とっても難解なですが、キーワード「非意味的切断」ということをしっかりと把握して読めば、分かります!
2020/05/17 11:44
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、ジル・ドゥルーズの哲学を大胆にも読み替え、「切断の哲学」を提示した画期的な一冊で、人間の弱さや「有限性」をこそ思考する、世界的に特異な「生成変化論」の書です。とっても内容が難しく、なかなか読むのに一苦労ですが、同書におけるキーワードは「非意味的切断」です。この用語をしっかりと把握すれば、何とか読み進められます。では、この「非意味的切断」とは何でしょうか?著者は、同書の中で「すぐれて非意味的切断と呼ばれるべきは、<真に知と呼ぶに値する>訣別ではなく、むしろ、中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害といった><有限性>のために、あちこちを乱走している切断である。特異な有限性のために偶発する非意味的切断は、><すぐれてクリティカルな体験>に劣らず、何らかの<本能>や<共同幻想>とされるものを、ズタズタに破砕する」と述べています。つまり、「非意味的切断」とは、意図してなにかを切るという行為のことではなく、なんらかの行為や出来事の予期せぬ結果として、あるいは各人の能力の限界によって、意図せずなにかが切れるという事態のことであるらしいのです。ここまでだけでも一苦労ですが、ぜひ、同書を最後までゆっくりとお読みください。
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序論を再読。
53〜54ページから少し抜粋。
「56年以後にドゥルーズが強くコミットしたベルクソン主義は、実在の連続性の「直観intuition」を求めるものである。しかし、最初期においてドゥルーズは、切断された状況を、独特のしかたで主題化していた。
ソルボンヌの学部生時代に書かれた「無人島の原因と理由」という試論がそれを示している。・・・
島を夢想する–––– 不安と共に、あるいは喜びと共に、
いずれにしても––––、それはひとが分離する、すでに分離されている、
大陸から遠ざかっている、一人ぼっちで寄る辺ない、そうしたことの夢想である。
あるいは、ゼロからの再出発、再創造、再開を夢想することである。
ベルクソン的な連続性の直観と、ドゥルーズのこの〈無人島的な分離の直感〉を、いったん分けておこう。その上で、両者の連関を再考せねばならない。
無人島的な切断の直感は、ヒューム解釈において反復される。
そして、海底から無人島が隆起するように、ドゥルーズの歩みにおいて、この切断の直感は、ところどころに浮上してくる。」
例えば、こんなスケッチがイメージ豊かに理解を助けてくれるんだよなーと、あらためて。
複合的なものごとを語る時に、こんな風に切り分けて合わせていくのだな。食べると風景が広がるような、この辺りは大事なソース。
料理の手さばきや仕上がりを見ているようで楽しいし、参考にしたい。
二度目はサクサク読めるかんじ。
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著者の博士論文を改稿したドゥルーズ論。
決して解りやすい内容ではないが、現代思想書として普通に面白い。
しかし、哲学畑の人はいっつもこんなことを考えてるのか……凄いねぇ。
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各紙の書評で絶讚され第4回紀伊國屋じんぶん大賞を受賞するなど、哲学書としては異例の反響を呼んだ作品。それならばとふだん哲学とはまったく縁遠いわたしも読んでみたが、博士論文を改稿したものということもあってやはり難解で、まったく理解することはできなかった。それでも最後のほうにすごくわかりやすく要約してあるのかなと思っていちおう読み通してはみたが、やはりそのようなことはなく、これが評価された理由も素人にはよくわからない。従来の哲学書とは違うアプローチということなのかもしれないが、そもそも従来の哲学書がどのような論攷を展開しているのかをよく知らないので、比較のしようがない。評価以前の問題なので、☆もつけていない。いつかは理解することができる日が来るのであろうか。
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哲学書というのをはじめて手に取った。正直に、理解が難しく読み取れる部分はないかと探したが無いに等しかった。繋がりすぎる今、切断する哲学。この言葉にこの本を手に取っただけで得るものはあったと考えている。繋がりすぎることに息苦しさを感じている現代人は私も含め大多数いるはずだ。
