気を働かせる次女幸子の内面独白であり、それに、(かつての)関西上流階級の生活ぶり―毎年一家総出が恒例の京都の花見旅行、五代目菊五郎をひいきにする歌舞伎見物、阪神間の和食・中華・洋食の会食風景等々―が華麗に描かれる。それら、どちらかと言うと平凡な日常の瑣事の長大な連なりを、なぜ読者に飽きもさせずに読み通させるのかと言うと、それこそは、大谷崎の名文ゆえとしか言いようがない。句点に辿りつくまで異様に長いセンテンス、にも関わらず、極めて明晰な文章。これこそが、大谷崎が若い時から原文で親しんだ英文の明晰性と、源氏物語の現代語訳で自家薬籠中のものとした伝統的な和文脈とを融合させた文体の特長だ。読者は、この大谷崎の芸-というと誤解を与えかねないので、芸術と言うべきか?―の心地良さに身を委ねるだけで、いつの間にやら物語の結末に至るのだ。

構成にも仕掛けがある。人見知りが強く・自分の意志を明確に言わない・典型的な「娘さん」タイプの三女雪子と旺盛な生活力を持ち・奔放に恋愛経験を重ね・時には自分を恋する男に金品を貢がせる・現代的な「こいさん」の四女妙子の対比。尚且つ、雪子は皆から祝福される華族の庶子との結婚が決まり、妙子はバーテンダとの間に出来た子供も死産し、密かに身の回りの品のみを纏めて芦屋の姉夫婦の家を出る。「しっかり」タイプの次女雪子と「おっとり」タイプの長女鶴子の対比―芦屋で優雅に暮らす雪子一家と、子沢山で(当時は場末の)渋谷でつつましい借家暮らしの鶴子一家-を鮮やかに書き分けることにより、物語に膨らみを持たせている。

そして、大谷崎らしいエピソードを、そっと忍び込ませている。 
一つは、幸子の夫の貞之助が、妙子が雪子の足の爪を切る光景を襖の陰から盗み見るシーン。一つは、大腸カタルに罹った妙子の執拗な排泄描写。そして、もう一つは、結婚を決意した雪子が挙式のために東京に向う際の描写。「下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた」。しかも、これが、400字詰め原稿用紙約1600枚に及ぶ大長篇小説の最後の一文なのだ!              

大谷崎は、やはり大変態だ!!

最後に、苦言を一つ。やはり、旧版全集のように「細雪」は一巻に収めてもらいたかった。

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紙の本

18歳からの格差論 日本に本当に必要なもの

「経済」とは「経世済民」であることを改めて思い出させる「熱い」本

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今「最も熱い経済学者」井手英策 慶応大教授による、提言の書。一言で言えば、「この生きづらい分断社会を終わらせるためにどうするか?」を述べている。
この本では、まず、現在の日本で、なぜ「格差社会」が作られたのかを分析している。理由は、財政悪化の名のもとにサービスの削減ばかりが議論され、ムダ使いの犯人捜し、弱者の袋叩きを行う社会の風潮になっているから。余裕を失った社会では、格差是正への反発が大きくなる。「誰かが得をすれば、誰かが損をする」からだ。
一方、日本では、「税への抵抗」が他の先進国と比べても群を抜いて強いが、それは、殆どの人に「受益感」がないから。日本の政府は、世界でも最も「小さい政府」になっているため、生活に欠くべからざる必要なサービスについても、すべて自己負担で確保することが求められている。例えば、医療も介護も教育も、すべて「自己責任原則」。
では、どうすれば良いか?ここからが、井手さんのスゴいところ。「貧困層に限った救済ではなく、子育てや教育、医療など全ての人に共通して必要なサービスを、全ての人々に対して無償で保障する社会をつくるべき」と提言する。そして、その費用は、全員が所得に比例して負担するべきだ、と。
高所得者でも、医療費、介護費、子育ての費用が無料になるなら、公的サービスに対する「受益感」があるので、税金を払うことに抵抗がなくなる。そのかわり、低所得者にも、所得税を負担してもらい、また消費税の税率を欧州並みにアップして税収を大きく増やす。こうすれば、税は、政府から一方的に取られる負担から、暮らしのための分かち合いへと転換され、格差も縮小して、すべての人々が受益者となり、お互いが、いがみ合う必要はなくなる。
医療も介護も住宅も、公的サービスで殆どがまかなわれるならば、中間層も含めて、老後生活の将来不安がなくなる、と本書では主張している。
「経済」とは「経世済民」の略であり、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」の意味である。この100ページ足らず(イラストが多いので、それを除くとせいぜい数十ページか?)の本には、その熱い思いが漲っている。
若者のみならず、将来の日本の社会の行く末に責任のある社会人こそが読むべき本だ。

