よく小説にしてくださいました
2021/02/06 22:37
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
私はこどものころ、鏡を見つめていることがよくあった。あまりの美少年ぶりに自己陶酔していたというのではなく、鏡の中にはもう一つの世界が存在するのではないか考えていたのだ。その考えを小説にしてくれたのがまさしくこの本だ。よく小説にしてくださいました
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短編集だが、300ページ弱、という短篇としては長い(しかし質的には短篇と言える)『鏡の国のアリス』が大半を占めている。
その『鏡の国のアリス』。
最後の1行によるメタ小説的な仕掛けに膝を打つ。
作者は何よりこれをやりたかったのか?
そのための『鏡の国のアリス』(夢を見たのはアリスか赤の王様か)だったのか?
そして、この世界はどちらの世界なのか…?
この1行で知的な満足感と若干の不安感が読後に残る。
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が,その彼を徹底的に打ちのめしたのは,やがて見えてきた商店街の看板だった。まず酒屋の看板が目に入った。つづいてスーパー・マーケットの切り文字,黒枠のついた葬儀社の看板。ぜんぶ鏡文字だった。酒屋の前に積んであるビールのケースの字もマークも,中にならんでいる日本酒のびんの字も,何もかも,左右反対だった。
スーパーの前に,トラックが停まっていた。車の右側を店に寄せて荷降ろしをしているのだが,その左側をライトバンがすれ違って行った。右側通行なのである。
つまり,いま自分が見ている光景は,左右がぜんぶ入れ違ってしまっている。朝比奈家だけでなく,この世界全体が,左ききの世界なのだ。それでなければ,自分の目の神経が,急に左右反対になってしまったのだろうか……。
(本文p.50)
※ひとこと※
いきなり鏡の国に行ったら,そりゃ驚くでしょうね。でもまあ,昔と違って今は左利きだからといって差別はされないでしょうけど。
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面白かった。物理のレポートのために借りたのに、肝心の物理については全力で読み飛ばしてしまった(笑)
でもなんか…うーん、よくわかんないけど面白かった。上手く言い表せないなぁー
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2009年3月15日購入。読書期間2009年4月10日〜18日。
表題作のほかに短編を含む。
表題作は面白い。しかし、難しい。
誰もが一度は考えたことのあるだろう鏡の国に迷い込んでしまった主人公の話。
鏡に写る世界とはどういうものなのか、鏡の反射などについて詳しい記述があるため、難しいが理解しやすい。
人は、少しの満足と慣れがあれば、他の事には目をつぶれるのだなと思った。
短編「遊覧バスは何を見た」がなぜか心に残った。
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「遊覧バスは何を見た」ヒトとヒトの邂逅、過ぎ去った時間、架空の結末
表題作より、コチラの空気と物語に一票
表題作は、その選択でよかったと思うのだ。(結末ではなく)
あちらさんは言動がなんか気に障ったので。
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中・短編集です。
表題作のオチは、「ツィス」と「エロス」を足した様な感じです。
でも、この小説のおもしろさは、鏡に関するウンチクにある気がします。
途中から、さっぱり、理解できなくなるのですが、でも、そういう、ウンチクを聞くのは好きです。
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私のような凡人だと、鏡に映った世界というものは、ただ単純に左右が逆になっているものと考えてしまいがちである。例えば、箸を右手、茶碗を左手に持った私が鏡の前に立つと、鏡の中の私は、箸を左手、茶碗を右手に持っているという具合に。しかしこれは、左右という概念を鏡の前に立っている私を主体にして考えたり、鏡の中の私を主体にして考えたりしているから、逆に映っていると感じてしまうのであって、これを東西南北で説明してみると、また違った見方が生じてくることに気付かされる。
