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【食品サンプルと泥付き野菜】
僕は、『意識高い系』という言葉が苦手だ。
他人の努力を視野狭窄な主観で揶揄するような印象を受けるうえに、その印象が漠然としていてモヤモヤするからだ。
そんな『意識高い系』に対する漠とした感情に、論理の軸を指してくれた一冊。
《「意識高い系」の研究 古谷経衝 》
自らも意識高い系だと称する著者が、自身の過去の分析と実際にあった事件を例に、意識高い系の特徴・生態を説いている。
意識高い系の特徴として、
・自己評価が異常に高く、他人を見下す
・学生時代はスクールカースト中位に所属しており、そんな自分にコンプレックスをもっている。
・ケーキ食べ放題には行かないが、ホテルのスイーツバイキングには目がない
といったものが挙げられていたが、とくに印象的だったのは『泥臭さ』と『土着』であった。
《泥臭い要素》
意識高い系は、泥臭さを嫌う。
理由は、泥臭さは過去のコンプレックスまみれの自分を思い起こさせるということと、自らが憧れる『リア充』たちからは泥臭さを感じないからだそうだ。
つまりは『友情・努力・勝利』のなかで、努力はすっ飛ばして勝利に即直結したいという心境らしい。
だが、彼らが憧れる対象は、見えないだけで泥臭い努力を積み重ねており、泥臭さを避け続けるのであれば、意識高い系からは抜け出せないという著者の論理に納得できた。
《意識高い系は、土地に土着していない(よそ者)》
スクールカースト中位の自分をリセットするために、地元を飛び出して新天地(おもに東京)へと向かう彼ら。
しかし、そこには土地の優位性(人間関係がすでにできあがっている、親の持ち家に住んでいる、など)をもったジモティ(地元民)がいる。
よそ者の彼らはジモティには勝てない。
そしてジモティへの憧れや、抱いた疎外感を払拭したいという想いから、豊富な人脈や洗練されたライフスタイルを、これみよがしにみせびらかそうと躍起になるという。
そして、意識高い系の爆誕へとつながるそうだ。
最初、この点には疑問を抱いた。
僕もよそ者で今の土地に住んで14年になるが、とくに疎外感を抱いたことはないからだ。
しかし、よくよく考えてみれば、創業60年の会社と結成30年の和太鼓団体という地域に根付いたコミュニティに所属しているおかげで、よそ者であるにもかかわらず、疎外感を抱かずにいられたのだと気づく。
改めて自分の状況に感謝したい。
《意識高い系を超克するには…》
著者は言う。
自らも未だ意識高い系から抜け出せないとしつつも、そんな自分を超克するためには「泥臭いことの積みかさねを、積み重ねて積み重ねることしか道はない」と。
『泥臭さ』と『土着』。
ふと、『泥付き野菜』が思い浮かぶ。
大地(土地)の恵みをうけた泥付き野菜。
そんな、『泥付き野菜』を僕は目指したいと思うとともに、他人の目ばかりを気にして、見た目だけの意識高い系=『食品サンプル』になっていないだろうかと、自問自答をする読後感であった。
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Webの記事で著者を知って図書館から借りてみた。
自分の経歴を強引にこじつけただけ。
リア充になれない自分を正当化するための論。
根拠レスな言説が多いのでは?
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僕がこの著者を知ったのは、テレビタックルというテレビ番組で、ホリエモンやひろゆきと意見をぶつけている姿を見た時で、この著者の発言がまったく意味が分からず、見た目も含めて気持ち悪いと思ってしまったが、逆に興味を持ってしまった。気持ち悪いけど、何か自分と近いものも持っている気持ち悪い人。同類相哀れむ。作品でリア充について語る様は気持ち悪い。研究と言いながら、資料は少なく、主観がほとんど。読むだけ時間の無駄なので、健康な人は読んじゃだめ。サブカル系の人でも、この本に時間を使うなら、他の本に時間使ったほうがいい。でもなんか、気持ち悪さが好きな本。
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意識高い系について話す本
まとめ方が下手すぎる。要素の選び方も下手で土着性などは作者が今コンプレックスに思っているだけでは。それを抽象化してまとめるべき。
このテーマで別の人が書いてほしい
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戦争や政治に対して意識が高い人を「意識高い系」と揶揄する風潮に疑問を感じていたので、タイトルから気になって読んでみた。本書ではきちんと「意識高い系」(系は「もどき」)と政治に対して「意識が高い人」を区別しており、やはり政治に対して関心を持つ人を「意識高い系」と揶揄する風潮は、政治に関心を持たない人々が「私意識高い系じゃないから(笑)」と自己を肯定し思考停止するための言葉として使われているのではないかと考えた。
抽象的で多幸的な言説を善とする意識高い系は、具体的でグロテスクな欲望を避けるために「高次の大義」を掲げがちであり、それはかつて戦争に突き進んでいった「高次の大義」(ex.「アーリア人の生活圏の拡大」「エチオピアの文明化」etc.)を思い出させるという筆者の指摘は私をゾッとさせるものであった。
「おわりに」でも筆者が書いていたように、この本全体からリア充への羨望とそれをはるかに上回る憎しみがふつふつと感じられ、筆者ほどではないもののリア充に劣等感を抱いてきた私は共感しながら楽しく読めた。