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紙の本

唐牛伝 敗者の戦後漂流

紙の本唐牛伝 敗者の戦後漂流

2016/12/25 12:59

歴史が人を伝説にし、捨てる

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60年安保ブント系全学連で委員長を務め、華々しい「伝説」となった唐牛(かろうじ)健太郎の評伝。とかく、60年安保の対立構図を、当時の首相岸信介=右翼 対 全学連=左翼と単純化し勝ちだが、著者は、根本を米国駐留軍の力を借りない自国軍による防備を目指したナショナリスト岸信介と、当時のソ連に追随する日本共産党に反旗を翻したナショナリスト全学連の、「ナショナリスト同士の対立」と捉える。それゆえ、田中清玄等の右翼勢力が全学連に資金援助を行ったことも、ある意味必然だった。更には、経済界でも、レッドパージされた戦前のエスタブリッシュメント勢力が岸信介との結び付きて復活の兆しを見せ始めたことを背景に、これら旧勢力と、戦後の復興を目指して自信をつけつつあった新興勢力との対立が、あった。そして、彼らが、米国の軍事力の傘に入ることと引き換えに経済成長重視路線を志向し、岸内閣に替えて池田勇人内閣を誕生させ、高度経済成長を実現させるのだが、60年安保にも「すべての政治変動の背景には、必ず経済的な原理が働いている」と言える。こういった文脈の中で辿られる唐牛健太郎の人生の軌跡は、時代に押し上げられ、文字通り捨て去られ、忘れられた。そして、私生児という出自ゆえに、常に孤独であり、それゆえに人懐こく、男性・女性双方を魅了する好漢だった。橋本徹に対するヒステリックな誹謗中傷記事を書き、私を含め多くの佐野ファンを失望させ、ジャ-ナリストとしては葬り去られるはだった佐野眞一が、なぜ唐牛の評伝を書いたのか?その答えは、正に時代と真正面から向き合うことにより、もう一度歴史に誠実に立ち会うことを、佐野自身が宣言するために他ならないと、私には思える。

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紙の本

おどろきの中国

紙の本おどろきの中国

2019/09/11 17:00

3人の洞察力に、おどろき

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本書は、橋爪大三郎と大澤真幸、さらに宮台真司を加えた三人の社会学者が中国について語った鼎談。テーマは、帯にあるように「そもそも『国家』なのか? あの国を動かす原理は何か?」である。

まず、中国というのは近代的な意味での国家ではなく、2000年以上前にできたEUのようなもの、中華連合と考えるべきだという。EUの背後にはキリスト教というバックボーンがあるが、中国では王朝によって儒教だったり法家だったり、あるいは仏教や道教だったり、統治イデオロギーをさまざまに取捨選択してきた。「儒教を捨てて三民主義を採用したり、三民主義を捨ててマルクス主義を採用したり、マルクス主義を捨てて改革開放路線を採ったりできる。政治的統一が根本で、政策オプションは選択の対象、という順番は変わっていない…ここに中国の本質がある」(橋爪)。

中国ではどの王朝でも、安全保障の優先順位がきわめて高い。王朝(政府)が存在するのは安全保障のためと言ってもいいくらいだ。儒教にしろ法家にしろ、その選択は安全保障をどうするかという問いにどう答えるかに他ならなかった。

近代になってからも、国民党も中国共産党も伝統中国の支配のあり方を忠実になぞっている、と橋爪は言う。ならば毛沢東は皇帝なのか、という大澤の問いに、橋爪はイエスでもありノーでもあると答えている。毛沢東は歴世の皇帝イメージを最大限に利用したという点ではイエスだが、歴世の皇帝が及ばない力を持つに至った。「(皇帝と決定的に違うのは)毛沢東の中国共産党は、伝統中国の官僚制に比べ、はるかに社会の末端にまで支配の根を下ろしているという点。………農民も、都市生活者も、生活手段を握る共産党に首根っこを押さえられている。この共産党の頂点に立つ毛沢東の権力は、伝統中国の皇帝が及びもつかない、絶大なものである」(橋爪)。

橋爪は中国の社会組織の原則を、「自分は正しくて立派である」「しかし他人も自己主張している」「従って自己と他者が共存する枠組みが必要」とした上で「この枠組みは、しばしば順番です。誰がえらいか、一番から順番をふる。中国ではどんな組織でも、‥…必ず(非公式に)順番がついている。これは争いを避けるためです」。しかし、中国は年功序列を重んずる日本と違って能力社会だから、誰を上位のポストに抜擢するか(言い換えれば誰を排除するか)を正当化する根拠が必要になる。

その排除の根拠となるのが、清朝の制度を踏襲した「個人档案(とうあん)」といわれる個人の人事記録だ。档案は本人ではなく上司が書くもので、本人は見ることすらできない。すべての档案を見ることができるのは中国共産党のNo.1ただひとりである。「ソ連や東欧の社会主義政権は総崩れになったけれど、中国はビクともしなかった。それは、‥…党組織と人事システムがしっかり確立しているから」(橋爪)。

