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枕頭の書に、もってこい、です。
すぐ眠れる。
最後の一行があまりにも有名だが、その少し前から、大変なものです。
恐れ入りました。
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前期ウィトゲンシュタインの著作『論理哲学論考』です。前知識なくこの本だけ買って読むと、もっと詳細な解説が欲しくなると思うので、訳者の野矢谷秀樹さんの解説本から先に読んだ方がよいかと思われます。
http://booklog.jp/asin/4480089810
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大学の試験からの逃避として読んでました。この本は「世界は成立していることがらの総体である」と始まり「語りえぬものについては沈黙せねばならない」という結論に至る。言いたい事はハイデガーが「存在と時間:第1章 存在の問いの必然性、構造および優位:第2節 存在への問いの形式的構造」で「問われているもの(存在)が、ある存在者の存在様態たる問いそのものへ、再帰的にあるいは先行的に、連関している」って言った事と似ているのかなぁと思った。問われる存在は、問う存在へ逆説的に問いの構造を作っているって言う事、そして僕らが普段「喋る」「話す」「書く」と第三者に問いているのは存在了解の上なのかなと考えさせられた。
まだ、本文を読んだだけなので、1、2割も理解出来てないだろうけれど、これから読むラッセルと野矢茂樹さんの解説から、さらに得る物があると思う。
読んでて思った事「これを逆に読んで、結論から入って演繹的に読むとまた違う発見があるかも」
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噂は聞いていたが、本当に難解。著者の思考の1割も理解できたかどうか…。用語の定義の理解が不十分なまま読み進めたのは反省。言葉の定義を厳密にし、論理学で語れることと語れないことを区別している。わからないことだらけなのだけど、読み終えた後にパラパラと見返していると、番号で整理された一連の文章が、著者が自身の思考を言葉の限界を認識しつつも苦心しながら記述しようとした跡が感じられるように思えた。
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友達が「人生で一番薦める本」的なことを言っていたので「そういわれたら読むしかねえな!」と思い手を出した本。
意味わっからーん\(^o^)/すげー直感的に感じたのは著者は「論理」を愛するあまりそれを殺してしまったんだな、的な感じ。論理が世界の中に存在していて、自身の存在を広げようと手を伸ばそうとするんだけど、世界という限界に阻まれてしまう。でも人が自分の目を見ることができないように、論理も世界を見ることができない。見ることができないというのは俯瞰することができないという意味なのだが、つまり見ることができないということは認識することができない、ということになり論理の可能性は限界がないことになる。みたいな感じがした。
ところどころ共感できる箇所もある。次に読もうと思っている「論考を読む」という本を読んで、論理哲学論考への理解をもう少し深めたいと思う。
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1921年に出版された哲学書なんだけど、IT技術者が読むと、まるでプログラミングついて語られているかのように錯覚してしまう不思議な本。
たとえば「世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」とか。
論理的考察の果てにたどり着く真理が実に美しい。
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誰でも一度は、しみじみと何かを考えることはあるだろうし、それの多くをこれから見出すことができると思える。
人と話をしていても、また何かで悩んでいる時、わりと「何かの定義」で割れていることもある。知らないことについては、何も言わない方がいいのではないか、と思うことも多い。
哲学は学説ではなく、行動である。哲学とは、「何かをしみじみと考えること。」に他ならない。
ヴィトゲンシュタイン自体は、この本を書いたあと哲学界から一度身を引く。何もかもやり尽くしたと思ったのだろう。彼は当たり前のことをだらだらと小難しく書き連ねているが、この本が評価されるくらい、哲学界は混迷に満ちていたのだろうか。