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千葉雅也(1978年~)氏は、フランス現代哲学及び表象文化論を専門とする、立命館大学大学院教授で、2013年に発表したデビュー作の本書で表象文化論学会賞を受賞した、現在注目される現代思想家のひとり。
本書は、難解な哲学書ながらベストセラーとなったことは有名。単行本の帯には、1980年代のニューアカ・ブーム時のベストセラー『構造と力』の浅田彰と、1998年に『存在論的、郵便的』で注目された東浩紀が推薦文を寄せている。
私は、千葉氏と同じ高校出身ということもあり、本書もいつか読んでみたいと思いつつ、ドゥルーズはじめ現代思想に関する予備知識なしには、正直全く歯が立たず、今般、文庫版(2017年)に収められた小倉拓也氏の「文庫版解説(読解の手引)」を頼りに、一通りページをめくってみた。
以下は小倉氏の手引を参考にした本書のポイントである。(「切断論」と「個体化論」の考察には立ち入らない)
◆本書は、ドゥルーズ研究の歴史と現状に批判的に挑戦し、新たなドゥルーズを立ち上げようとする試みである。
◆“いわゆるドゥルーズ”とは、「差異」を「同一性」に先立つものとし、世界は「同一性」の下で、微小な「差異」がうごめき、全ての多様なものたちが互いにコミュニケートしていると考える。そのような世界は、「現働的なもの」ではなく「潜在的なもの」であり、この考え方では、「静的で固定されたもの」よりも「動的で絶えず変化するもの」を高く評価する。このようなドゥルーズを本書では「接続的ドゥルーズ」と呼ぶ。
◆しかし、「<ひとつ>の世界で<すべて>の多様なものたちがコミュニケートする」=「<すべて>は<ひとつ>である」=「<すべて>はつながっている」(「存在の一義性」、「差異の存在論」)という考え方は、存在の耐え難い息苦しさをもたらすのではないか。つまり、そうした世界は、つながりを飽和し、どこにも逃走の余地がない世界、「接続過剰」の世界ではないか。
◆ただ、一方には、コミュニケーションで飽和した<すべて>=<ひとつ>からの「切断」を指向し、同時に「個体化」(暫定的なまとまり=「器官なき身体」)を要請する、「別のしかた」のドゥルーズ(「切断的ドゥルーズ」)が間違いなく並存する。なぜなら、“いわゆるドゥルーズ”の生成変化とは、「現働性」から理念的で「潜在的」な領域へとイロニー的に上昇することで、それを突き詰めれば、その「動きすぎ」によって、私たちは逃走の余地をなくし、身動きがとれなくなって、生成変化はみずからを殺してしまうからである。
◆だからこそ、「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」のだが、それは運動を否定して現働性に甘んじることではなく、現働性から潜在性へのイロニー的遡行を半ばで止め、そこからユーモア的個体化へ戻ってくることにより、つながりの飽和から「切断」し、「個体化」することである。しかし、「切断」と「個体化」により固定した「現働性」に落ち着くことにより、逆に生成変化を殺してしまわないように、イロニー的遡行とユーモア的折り返しを絶えずに行うことが重要である。
◆こうして、まさに生成変化の論理が要請するところにしたがって、私たちは「接続的ドゥルーズ」と「切断的ドゥルーズ」の両方を必要とする、すなわち、「動きすぎてはいけない」のである。
また、私は、本書の後に発表された、『ツイッター哲学~別のしかたで』、『勉強の哲学』、『アメリカ紀行』などのソフトなものを先に読んだが、それらには本書に現れるキーワードやコンセプトが使われていることもわかった。
ただ、本書のキャッチ―なキーワード「動きすぎてはいけない」が、我々の現実の日常において、「最近動きすぎているから、少しおとなしくしよう」という文脈につながるものなのか。。。残念ながら、これはよくわからなかった。
(2020年12月了)
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アラン・バディウはドゥルーズの思想に潜在的な全体性の肯定を見いだし、そこにファシズムの危険性が伏在していると批判しました。著者はこうしたドゥルーズ像に抗して、「接続する」ドゥルーズと対置される「切断する」ドゥルーズ像をえがき出し、とくにそれが存在論においてドゥルーズ以後のメイヤスーやマラブーといった哲学者たちの思想とのつながりが見られることを明らかにしています。