どういうことかというと、鏡の前の私が北を向いて立っているとすると、持っている箸は東側に、茶碗は西側に位置している。そして、鏡の中に映っている箸もやはり東側に位置し、茶碗も西側にあることが分かるのだ。要するに、実像と鏡像双方における箸と茶碗の方向には変化が無い。ただ、鏡の中の私は、鏡の前の私とは違って南面しているのである。言い方を変えれば、実像と鏡像の私は、上下・左右は反対になっていないが、裏表(前後)が反転しているということである。
これは、前後のみが反転している場合の例だが、他にも、左右のみが反転して鏡に映り込む場合や上下のみが反転して鏡に映り込む場合、左右・上下・前後の三つの要素が全て反転して鏡に映る場合などがあり得る。反転している要素が左右とか上下といった一つのみか、左右・上下・前後の三つである場合、これを「パリティが奇である」と表現する。そして「パリティが奇である」と言える条件としては、例えばアルファベットのRやQのように非対称形(文字以外に立体であっても構わない)で、左右・上下・前後のどれか一つの方向を奇数回反対にすると、元の形の鏡像になるもの、そして偶数回反対にすると、元の形と同じ向きに戻るものでなければならない。偶数回反対にすると元の形に戻るというのは、いうなれば、裏の裏は結局表であるという状態のことだ。
「パリティ」とは元々、物理学の中の素粒子分野で用いられる用語で「偶奇性」とも言うが、算数・理科レベルのことも満足に出来ない私には、もうこれ以上の説明はできない。残念至極である。ちなみに、「パリティが奇である」ものがある一方で、「パリティが偶である」ものも当然存在する。それはAやOといった対称形(これも文字以外に立体であっても構わない)で、対称軸(対称面)にそって左右・上下・前後(斜めもあり得る)のいずれかを何回ひっくり返しても、元の形のままのものである。Aが平面に書かれた文字である場合、対称軸は中心の垂直方向にしかないので左右の方向にしか回転させることは出来ないが、何回反転させても(一回でも二回でも三回でも…∞)Aという形を保っている。こういう状態のものを「パリティが偶である」というのだ。山田という苗字も、縦書きにしてフォントの細かい部分を無視すれば、何回ひっくり返しても山田と読める。私の苗字は「パリティが偶」なのだ。小林さんもそうだし、山本さんや田中さん、高田さんといった名前も「パリティが偶である」。皆さんの名前はいかがであろうか。
以上の話題は、本作品『鏡の国のアリス』の中で、中学二年生向けの理���の実験として、朝比奈六郎という登場人物が解説している内容である。(わーなんだ、なんだ。中二向けにしては随分難しいではないか。チクショー!)と感じるが、実際には一次元・二次元・三次元…といった次元の話や物質・反物質、「パリティ保存説」に対して「弱い相互作用では、パリティは保存しない」と唱えた李政道(リー・ツンダオ)博士と楊振寧(ヤン・チェンニン)博士の話まで加えて、この実像と鏡像に関する解説がなされており、途中から頭がこんがらがってついていけなくなってしまう。しかも、この朝比奈がいる世界は、我々の住む当たり前の世界とは左右があべこべの鏡像の世界なのである。いや、断言してはいけないのかもしれない。鏡像の世界らしく思われる、としておくべきなのだろう。
この小説は、左利きの青年・木崎浩一が銭湯・日の出湯の浴槽に浸かっている間に、左右の反転した世界に迷い込んだことから始まる。住んでいる町の風景も左右反転、しかも自分の住んでいたアパートは反転した世界には無く、元の世界での知人も、反転した側ではいたりいなかったりする。途方に暮れた浩一は、「左ききの会」を主宰する左利き研究家の朝比奈六郎のもとに身を寄せ、不思議なあべこべの世界で生きることを余儀なくされるのである。浩一が目にする文字は全て鏡文字なので、面倒なことこの上ない。しかし、この反転した世界では、浩一が普通に書く文字の方が鏡文字として認識されるのである。だが、一つだけ浩一にとってラッキーだと思えるのは、左利きであるはずの彼が、この反転した世界では右利きとして生きることができるということなのだった。