また、伝統的な「易姓革命」の思想について、橋本はこう述べている。「天が、政治の正しさの根源。でも天は、見えないし、観察もできない…。現実問題として天は何かというと、人民の評判なんです。人民の評判を失うと政権は崩壊する、というふうに実際は機能してきた」。
だから、中国共産党がマスコミの統制に必死になり、ツイッターの反応に必要以上に神経質になっているのは、強面の顔の裏側で、実は自らの合法性の乏しさと、その人民の支持の脆弱さを自覚しているために過ぎない。

三人はこんな議論を重ねながら、さらに日中の歴史問題をどう考えたらいいか、中国はこれからどうなるのか、日本は中国とどうつきあったらいいのか、といったテーマに進んでゆく。

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夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語

「もののあはれ」を覚える短篇集

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本書におさめられた「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」は、それぞれ独立した短編でありながらも、全て音楽家を語り手として音楽にゆかりのあること、そして、哀愁と抒情を基調としたものであること、この2点で調和と統一を持った短篇集となっている。
いずれも、若き日の野心や叶えられなかった夢という人生の哀しみを感じさせるとともに、その後の時間を想像させる膨らみをもった好短篇である。

 『老歌手』は、観光客相手にヴェニスの複数のバンドを助っ人として渡り歩くギタリストが語り手。ある日、往年のアメリカ人老歌手と偶然知り合い、彼が妻に向けて行うサプライズ演出に協力することになる。そのサプライズとは、老歌手が夜、彼らの宿泊するホテルの部屋に一人居る妻の窓の下にゴンドラで漕ぎ寄せ数曲を歌うので、その伴奏をしてくれというもの。六十男は五十女と離婚する予定でいる。彼らの旅行は、二十七年の結婚生活の果ての離婚旅行だったのだ。

『夜想曲』は、才能はあるものの、見た目が悪く、うだつの上がらないテナー・サックス奏者が、マネージャーと妻から顔の整形をすれば花形になれる、しかも、離婚した妻の再婚相手が費用を出すと言われ、手術を受けてビバリーヒルズの超一流ホテルに長期滞在する。隣室にいるのが同じ医師からやはり美容整形を受けている、同じように顔を包帯でぐるぐる巻きにしている一流の映画女優-『老歌手』でアメリカ人老歌手と離婚した五十女-で、暇つぶしの相手をするうちに、彼女の深夜のホテルの中での散歩の道連れとなって、奇妙な冒険に巻き込まれる。

 5作目の『チェリスト』の語り手は観光客相手のバンドのサキソフォン吹き。ある日、客のなかにかつての同僚、チェロ奏きのティボールを見かける。七年前、ハンガリー出身の彼は、「入り」は悪いものの、ヨーロッパ各地でリサイタルを開くほど有望で、バンド仲間皆が引立てようとした。ところが、ある日、彼の演奏を聞いたアメリカ人女性が、「あなたには可能性がある。しかし、私レベルの『大家』の指導者がいなければ駄目だ」と言われる。それ以降、ティボールは、その女性に師事を仰ぎ、確かに、その指導により、これまでにない音を出せるほど才能を開花させる。しかし、彼女は一向にチェロの手本を見せず、部屋にチェロのケースすら見掛けない。不信感を持ちつつも、レッスンに通い続けるが、ついに、彼女は真実を語る。「自分はチェロを弾くことはできないが、天才である。天才であるがゆえ、並みの指導を受けて才能を壊す訳にはいかず、11歳から今日までチェロを弾くことができずにいる。ティボールも同じレベルの才能があるので、自分が才能を壊さないように指導をしたのだ」と。アメリカの地方から、前々から彼女に求婚している実業家の男性が、彼女の居場所を突き止め、連れて帰ることにより、ティボールへの指導が終わりを告げる。ティボールは、一度は断ったバンド仲間の紹介で、アムステルダムのホテルの演奏チームの一員として流れて行った………。
ティボールらしい男が手を振ったので、サキソフォン吹きは自分への挨拶だと思ったが、ウェイターを呼んだに過ぎなかった。その呼び方には、以前のような遠慮深さも見えなかった。何よりも、可もなく不可もないスーツ姿が音楽家というよりは普通の勤め人を連想させ、何かの仕事の関係で出張に出た次いでに、かつて居たこの街に立ち寄ったとも思える。しばらくすると、その男はもういなくなっていた。(恐らくは)夢敗れたかつての若者と老楽士との、言葉を交わすこともない、苦い再会を描いて、そぞろ「もののあはれ」を覚える。

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紙の本

リンカーンとさまよえる霊魂たち

スラップスティックのようで、実は感動的な必読小説

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何とも奇妙な小説。
出だしはスラップスティックのようなノリで始まるが、ギリシャ悲劇のコロスのように、死者たちのポリフォニックな声が響き渡り、途中エイブラハム・リンカーンに関する虚実とりまぜた「文献」からの様々な引用が挿入される。しかし、実は、生と死、善と悪、戦争や人種、そして何より人間の本質に鋭く迫る感動的な小説だ。

