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投稿者:令和4年・寅年 - この投稿者のレビュー一覧を見る
文字に頼らないで理解しなければならないことを西洋の人にも理解できるように説明している。何度も何度も読み直す類の本。心学にも目を向けて問いている所が興味深かった。
電子書籍
「無心ということ」は宗教的生涯の中心をなしている思想である。
2020/08/25 21:05
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投稿者:三分法 - この投稿者のレビュー一覧を見る
分別の世界、すなわち善悪、有無、自分と他人などの二元対立の世界が人間世界であるが、このほかにもう一つの世界、すなわち無分別の世界、無心の世界、大地のようなものがある、という。
本書において、「無心」とは何かは、いろいろと言い換えられて、説明されている。たとえば、受動性、無分別、無所得、無住、心身脱落・脱落心身、日々是好日、不死、他力三昧、自然法爾、御心のまま、……。
何故「無心無我」なのかと言えば、「我」の意識は人間だけにあるのであって、物質界や動物にはない。ここから人間特有の矛盾対立の世界が展開し、そこから常に悩みが生じてくるからである。しかし、「無心無我」の境地になると矛盾衝突がなくなる(克服される、超越される)といわれている。そしてこの「無我無心の世界」から、今度は改めて、二元対立の世界、善悪、有無の世界、「我」の世界、「他人」の世界が出てこなければならない、という。無我無心となるということは無責任になるとか、非倫理的になるということではないのである。
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仏教の基礎は心理学にある、もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが、ちょっと見ると哲学のようにも、認識論のようにも、またいわゆる神学のようにも見えるかもしれないが、文教の本領は心理学にある。超絶的または形而上学的心理額とでもいうべきところにある。
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無心になりたいと思って読んだが、無心になれなかった。
講演をもとにした本なので話し言葉が読みにくく、同じ鈴木大拙でも前に読んだ「日本的霊性」「禅とは何か」の方が面白かった。
「無心」にはなかなかなれないね。
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禅と浄土宗、真宗などを横断し「無心」を解説。
無分別の世界=自分を完全にしたと思う世界=無心の境地。
「往生する」とは「対立の世界」と不連続な「無心の世界」に飛び込むこと。
無心の世界は「ただ今」=三昧である。
一旦無心の世界に入ると、自然の誓願・意志・祈り=大慈大悲が分別の世界に転じ出る。
ここに無心とは他力、真心と同義であることが分かる。
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先日、金沢の鈴木大拙館に行ってその佇まいに感銘を受けて、早速売店でこの本を買ってきた。「禅」とか、名前のついた型みたいなのにはあまり興味がないので、いちばん無形っぽい、汎用性ありそうなタイトルを選んできたのですが…。
たぶん一生「いま読んでる」ステータスのままになる予感。なぜって、書かれてる内容が理解ができないから! 言葉面で「読める」部分はあるんだけど、体感覚に落ちないというか、うーん、「理解」できているとはまったく思えないっす。なので、★二つ評価は、本への評価というよりも、私の理解度がそれだけ低いという証明です。
無心というのは、いろんなことから自分の心を遮断するのではなく、全部受け容れてしまうことだ…というのはわかった。でも、「で、なぜそうなりたいの?」と思っちゃうところがダメなんだろうな私は。
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禅の世界において、国内外を問わず著名な鈴木大拙さんの一冊ですが、その内容を理解するのは容易ではありません。1回読んだだけでは10%ですら理解出来なかったというのが、個人的な感覚。けれど、決して面白くない訳ではなく、禅の世界を体得するにつれ、本書の面白みも分かるようになるんだろうと思う。