あべこべの世界では誰もが左手で文字を書き、箸を使う。左手が利き腕なのである。したがって、右手を利き腕にしている人間のほうが少数派であり、いわゆるギッチョなのだ。ただ、普通の世界の我々が左手としているものが、あべこべの世界では右手と呼ばれているので、話はちょっとややこしくなってくる。彼らが右と言っているものが、浩一や我々にとっては左を意味するので、その点に注意して読まねばならないからである。
浩一は左右が逆になった世界で、淡い恋に破れ、サックスの演奏競技に優勝し、元の世界に戻るための方策を探る。彼は(ひょっとすると、日の出湯の女湯に入り、あべこべの世界に来てしまったときのように夢想していれば、元の世界の日の出湯の男湯に出られるのではないか)と考え、その場所に行ってみるのだが、しかし、肝心の日の出湯が取り壊されてしまった為に、その試みも出来なくなってしまう。木崎浩一はいよいよ、鏡のような世界の中で生きなければならなくなるが―――…、というのが、この小説の大体の流れである。
広瀬正氏の作品には、いわゆるマイノリティーと呼ばれる人々がしばしば登場する。『ツィス』では後天的聴覚障害者の榊英秀(さかきふたひで)、『エロス』では友人からの暴行で、やはりこれも後天的に視覚障害者となった片桐慎一、そして今回の作品『鏡の国のアリス』では、生まれつき左利きで、矯正によって一応右手も使えるようになっている木崎浩一。私には広瀬氏が、奇想天外で面白い物語を書きながらも、もう一方のテーマとして、マイノリティと位置づけされる人々が日常生活で被っている様々な不都合を、作品を通じて、読者に訴えかけようとしているかのように思えてならない。
そして、彼の作品では、マジョリティー(多数派)とマイノリティー(少数派)が、お互いの違いを理解し、それでも葛藤し、歩み寄り、時には『鏡の国のアリス』におけるように、世界が逆転することで、マイノリティーが正反対のマジョリティーに、という風に、不都合を被っている人々に、不都合のない世界を経験させたりもしている。私は、広瀬正という作家が生み出す作品が、今もなお読者を惹きつけてやまないのは、このマジョリティーとマイノリティー双方に対して平等に注がれた、眼差しと愛情に要因があるのではないかと思う。
広瀬氏が描く昭和初年代や戦後間もない時代の詳細な東京の街並みであるとか、カフェーやダンスホール、ダットサンの自動車やフィリップス社製のオールウェーブ・スーパーヘテロダインといった、細部にこだわった記述が、それらを知らない我々のような世代にも郷愁を呼び起こし、それゆえに支持を得ているのは間違いないが、そういった過ぎ去った日々というものもまた、時代の主流から少しずつ取りこぼされ、忘れ去られていった「時間軸のマイノリティ」なのである。広瀬氏は、多くの人々が普段気に留めることもない、意識にものぼせない、積極的に関わろうとはしない、それらマイノリティに向けての視線を持っているからこそ、時代を超えて愛される作家なのだろうと思うのだ。
現在では昔ほど、左利きに関してうるさいことは言われなくなり、無理に矯正させることもないようである。だが、私が小学生だった頃は、左利きの子らは右手で字を書き、箸を持つよう、親や教師から矯正されていたように記憶している。そもそも世の中の殆どの道具や文房具が右利き用でもあったし、左利きだと文字を美しく書けないという偏見もあった。今の若い世代の左利きの方たちが、この作品を読むと、左利きの先達が苦労していた時代のことが偲ばれ、興味深いのではないかと考える。
とは云っても、私自身はこの『鏡の国のアリス』の内容全てを理解出来たわけではない。それに、木崎浩一が迷い込んだ鏡像の世界も、本当の話なのか、彼の妄想なのかどうなのかも分からないのである。朝比奈が中学生に実像と鏡像の見え方についてレクチャーしている場面には、アルファベットのRの文字を使ってのイラスト解説が掲載されているのだが、朝比奈らが左右あべこべの世界の住人ならば、朝比奈が言うところの「正しいアールの形」は「Я」でなければならないのではないだろうか。だが、実際には「R」が正位置として解説されているのである。ちょっと考えすぎ? 考えれば考えるほどメヴィウスの輪に入り込んでしまったように混乱するのだけれど、次こそ分かるのでは?と、もう一度読みたくなる作品なのである。
平成二十二年八月六日 読了
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鏡の向こう側へ入ってしまった青年が主人公。
キャロルの「鏡の国のアリス」のオマージュ作品です。
めちゃめちゃ面白かった!