舞台は南北戦争の激戦の最中、大統領として北軍を指揮していたリンカーンの最愛の息子、ウィリーが病死する。悲嘆に暮れ、遺体のかたわらで長い時を過ごすリンカーンだが、同時に彼は3千人を超える若者たちの戦死にも直面している。ウィリーを操り、リンカーンの体内へ入って、様々に影響を及ぼそうと奮い立ち、団結してゆく霊魂たち……。

その霊魂たちの「個性」が半端ではない。
四十六歳で十八歳の妻をめとるも、無理矢理夜の営みを求めたりせず、心の底からの愛情と信頼を勝ち得た末、やっと初夜を迎えられることになったのに、その日に急死。全裸で常に勃起しっぱなしの状態にあるハンス・ヴォルマン。ゲイの恋人にふられたショックから手首を切って自殺。早まった行為のせいで失った、世界の美を味わい足りない遺恨を残して死んだせいで全身に無数の目や鼻を生やしたロジャー・ベヴィンズ三世。
そして、ある恐ろしい記憶のために永遠に恐怖の表情が張りついてしまった牧師であるエヴァリー・トーマス師は、眉が吊り上がり、目を大きく見開き、口がOの字型の顔立ちをしている。
主人公とも言うべき3人(霊?)でも、こんな感じだ。
これ以外にも、時代も階層も人種もまちまちの百に余る霊たちの無数の声が、本書内を跋扈する。

主人公の3「人」がいるのは、この世に執着を抱く死者たちがとどまっている、あの世との中間地帯で、自らの死を認めない彼らは、遺体を〈病体〉、棺桶を〈病箱〉、納骨所を〈病院地〉、墓地を〈病庭〉と呼んでいる。つまり、現世に未練があって自分の死を受け入れられない霊魂たちが〈物質が光となって花開く現象〉=成仏、を逃れるために右往左往しているのだ。

そこに、リンカーン大統領の幼い息子ウィリーの遺体が運ばれてくる。ところが、ウィリーは一向に「成仏」しようとしない。大人の死者は此岸と彼岸の間に居られても、子供がこの場所に長くとどまれば、苛酷な末路が待っている。物語は、何とかそれを阻止して彼を“成仏”させようとする三人の死者たちの一夜の奔走を描くが、ウィリーという無垢な魂の到来は死者たちにも変化をもたらし、ひいては父リンカーンや南北戦争、奴隷解放の行方さえも変えていく。
 
本来の主人公とも言うべきリンカーンの、(思わず眼頭が熱くなる)愛息を失った悲しみも、南北戦争の最高司令官としての悩みも、三人の霊たちの、生者に入りこみ、その心を読むという特殊能力を通じて語られる。
それゆえにだろうか、「すべての人の中心部分には苦しみがある。必ず終わりが来ること、その終わりに至るまでに数多くの喪失を経験しなければならないこと」という霊魂ヴォルマンのモノローグがじわじわと胸に迫って来る。

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電子書籍

フランス小説の扉

電子書籍フランス小説の扉

2019/09/04 12:19

読み巧者によるフランス小説名作案内

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フランス文学の古典を縦横に語って楽しい一冊。
スタンダール、バルザック、ネルヴァル、モーパッサン等の名作を、「恋」をキーワードにつなぎ、ネルヴァルを介してプルースト、ブルトンを論じ、そこからソレルス、ヴィアン、ウェルベックの現代小説へと読者を導いていく。
各作品の魅力をしっかりと把握しており、「目から鱗」とも言える指摘は、未読者に作品を読んでみようとの気にさせることはもちろん、既読者にも「そういった読み方があったのか」と思わせる。
たとえば、冒頭の『パルムの僧院』で、主人公ファブリスは「いわば考えることを免除された存在」であり、独房にいる彼のもとへ飛び込むクレリアの台詞は「可憐な恫喝」であり、スタンダールの主要人物はみな「『聞き役』となる相手を必要としない強い孤独者」である、といった指摘。あるいは、『谷間の百合』の秘められたエロティシズムに関しての指摘。
そして、「今なお興奮を味わわせてくれる傑作の数々が、断固『反フランス的』なものとして書かれている」との指摘も興味深い。
これほどの「読み巧者」である著者の翻訳した『赤と黒』に多くの誤訳と日本語表現の誤りを指摘されたことは、何とも遣る瀬ない。

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紙の本

怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史

マルクスの評価を覆す、渾身の歴史書

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カール・マルクスの代表作である『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』は、
「ヘーゲルはどこかで言っている。世界史的な大人物や大事件は二度あらわれる、と。しかし、こう付け加えるのを忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と。」
の名言から始まる。
 一度目の「悲劇」はフランス大革命を終結させたナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン1世)の“ブリュメール18日のクーデタ、「茶番」はフランス第2共和国大統領ルイ・ボナパルト(後のナポレオン3世)の帝政を準備するクーデタを指す。
 マルクスは、ボナパルトという取るに足らない小人物の政権奪取は、ブルジョワが政権を単独で担う力を失い、かつ労働者が政権を担うだけの力をつけていないという勢力均衡の間隙を縫って成功した、階級闘争の幕間劇だったとしている。
 本書は、このマルクス史観に真っ向から異を唱えた渾身の歴史書である。