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学が少ない自分にとってはあまりに難解な本で、読むことは至難と鳴っております。
哲学書というのは、内容を理解して著者の言い分を分かってやってこそ読んだという領域に到達できるものだと思っています。
そう考えると哲学書なんて一生読んだという領域に辿り着けないものだと思いますが、それで良いと思います。
むしろ、その領域に達することなどナンセンスだと思うのですよ。
今後も積読していきたいと思います。
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ウィトゲンシュタインの「危険」な思考は、なんて魅力的なのだろう。
たしかにそうだ、語ることがその人の思考を作る。
当然それが限界となる。
しかも思考は言語でおめかしして、その真意を明らかにはしない。
他の問題が解決できても、生の問題は残る。
それを解消するまで考えねばならないのか。
神秘主義に、言葉遊びのような要素に、数式も現れる。
そして最後には梯子を外して、ウィトゲンシュタインを超えてゆけというのだから。
では限界を作る言葉を持って、いかにウィトゲンシュタインの世界を壊し新しい世界を構築すればいいのか。
何度読んでも刺激的だ。
ちなみに、円城塔の『次の著者に続く』にはウィトゲンシュタインからの引用があるのだが、なるほどウィトゲンシュタインと円城塔の思想というか作風は似てなくもない。
円城塔の前世はウィトゲンシュタインかもしれぬ。
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卒論その1、ウィトゲンシュタイン前期の代表作。
言語によって構成される哲学から世界の限界を見出そうという試みは非常に攻撃的かつ高圧的。しかしその展開から垣間みられるのは、全ての雑念から解き放たれたいと願う妥協を知らない純粋な人間が、悩みながら生きる姿でした。
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何回読んでも難解な本ですが、ようやくこの本の提示するスコープが見えてきたような気がしました。
①成立していることがら(=事実)から構成要素に分解する。
②それらの可能な組み合わせ(=事態)を記号(=像)にマッピングする(=命題)
③命題についていろいろ語って思考の限界を探る。
④語りえないものについては、沈黙しなくてはいけない。
正直なところ、解説を読まないと、何を言っているのかさっぱり意図がつかめないです。でも、解説を読んだ後で流し読みしてみると、そういうことか!という発見があります。
この本は、解説本を読んだ後にまた再読したいです。
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言語の限界を明らかにすることで思考の限界を指し示し、命題に対する操作によって語られうることは全て明晰に語られうるのだと証明した上で「語りえないことには沈黙しなければならない」と断言する、20代のウィトゲンシュタインが残した生前唯一の哲学書。大半が難解な論理による分析方法に関する考察で占められているのだが結論直前では一転、倫理や幸福、死生観について触れられている。沈黙すべきなのは決して不要だからなのではなく、本当に大切だからうかつに語るものではないと言おうとしていたのではないか―そう考えるのは飛躍だろうか。
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とにかく読みづらい印象だった。この書籍に強い関心だとか、読み明かしてやると言う強い気概がない場合に一旦読むのを見合わせた方がいいかも。
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浅く理解した。以下は私の勝手な解釈。
(ウィトゲンシュタイン氏はこんなことが言いたかったんじゃないか?的な)
哲学における命題は、だいたいにおいて、答えが出ないような構造になっているので、考えるだけ無駄(設計が悪い)。4.003
そして、この本では、良くない設計の命題がなぜ良くないかを主に解説している。
だから、私のこの本のそうした部分も含めて、(意義のない)哲学的命題について考えることから脱してほしい。6.54
哲学そのものを否定する訳ではない。哲学には思考を明晰化する働きがある。(きちんとした構造を持つ命題と向き合うなら)4.112
だから、どんな命題が(哲学的に)有意義かを確かめる基準として、私のこの本を使ってほしい。
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パラッと開いてみたらぶったまげた本。