前半では、ヒュームやベルクソン、ニーチェといった哲学者たちをドゥルーズがどのように読み解いたのかを明らかにしています。とくにヒュームをめぐる議論では、カントの超越論哲学からヒュームへと引き返すことで一元化に抗する個体化の原理の意義を明らかにするとともに、超越論的な条件のそのまた条件へと遡行するメイヤスーの思想と対比することで、世界を全体性としてではなく複数的な外部性としてえがき出すドゥルーズの思想の存在論としての意義を明らかにしています。またベルクソン論では、生気論的な全体論を解体するドゥルーズの議論を検討するとともに、ガタリの「機械」をめぐる議論とラカンの関係について比較的くわしい検討をおこなって、否定神学的な思考を克服するドゥルーズ=ガタリの位置を明確にしています。
後半は、『差異と反復』、『意味の論理学』、『感覚の論理』と『マゾッホ紹介』などの著作について検討をおこない、ドゥルーズの存在論の諸相が論じられます。
とくに前半の議論は非常に明瞭で、ドゥルーズの哲学についてクリアな見通しを得ることができたように思います。
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「動きすぎていけない」生成変化の論理。インターネットの海と接続過剰の中、惑溺する私たちは、しかし「非意味的」に切断されうる。歴史的に築かれてきた現代の「状況」の中で、如何に他者との共立を実験しうるのか。ハイデガーらの否定神学に回収されし尽くされることの無い複数性を肯定する論で、とても面白かった。
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この本の文庫をツイッターで見かけて図書館を探したら単行本があってなんとなく借りてみた。本とは出会うべき時に出会うな。以前アンチ・オイディプスを読んだ時はわからないなりにわかったような気になっていたが(分かってもいないのにわかったような気になれるのは自分の長所ナンです。)、この本と突き合わせて読んだらもっとわかるんじゃないかと思った。
それと俺は意外とジル・ドゥルーズさんを読んでいたんだな。ベルクソンさんとスピノザさんニーチェさん関連を読んでいて、ヒュームさんとライプニッツさん関連を読んでなかった。そういう兼ね合いだったのだろう。今ならそっちも読めるのかも知れない。あと…千のプラトーか?いや、最終章のダニが気になるな。ユクスキュルか…
まぁ〜先のことはわかんないけどね。
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切断と接続、という対立項を提示し、切断性により重心を寄せつつその間に留まることで、ドゥルーズの思考を包括してみせた本。すばらしい仕事。
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同著者の『現代思想入門』に比べてやけに難しいなと思ったが、、、よく読んだら博士論文の内容を改訂したものだった。そりゃむずいわ。
しかし、ドゥルーズに興味を持って読み始めたが、読んでいくうちにラカンに興味を持ってきてしまった。
ガタリはラカンにたくさん影響を受けているようなので、アンチオイディプスを読む上ではラカンはかかせない。
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檜垣さんの「ドゥルーズ―解けない問いを生きる 」が、面白かったので、勢いでこちらも読んでみました。
檜垣さんの本は、ベルクソンの後継者として、何か時間の中で継続しつつ、生成し、差異を生み出していくというイメージでドゥルーズを読んでいた。
このドゥルーズ像は、これまで私がわからないなりに読んできたドゥルーズとは結構違うイメージで驚いた。私は何を読んできたのかな?これまで読んだのが、どっちかというとドゥルーズ=ガタリだったからなのかな?など、考え込んでしまった。
で、こちらは、私のこれまでのドゥルーズ理解との共通性が多い気がした。つまり、ドゥルーズ=ガタリのリゾームとか、機械とか、器官なき身体とか、そういう部分がしっかりと論じられている。で、そちらだけでなく、檜垣さん的な時間の中での生成という側面とそれが対比、統合されている感じかな?
それが、ドゥルーズの多くの主著の解釈を読み解きながら、議論が進められつつ、さらにはドゥルーズから現代的な意味を生成していくような感じでスリリングであった。
とは言っても、読み進めていくと議論はだんだん難しくなって、何を言っているのかわからなくなる。
修行が足らんなと思い、自分の理解度に応じて、評価は3つにしてみた。この本自体の評価ではない。