 主人公のナポレオン3世はナポレオンの甥に当たる。ナポレオン没落後、共和制に戻ったフランスで稚拙な一揆を起こして鎮圧されるだけの、野心に燃えた若者は、監獄から脱出、やがて大統領の地位を得るに至る。立法府との対立からクーデターで実権を握ると、伯父の跡を襲うかのように、帝位に上った。1852年のことである。
 もっとも、彼の帝政のイメージは早くから独特のものだった。フランス革命のめざした民衆主権と自由の理念を守り、それを秩序のうちに実現するための権威が、彼の夢見る皇帝であった。皇帝と民衆が直接に手を結び、中間にある旧貴族やブルジョワの反動を排除する-これは典型的なポピュリズムの思想だといえる。
 「ナポレオン3世は、イデオロギーを持った唯一の君主だった」と、著者は言う。その思想基盤はサン・シモン主義である。ルイ・ナポレオン時代に『貧困の根絶』という著書をものした。彼の内政方針は,産業育成と社会福祉拡充であった。政府主導で、産業を興して富のパイを大きくし、そのうえで正しい徴税を徹底して、再配分を行う。これは、正に戦後日本の復興政策ではないか?
 第二帝政下においてフランスは鉄道大国となり,イギリスに次ぐ工業国・資本主義国となっていく。金融改革も進み,信用銀行が設立され、労働者住宅や共同浴場を整備して福祉政策を充実させた。そして、「パリの大改造」。現代のパリはこの時に創造され、世界有数の都市に変貌した。都市の近代化は産業育成の上でも社会福祉拡充の上でも至上命題であった。

 これほどの業績を上げた君主であれば、ナポレオン1世以上に、その功績を讃えられて然るべきだと思うが、然にあらず。この皇帝には二つの大きな「欠陥」があった。
 一つは経済重視を裏返した平和主義で、軍備の充実は二の次であり、伯父の1世に似ず、軍事的な才幹を全く欠いていた。おかげで二度の戦争で苦戦を重ね、最後の普仏戦争ではみずから捕囚の辱めを受け、帝政終焉が決定的となった。
 もう一つは後世にまで名を馳せた漁色家であって、高級娼婦から庶民の娘、果ては部下の夫人に至るまで、多くの女性に分け隔てなく愛を注いだ上に、贅沢な宮廷社交にうつつをぬかした。
 荒淫が過ぎたことで膀胱炎にかかり,晩年は終始体調不良で,政治的決断力が大きく鈍っていたとされる。

 「この皇帝がときに観念的な理想王義に走り、自分の利益を裏切る性癖があった」という著者の指摘は、特に、晩年、普仏戦争の直前に議会の民主化を進め、皇帝権力をわざと弱める政策をとった点、などに現れている(このため、議会の普仏戦争参戦決議を拒否しきれなかった)。これが、「怪帝」と呼ぶべきゆえんだという。

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紙の本

至福千年

紙の本至福千年

2019/09/02 14:33

江戸の町並に足を踏み入れたかのようなユートピア小説

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「至福千年」とは、キリストが再臨して千年間の支配を執行し、そののち最後の審判を下すという終末説を指す。それを題とする本作は、幕末(安政二年(1858年)=ペリー来航6年後)の江戸を舞台として、加茂内記なる神官(実は、禁制の切支丹教徒)を登場させ、千年に続く神の王国をこの世に起こす、架空の革命騒動を描く。

加茂内記が独特な点は、彼の王国(千年会と称す)の担い手を、武家・町人・商家・農民・職人に求めるのではなく、彼らから蛇蝎のごとく嫌われる非人とすることにある。世の穢れを理不尽にも一身に浴び、当時において獣のごとき扱いを受けていた者たちにこそ革命の力があると考え、さらには強盗・火付け・辻切・詐欺・殺人を厭わずこの世に住処を持たない盗賊を自らの片腕となし、この世の悪(社会から追放され差別された者)の集まりこそが聖なるものに転化するというのである。

主要な登場人物は、加茂内記の他にも4人、何れも魅力的な怪人たちである。
・加茂内記:白狐を使う妖術者・元稲荷神社の神官・実は隠れ切支丹・無政府主義的革命家。
・松太夫:本所の松師(植木師)・実は隠れ切支丹。内記と対立し、独自の世直しを志向する。
・東井源佐(更源):更紗絵描き職人・実は隠れ切支丹。内記に破門され、一匹狼の過激派となる。
・じゃがたら一角:変装の名人にして、盗み・殺し等を厭わぬ悪の権化。内記の弟子だが、後に反逆する。
・冬蛾:元旗本の俳諧師。元芸者の延登喜と暮らす道楽者。作中、狂言回し的な役割を務める。

