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下巻では全く様相が変わり、日本国内での先祖の因襲のようなしがらみの中での、八代と千鶴子の葛藤が描かれており、これが同じ人物か、と思うほど千鶴子の印象がお淑やかな日本令嬢になります。八代のはっきりしない態度にはこちらも焦らされるほどですが、その中で女性の意志の強さを感じさせられます。上巻のチロルでの思い出に対して、上越の山奥の混浴で2人がともに入湯する場面がありますが、今の時代の小説では考えられないほどの上品な美しい描写であり、二人の心の迷いが映し出されているさすがに新感覚派!と感動的な場面です。
「二人は湯に浸ったまま朝日の射し込んで来る窓を見上げて暫く黙った。体で膨れた豊かな湯の連りに、乳色に染まった視界が雲間の朝の浴みかと見えた。少し離れた位置をとると、もう顔も見別けのつかないほど霧が舞い込み、ぶつかる湯の波紋が二人の顎の間できらきら光った。」(188㌻)
「乾いた蛇口の雫を待ちかねた水仙の花が、湯気に煙った千鶴子の肌の後から見えるのも、別れの前の八代には忘れがたい一瞬の光のようなものだった。」(189㌻)
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横光利一『旅愁』の主人公「矢代」は嫌な性格。恋人がカソリックなのに、彼女も一緒に居る皆の前でキリスト教を批判する。日本のよい精神が、キリスト教と共に日本に入ってきた科学に蹂躙されたという考えなのである。
意見は信条として仕方ないけど、その場の雰囲気を読めなくて、ただただ正直に自分の思想を述べてしまう鈍感さにあきれる。恋人「千鶴子」はさぞかしその場で凍りついただろう。
とストーリーが進む『旅愁』をいらいらしながら読んでいる。
しかし、人のことは言えないね、こんなことっていっぱいあるんだねぇ。自分の信条をつい披露してしまい、その場を凍りつかせたり、ぶち切れさせたり。
前回の読了本『おひとりさまの老後』の上野千鶴子も書いている。一言多い性格。この方ならさぞやとも思うんだけど、わたしだってある。
とっさに一言多くいってしまってしらけた会話。相手にぶち切られた会話。むしろ誠実に意見を言ったために起こったこともある。
だからこの「いらいら」は自省に駆られてのことにしよう。反省して性格が変れば苦労はないけど。
ところで、政治の世界でも「失言」の花ざかりだね。うっ!でもこちらはプロだからねぇ。
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1937(昭和12)年から1946(昭和21)年にかけて断続的に連載・発表された作品。
1936(昭和11)年に横光自身が新聞社の特派員として渡欧しパリを中心に訪れた経験が直接反映されている。この年横光は38歳。
作品はパリを訪れた若者らを描いてゆき、後半に帰国する。主に視点となる中心人物「矢代」はヨーロッパにあっても祖国日本の美質がかえって際立たせられるように思い、日本回帰主義的な考え方をしている。一方でときおり視点となるもう一人の中心人物「久慈」はヨーロッパ流の科学・合理主義の賛美者で、この2人が合うたびに繰り広げられる論戦が、本作の「思想小説」としての骨格となる。
合理主義の是非やら日本文化の良さ云々やらの議論は、現代の私たちにはどうしても青臭く見えてしまう。こうした「青臭い議論」は永井荷風がもっと若くして米仏に渡って帰ってきてから書いた小説にも見られる。
明治から昭和初期の青年たちはとてもマジメで、非常にストレートな思想をもって議論し合っていたようなのだが、「シラケ」の時代を経由した私たちにはそれがどうしても恥ずかしいもののように感じられてしまう、ということだろう。
矢代の方は帰国後さらに日本絶賛の方向に進んでゆく。が、こんにち、土俗的な信仰を捨て去り、祭も忘れ去られ、全国至る所に全く同じような道路が敷設され、さらには古くからのマナーも道徳もいよいよ喪われてきた現状をふり返れば、主人公が敬愛した「日本」なるものも、もはや過去の美しい幻想であったとしか言いようがない。
しかし単なる思想小説というだけでなく、本作は主人公らの恋愛模様を描いた青春小説でもある。主人公矢代がパリで千鶴子といい雰囲気になり、帰国してもさらにいい感じで進んできているのに、男があまりにも優柔不断で奥手すぎて、読んでいて極めてもどかしくなる。「えーい、押し倒しちまえよ!」などと、男同士の猥談でしか許されないような野蛮な言葉が出そうになる。
あまつさえ、いつまでたってもこの2人の間には「結婚」の「け」の字も出てこない。お互いに意識しているのに。やっと「式の日はあなたの方で決めてくださる」と女の方から口にされる始末。
本作の続きを作者は書くつもりでいたようだが、1947(昭和22)年の病死によって中断された形である。「大東亜戦争」開始の直前から書き起こされ、敗戦直後まで書き続けられた本作、この重大な「敗戦」という事態から日本社会に何が起こってくるか、じゅうぶんに見極めるまで至らずに亡くなってしまったのは、やはり惜しい。