キャロルことドジソンの逸話が面白い。
それと、「おねえさんはあそこに」がジンと来た。
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少し長めの中編(表題作)に短編がいくつか。かなりボリュームがある一冊。作者は、知る人ぞ知るSFのパイオニア的存在である(故人)。
表題作はさすがに読み応えがある。左右あべこべの世界の迷い込んだ男の冒険記である。冒険記といっても、肉体的な意味での冒険がさほどあるわけではない。本人にとっては大変なことだろうけれど、まあ生きる死ぬという話ではないのである。「左右あべこべの世界」ってのは、たとえばまわり中の文字が全て鏡文字になっていて、自分が普通に書く文字が全部まわりの人から見れば鏡文字であって驚かれる、とかそういうことだ。コミュニケーションという意味ではかなり辛いし、異邦人としての孤独は味わいそうだけど、まあそれだけである。
それでもこの作品を冒険記と呼ぶのは、まさに知的な冒険がそこにあるからだ。途中、登場人物が解説する形で、鏡についての長い話がある。鏡像の解説だ。つまり、「鏡に映ると左右が逆になるのはなぜか」「左右が逆になるのに上下が逆にならないのはなぜか」といった話である。なんとなく説明できそうなのだけど、なかなかうまく説明できない話が、自分なりには納得できたのが嬉しいし、そういうロジックが、ひとつの物語にきっちりと組み立てられていることに驚く。
この作品以外のいくつかの短編にもあてはまることなのだけど、僕らの持っている「当然そうだ」という感覚がいかにあいまいで相対的なものであるかを、きっちりと切り取ってくれている感じがする。この作品で言えば、最後の3文字に、あたまがぐらぐらするような衝撃を感じる。どっちがどっちかわからなくなると言うか、今まで当然そうだと考えていた前提が、くるっとひっくり返るのである。
短編の中では、その点で最後にある話がおもしろかった。童話めいた、それほど大きなストーリィがある話ではないのだけど、むしろ読み手の頭の中でいくつかのドラマが起きているような錯覚を感じる。おもしろい。
ちょっと読者を選ぶのかな、というか、おもしろくない人には全然おもしろくないだろうなと思うのだけど、僕個人は、とても楽しんで読んだ。
2009/5/14
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これまた広瀬さんのこだわりの詰まった小説全集・・とは言っても広瀬さんが亡くなられてから、この全集は作られたわけですが・・。そう思って読むと、ますます惜しい方を亡くしたと思うのですが、広瀬さんのどこがそんなに凄いのかと言うと、パラドックスにありがちな、『ちょっとした辻褄』も合わないと気がすまない、という事なんです。
そのために、ある時は読むのが難しい、難解どころもあるのは事実です。今回も、鏡の国のアリスについて、広瀬さんならではの、『突っ込んでみたいところ』というのが書かれてあったのですが、いかんせ、私のような凡人な頭には到底理解できない事でした。
それでも何とか理解しようと、ビデオの実験の場面は3回読みなおして、ようやく、概要が分かった、気がしました。それでもはっきりと『納得』したわけではないのですが、まあ、3回読んで理解できないものは4回読んでも理解できないだろう・・という事で、概要が分かっただけで満足して読み進みました。
最後は、なんだかまあ、結局、男ってぇ、もんは、と思ったのと、ハン子ちゃんがそれで幸せなら、まあ、良いか、と思いました。
他の作品はちょっと怖いSFっぽいのが2つと、遊覧バスは何をみた、は、昭和の匂いがする、マイナス・ゼロと、作者は違うのですが、北村薫さんのリセットを思い出させる、心温まる作品でした。
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銭湯の湯舟でくつろいでいた青年は、ふと我に返って驚愕する。いつの間にか、そこは「女湯」に変わっていたのだ。何とか脱出した彼が目にした見慣れぬ町。左右が入れ替わったあべこべの世界に迷い込んでしまったらしい。青年は困惑しながら、新しい人生に踏み出そうとするが―。「鏡の国」を舞台に奇想天外な物語が展開される表題作ほか、短編三編を収録。伝説の天才が遺した名作品集。
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サウスポーや鏡の色々な話が聞けて良かった。
なんて書くと、小学生の読書感想文が思い起こされますが、何とも感想しづらい小説ではありました。
話としてはあまり面白味は無く、元祖「鏡の国のアリス」の発想を引用した『現代版鏡の国のアリス』というポジションになるでしょう。
短編はなかなか、誰でも書けるような話の集まりみたいで、確かにこんなに書けるのはすごいですが、
逆にその程度か、という感じでした。
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こんなところで反物質について学ぶとは。
光学異性体で出来た物を食べたら爆発するの??消化出来ないのかと思ってたけど。
それにしても結局誰の夢だったのだろう。
表題作の他も良かった。遊覧バスは何を見たが特に。
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相変わらず細かいねぇw。”鏡の国”という設定にこだわり抜いた緻密すぎるほど緻密な思考実験には脱帽させられる。ただオチにはもう一捻り欲しかったかな……。