これ以外の前半に登場する主要人物は、ことごとく終わりに至るまでに死んでしまうか、小説の外に出てしまう(雲丸、月光院、三太なる心眼の持ち主、花木主馬なる剣の達人、非人の頭である喜六が主な死者。涼やかな剣士である彦一朗も女に狂い酒に溺れて自堕落の限りをつくし、冬峨にかいがいしく尽くす延登喜も三十路を前に清元節の師匠の看板を掲げ生活にいそしむ)。狂言回し役の冬峨自身も、西洋学の勉強と称して神戸から海外遊学することになる。 
なるほど、石川淳の小説の主人公たちは海外に飛び出し、小説の外に行ってしまう例が多いのだが、本作も例外でなく、本来の「伝奇小説」の範疇から大きく逸脱してしまう。

さて、結末は?

当然のことながら、ユートピア小説であるので、最後は夢が叶うことなく、空虚な朝ぼらけの江戸の街は町民・職人たちの「ええじゃないか」の踊りと歌声で埋め尽くされ、幻の中に物語は閉じていく。

その魅惑的なストーリーと強烈な登場人物の躍動-「精神の運動」と言っても良い-に、必ずや全ての読み手が魅了され、打ちのめされしまうだろう。

この小説に、一際魅入られたのが、解説を書いている澁澤龍彦である。彼の解説を熟読することもあわせてお奨めする。特に、最後の、この小説のatmosphericな魅力を述べた以下の部分。「飛鳥山の桜から大川の蛍まで、四季折々の風物を配した江戸の町のデッサンは、石川淳ならではの心にくいばかりな巧みさで、この観念小説にくっきりとした幾何学的な光の効果をあたえており、私たちは百年前の江戸の町並に、次々に立ちあらわれる影のような登場人物とともに、つい足を踏み入れたような錯覚をすら覚えるのだ」。

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紙の本

フィンランド駅へ 革命の世紀の群像 下

ウィルソンとナボコフの間のレーニンをめぐる解釈の相異

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1940年、ちょうどウィルソンが『フィンランド駅へ』を出版した年、彼はロシアから逃れてきたある亡命作家と知り合った。『ロリータ』で知られるウラジーミル・ナボコフがその人である。
ナボコフは刊行間もない『フィンランド駅へ』を読み、その感想をウィルソン宛の手紙で述べている。ナボコフは『フィンランド駅へ』を「とても楽しく読めたし、構成もみごとで、あなたの偏見のなさにはおどろくほど」であると誉めてはいるが、その後にいくつかの難点を挙げている。そしてレーニンに関してはこう述べている。「彼の息子[レーニン]に関しては・・・いや、いかにあなたの文章魔術をもってしても私がレーニンを好きになることはないし、あなたが忠実かつ致命的に準拠している公式の伝記を私は何年も前に読んだことがあります(あなたがアルダーノフの『レーニン』を読んでいなかったのは残念)」。
このときのウィルソンは、ナボコフ宛ての返信で次のように述べている。「ロシアの背景にわたしが疎いことには気づいていました。しかし、レーニンおよび革命家としての彼の全体像についてあなたの理解は間違っているように思います---彼のことを怪物と考え、人間的な観点から説明しようとしないからです」。
この後、手紙のなかでレーニンをめぐって議論を交わすことはないが、レーニンに関する二人の考え方には、根本的な相違があったように思われる。

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紙の本

フィンランド駅へ 革命の世紀の群像 上

今、思想史を読む意味

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本書は3つのパートからなり、第一部では、フランス革命について書いたミシュレ、第二部ではマルクスとエンゲルス、第三部ではレーニンとトロツキーを中心にして社会主義あるいはマルクス主義の歴史的展開をたどっている。マルクス主義の展開を歴史的に俯瞰するという実に壮大な構想のもとに書かれた本である。
本書を、革命家たちの「英雄伝」として読むことも、あるいは、登場人物の多くが歴史家であるため、彼らの歴史に関する記述を分析したウィルソンの記述を「歴史家の歴史記述の歴史」として読むことも可能だ。
中でも、レーニンに関する記述は、正しく「英雄」に相応しい。残念ながら、現在明らかになっているレーニンの実像は、本書で描かれている姿とは異なっている。むしろ、ここに描かれているレーニンはレーニンの実像ではなく、ウィルソンが産み出したドラマの主人公なのだと考えた方が良いのだろう。そう考えることにより、ウィルソンが1930年代当時、社会主義に込めた情熱の大きさが現代の我々に強く迫って来る。
同時に、ベルリンの壁の崩壊、ソヴィエト連邦の崩壊を既に目の当たりにした我々にとって、苦い後味も残す。
それでも、今、本書を読む価値は十二分にあると思う。なぜなら、思想史こそが20世紀に混迷をもたらした核であり、我々は未だにそこから脱してはいないからだ。