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鈴木大拙の文章は言っていることが難しく、なかなか読めなかったが、やっと読めた。大拙は「無心」を禅だけでなく、東洋の宗教観に独特のものだとしている。禅への言及も多いが、老子や「四時行われ百物生ず」(『論語』)などに言及し、日本の心学とくに石田梅巌のあとをうけた手塚堵庵などに精しい。また、浄禅一致の思想を展開している所も本書の特色であろう。禅僧が棒で打つのは叱るのもあるが、褒めるのもあるらしい。どうも棒はコミュニケーションの道具なのである。弟子が問い、師が答え、弟子が礼賛する。そして棒である。これを浄土教に翻訳すると棒にあたるのが「南無阿弥陀仏」であるそうだ。「無心」は木石のように無作為になることではあり、倫理や社会を否定する非常に危険なものではあるが、それだけではなく、風が家を倒すような物理的無心とも、虎が人を食っても平気な本能的無心とも異なる。人間が道徳を失わずに意識の集中によって意識が無意識に転ずるのが宗教的「無心」であるらしく、また、「無心」は静的なものではなく、動的で活動的なものだそうである。『碧巌録』の「独坐大推峰」、「三種病人」などの公案にもふれている。浄禅一致は明末思想でもテーマであるが、大拙の論を読み、少し分かるような気がする。
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「何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが。
ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また、いわゆる「神学」のようにも見えるかもしれぬが、仏教の本領は心理学にある、超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。
これが本当にわかると、仏教は神秘主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。」
エラノス会議にも出席していた鈴木大拙が、ユングとどのような会話を交わしていたのか。
想像が膨らみます。
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鈴木大拙先生の講演録。
改めて彼の生きた時代といふものを見ると、それは決して最近のひとではないといふことに改めて気づかされる。養老孟司、吉本ばなな、Azuki七、松村栄子、宮崎駿、池田某、永井均、なだいなだ、福田恒存、小林秀雄、宮沢賢治、一休宗純、ブッダ、どこか綿々と続く精神の大きな働きの中にゐるやうな気がしてならない。かうして言葉は、普遍的な精神は誰かが死んでもどこかでまた息づいて生まれるのだと思ふ。生命の明滅を眺めてゐるそれは、本当に時間から垂直に立ち上がつてゐるやうだ。
無心といふこと。考へないで本能の赴くままではない。何かを感じないことではない。ないといふことさへ言えない、ことばの尽きる場所に一度落ちてゆく。さうして在ることしかできないといふ端的な事実。自分といふ存在が最初になければ何も存在しないこと。けれど、その在るといふことが言えるのは裏返せば、ことばに決してなりえない存在しない何かがなければ言えないといふことに気づかされる。生と死は確かに正反対で混じりあうことのない、けれど、どちらもただのことばでしかない。そのことばがそのことばたりえる何かがやはりなければ、ことばは存在できない。すべては釈迦の大きな掌の上だつた。弥陀が望んだことなのだ。あるいは、自分で望んだから、この世に生まれてきてしまつたのだ。
一周廻つてこの自分が点となる。存在しないのに、確かに存在する。流れているのに流れてゐない。
存在するから信じるのではない。存在とは何か疑ひ尽くして、みると存在を信じるより他ないのだ。自分と他人は確かに異なる。けれど、やつぱり他人も自分と同じやうに何か思ひ考へてゐると思はざるを得ないのだ。とんでもない矛盾であるが、どうもさうなつてゐるとしか言えない。矛盾が笑えてきて仕方ない。
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真宗向け講演会のまとめ
心に残った点:
西洋と東洋の違いは
主体中心⇔無心(諸法無我、縁によって形作られていること)
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コトバがほとんど心に入ってこなかった。ーー目の前に広がる大自然に無感情に佇む自分。大自然に囲まれて空気美味しいはず、、、心癒されるはず、、、という思い込みが頭にあるものの、身体がほとんど反応しない状態のようだ。彼の著作に直接触れる前に、彼の教えについての初級者向けコンテンツから入ろうと思った。
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前回読んだ「禅」と同様、読み終わってみて、何かを学べたという感じが全くしない。途中で投げ出さないでよく最後まで読んだと思う。
何も学べなかったからといって、もう本棚の奥に閉まってしまおうと思わないのが不思議な気分である。何年かかるかわからないけど、もう一度挑戦してみたいと考えているのは、この本になんらかの魅力があるからだと思う。