「二・0一二四」という数字が各行(各論か?)の頭に振ってあり、その下に「全ての対象が与えられるとき、同時にすべての可能な事態も与えられる」とかいう文句がある。
この短くも長くもない明晰であり、しかし強く惹かれる怪しい魅力を放っている文章になんだか溜息がもれてしまう。
とにかく、タイトルと目次と段落と行の塊のような物語小説やビジネス書を読んでいると、この記述に面を食らってしまうこと間違いなしだ。
でも「ケッ!なんだこれっ」みたいな、つばつけてポイするような本でもなく、とにかく魅力を持っている。怪しくて魅力的なのだ。
本棚に入っていると気になってしょうがない存在感をも放っている。
なぜか、それはこの論理哲学論考の著者であるウィトゲンシュタインが、「私はどれだけのことが考えられるのか」と思い、思考の限界は言葉の限界であるということを、この本全体を通して表現しているからだ。
受験産業で現代文の参考書を書いている出口汪さんの「現代文講義(タイトルはうろ覚え)」では、言葉の限界について分かりやすい説明(も、うろ覚え)をしているので下に(うろ覚えだが)引用してみる。
『今ここにある週刊少年ジャンプ(手元に置いてある)を示す場合、「この週刊少年ジャンプ」と指をさして表現します。「週刊少年ジャンプ」といっただけでは、今までに発刊されたすべての週刊少年ジャンプを示してしまいますし、「この」がないと、いつ発売された何版の何号のどの週刊少年ジャンプなのか分かりません。「この週刊少年ジャンプ」をさす場合は、「この」という指をさすボディランゲージがないと「この週刊少年ジャンプ」、と正確に示す事はできないんです。これが言葉の限界です。「指をさす」というボディランゲージがないと、「この」週刊少年ジャンプを示して表現することができないんです』
という出口さんの説明でウィトゲンシュタインがこの本で何を言おうとしているのか私はやっと理解できた。
それは思考や表現には限界があるということだ。
なぜならば、私たちは言葉を使ってでしか思考や文章表現ができない。
言葉の限界が思考の限界なのである。
そこでジョージオーウェルが「1984年」という本の中で気になる描写をしていた。
とある帝国では、ニュースピークという新しい国語を制定して人々の思考をコントロールしようとしていた。ニュースピークは多義語がメインの言葉で、ある言葉の反対の意味を表現しようとしたら、その語の頭に「非~」とつけることでそれを表現する非常に簡単な言語構造をしている。この言葉は便利だ。しかし、多義語がメインなので具体的に考えることができない。人々から具体的な思考を奪うことで、その帝国は存続していく。というような描写だ。
これは現在の日本にも言えることで、「ヤバい」「かわいい」「わかんない」というような抽象的な多義語を使うことで、一応会話は成立してしまうが、具体的に考えることが出来なくなってしまっている人がいるのではないだろうか。
具体的に考えられないと、なにか特異な状況が自分の周りに発生した時に、どのような対処をすればいいのか分からなくなってしまうのではないだろうか。
何か問題が起こると反射的にネットでググって答えを得るのも、簡単かもしれないが、そのような対処法が公開されていなかったらその人はどうするのだろうか。
いろいろ考えてしまうがみなさんはどうだろうか?
最後に、「七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という著者の立場に私は賛成する。
直観的なセンスが必要となる神秘と情緒の世界は、語ることができないと思われる。
具体的に説明すると、五十嵐大介の「海獣の子供」という漫画の最終巻の話は、語ることができない沈黙せねばならない類の話であると思う。
美麗なビジュアルで描く神秘的な世界は語ることができない。
称賛することはできるかもしれないが。
とにかく、言葉をつかった表現に取り組んでいる人へ、この本をおすすめする。
私たちが普段からしている思考や表現は、このような限界に満ちたものであるということを、この本と格闘することで実感してほしい。
そして新しい思考と表現のステージへと進んでほしいと思う。
本当ならば、岩波文庫の「論考」だけでなく、「ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』対訳・注解書」も併せて読むといいのかもしれない。
なぜならば、岩波文庫のバートランド・ラッセルの解説についてウィトゲンシュタイン本人は、「あなたは何も分かっていない」とケチをつけているからだ。
そのことについての詳しい説明は、こちらに書かれているので、より詳しく知りたい人には、岩波とこちらの両方をおすすめする。