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紫苑物語

紙の本紫苑物語

2019/02/19 16:17

躍動する日本語の見本帖

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「紫苑物語」「八幡縁起」「修羅」の3作を収める。いずれも、伝奇小説としても、その醍醐味を存分に味わうことの出来る名作である。
ただし、石川淳の小説は全てそうだが、粗筋を辿ること・要約することを一切拒否している。
躍動する言葉の連なりに身を任せ、その文章の力強さ、奥行きの深さや美しさに酔ってこそ、石川淳の文業に接する意味がある。
従って、以下、それぞれの中で印象深い文章を引き、その見本帖をお目に掛けたい。些かなりと日本語という富に心魅かれる方は必ずや感銘を受け、その実物を一刻も早く読まれたいと思うはずである。
尚、引用は原作・全集収録の旧かな遣いで記す。

「紫苑物語」
「月あきらなかな夜、空には光がみち、谷は闇にとざされるころ、その境の崖のはなに、声がきこえた。なにをいふとも知れず、はじめはかすかな声であつたが、木魂がそれに応え、あちこちに呼びかはすにつれて、声は大きく、はてしなくひろがつて行き、谷に鳴り、崖に鳴り、いただきにひびき、がうがうと宙にとどろき、岩山を超えてかなたの里にまでとどろきわたつた。とどろく音は紫苑の一むらのほとりにもおよんだ。(略)風に猛り、雨にしめり、音はおそろしくまたかなしく、緩急のしらべおのづからととのつて、そこに歌を発した。なにをうたふとも知れず、余韻は夜もすがらひとのこころを打つた。ひとは鬼の歌がきこえるといつた」

「八幡縁起」
「父子のあらそふをりしも、道のはての空にふたたび砂けむりのあがるのが見えた。それとひとしく、かなたの火山、にはかに峰より火を吹きあげて、火は雲を呼び、雲は雨をさそひ、雷鳴とどろいて地の底の岩根をもゆるがした」

「修羅」
「そなたの肌はひえてをるな。しかし、乳房は春ぢゃ。まことに、をとめの乳房はよきものよ。これこそ、わしの好むものぢゃ。この乳房、このわかやぐ身をば、生きながらに、この世の炎の中に投げ入れよ。春のうたげ、燃えるうたげの中に、のぞみは絶える。のぞみの絶えたところに、そなたは生きることをはじめよ」

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近代日本の批評 1 昭和篇 上

紙の本近代日本の批評 1 昭和篇 上

2019/02/19 12:29

「大正的なもの」から「昭和的なもの」へ

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「大正的なもの」を、自己表現がそのまま読者の了解となる、安定的で私小説的な世界と定義した上で、「昭和的なもの」は、マルクス主義文学などにより、絶対的な他者としての読者という概念が導入されたとし、大正から昭和への切断を「転向」と見る。
一貫して重要な人物として、小林秀雄を取り上げる。小林は、フランス象徴主義の影響のもと、自意識や世界解釈に対する外部性として、言語的唯物論に到達する。見落としてならないのは、小林が当時の俗流マルクス主義者なぞよりもマルクス思想を正しく認識していたこと。マルクス思想との緊張関係(必ずしも「否定」ではない)から、彼自身の批評手法が確立された。
しかしながら、彼が批評家として屹立していたのは戦争中まで。敗戦後から「モオツァルト」等で自らを「伝説化」し、「全てをわかっているとのポーズばかりで、批評家としての説明を拒否する怠慢ぶり」を、痛烈に批判している(「3」で)。

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荒魂

紙の本荒魂

2019/02/18 13:04

文学作品の価値とは?

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題名は、「あらみたま」と読む。

 主人公佐太は、生まれた日は死んだ日だった、という紹介をされ、その破天荒な生きざまが綴られる。
 化け物じみた生命力を持つ佐太は、口減らしのために生まれるとすぐにりんごの木の下に埋められてしまうが、穴から這い出て大声で泣き叫ぶ。父親はさらに頭を殴ってさらに深く埋めるが、やっぱり這い出てしまう。 やむなく育てることにしたが、姉二人を犯し、兄三人を召使のように使役し、父親を自分が元埋められていた場所に埋めてしまう。

 「荒魂(あらみたま)」は物事に対して激しく活動する神霊をいい、和魂(にぎみたま)に対して称する。古く日本人は神の霊魂の作用および徳用を異なる作用を持つ霊魂の複合によると考えた。静止的な通常の状態における神霊の作用および徳用を〈和魂〉とし,活動的で勇猛,剛健,ある意味では常態をこえるような荒々しい状態における作用および徳用を「荒魂」と考えた。

 佐太はこの後田舎を出て仲間を得、60年代前半の混沌とした社会、金と暴力と性と陰謀が渦巻く裏社会に身を投じる。
 が、果たして「荒魂」は佐太その人を指しているのだろうか?
 当人は殆ど無言ながら、花売りの子供たちを自転車ごと抱え、花を纏って街路を練り歩く祝祭性、「巨大で黒い塊」で破壊的な力を発揮する荒ぶる存在でありながら女達に額ずかれる神性、これらは「荒魂」そのものと思える。

「荒魂」の正体探しは別にしても、石川淳お得意の現世的野心や神性に加え、現代風俗や経済問題などまで書き込まれ、べらぼうに面白い作品に仕上がっている。

 ある文芸評論家は、この作品を評して、「かっらっぽであり、手法を楽しむ小説」と断じている。また、別の評論家は、「ばかばかしくておもしろくて」と評していた。
石川淳的な要素が過剰に詰め込まれ過ぎて、評論家先生もどう評して良いか途惑ったということか?

 これこそ石川淳の真骨頂だろう。彼自身、「文学作品の価値はどこにあるか?つまり形式にあるのか内容にあるのか?」という問い対して、「その価値は形式にあるのでも内容にあるのでもなく、むしろ『(作者本人には)意識されざる内容』にある」としているではないか。「文学作品の価値は作者によってコントロールできる範疇にあるのではなく、作者が書いているうちに意図せずに生まれてくる内容にある」と。

 ラストに地下室の饗宴、風見鶏との会話というシーンがあるが、 そこからの怒涛の展開が圧倒的である。
 そこまで綿密には悪人と聖人を描き、そいつらが集まると、 一気に虚構の寓話的な世界となる。始めは人物関係が複雑でややわかり辛いかも知れないが、ラストに全ての糸が瞬時に繋がる。この手際も見事だ。

 蛇足を申し上げると、現代文学で性の問題は避けて通れないが、この作品においても、下手な欲情小説よりも余程エロティックな描写がふんだんに織り込まれている。
 そう言えば、同じ作者は、「恋愛について」と題したエッセイでこう説いている。
「心情が一箇の女人にぞっこん打ちこむという仕打をして見せても、陽根エネルギーは必ずしも心情のおもむくところに集中しては行かない。情熱をみちびくものは精神である。精神の運動は波なのだから、蓋然的にしか一点にとどまらない。情熱もまた一物にのみ執著はしないだろう。情熱は過度でなくてはならぬとは、このことをいう。(・・・・)情熱の過度はどうしても女人遍歴という形式をとらざることをえず、したがって有為の男子はどうしてもドン・ファンたらざることをえない」と。

 宣(うべ)なるかな。

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鷹

紙の本

2019/02/12 12:39

石川淳の「精神の運動」に身を任せよ!

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「鷹」と「鳴神」「珊瑚」の三編が収録されている。これら三編に共通するキーワードは、「叛乱」であり「革命」だ。 だが、必ずしも「叛乱」側や「革命」側が「正義」として描かれているわけではない。「叛乱」側や「革命」側も最後はあっけなく消えてしまう。

石川淳の小説の魅力は、何と言ってもそのスピード感のある文体だ。
「珊瑚」は以下のようにの始まる。

厚い樫の大扉の、鉄の鋲をうったかんぬきがしなうまでに、外側から押す力と、内側で支える力とがそこに烈しくせめぎあった。ぶつかってくる力を邪険に刎ねかえす扉の音に、殺気がこもった

「誰が」「いつ」「何を」「どうした」という説明がいっさい省かれているため、読者には何が起こっているのか全くわからない。それでも、大扉がものすごい力でぐわんぐわんと傾いでいる様子は伝わり、しかも、その大扉の周りには「殺気」がこもっている。いったい何が起こっているのか?気になってくるから先に進まずにはいられない。
更に数行を読み進むと、炎に追われ大扉に向かって怒涛のように人が押し寄せてきているということがわかる。その力が先の大扉に加わっていたんだということがわかる。ところが、大扉に押し寄せる人たちが「あけろあけろ。」と言う。それに対して扉の中の人間は「入れるな。悪党どもを門内に入れるな。」と言う。それで悪側と正義の側が提示されたのかと思いきや、すぐに次のような文章が続く。

号令をかけているのは隊長なのだろう。「悪党ども」とはたれのことか。そうわめいた当人、どうやら絵にかいた小悪党の片割とも見えるつらがまえであった。

「当然知っているはず」の作者が、「隊長なのだろう」なぞと、随分あやふやな書き方をしている。さらに「悪党ども」と叫んでいる当人が「小悪党の片割とも見えるつらがまえ」をしているとあるから、読者はますます混乱してしまう。
こんな具合に謎をどんどん提示していくのと同時に、物語も冒頭から異様な盛り上がりを見せる。たった2、3ページの間に、火に包まれて押し寄せる扉の外の人々とそれを阻止しようとする人々との壮絶な戦いが始まって、終結する。甘ったるい文章しか書けない当代の小説家であれば、これだけで優に一つの話をでっち上げるのだろうが、石川淳はそれをたった数ページで描く。

こうして、石川淳の「精神の運動」に身を任せた読者はぐいぐいと引っ張っられて、あっという間に結末まで行ってしまう。

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