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紙の本
「キャラ化」という魅力的なキーワード
2007/09/25 19:28
4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:FAT - この投稿者のレビュー一覧を見る
この書評のタイトルは、本書のあとがきからの引用である。この台詞の直後で、著者は次のように書いている。
このキーワードは今後ますます、その魅力と説得力とを増していくはずだ。(本書、P182)
本書における、社会現象をキャラ化で説明する論旨展開自体には、実はそれ程目新しい議論がある訳ではない。しかし、このキーワードは、混乱した各種の社会現象を「統一的に」説明する説明概念として、デュルケームの提唱した「アノミー」と並ぶ程に協力なものである気がする。ある意味では、その力が強力するぎるので、その説明力が疑わしくなる程である。
評者自身は、この「キャラ化」ということを規範的には受け入れがたいので、心情的には、実証的研究プログラムとしての「キャラ化」を受け入れることに、若干抵抗感はある。
しかし、この「キャラ化」という概念と、他の議論の分野で使用されている概念、例えば、人類学における譲渡不可能性:inalienability、集団分極化現象、カール・シュミットの「民衆の喝采」などなど、対概念からよりマクロな現象を表すものとの関連性が、本書を読み進める過程で走馬燈にごとく走り去っていった。また、付箋とメモ書きと伴走する形で、本書を一気に読み終えてしまったことからすれば、やはり、この概念は、非常に「魅力的」なのだろう。
とすれば、この「キャラ化」が如何に咀嚼されて、あらたな社会科学を形成させることになるのかという点に興味がわく。まずは、経験価値との関係で「経営学」が、新たな価値論の源泉として「経済学」あたりへの導入というのが待たれるところだろう。
紙の本
わかったような,わからないような,現代社会の分析
2008/11/14 22:08
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本人の 8 割がキャラクター商品をもっているという.「むひょキャラ」とよばれるキャラクターは (能面のように) 「無表情なため,かえって,こどもたちは自分のほうで勝手にキャラクターの表情を解釈し,自らの感情を様々に投影することができる」という.人間の「キャラ」についても「現実の「私」とは似て非なる「キャラとしての私」」が他人によってあたえられるという.小泉元首相や東国原知事のような政治家やホリエモンについても「キャラ」によって解釈しようとしている.
いろいろな社会現象が「キャラ」によって解釈されているが,それがただしいのかどうかはよくわからない.基本的には日本の現象としてとらえているようだが,キティのような日本のキャラが世界ではやっていることをみても,日本に特異なことではなさそうだ.外部から「キャラ」をあたえられるのはディベートのやりかたにも似ている.現代社会をよみとくヒントはあたえているとおもうが,結局,この本を読んでも,わかったような,わからないようなでおわってしまう.
紙の本
「キャラが濃い」「キャラがかぶる」など用法も広がっているこの言葉が示す社会。要するに情報世界ばかりが巨大化することによって、現実離れして歩き出した社会を象徴するものが「キャラ」、ということになるだろうか。鋭い指摘もあるが、著者はこれを肯定するのか、否定するのか。その辺がはがゆい。
2007/10/05 09:53
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「キャラが立ってる」とにやつく人と、その人に「キャラって何?」と聞いている人とが政治のトップの座を争っているという真っ最中に発売されたこの本、時宜を得た発売、といえば言えるかもしれない。著者はバンダイの「キャラクター研究所」所長。へえ、そんな研究所あったのか。どんな研究をしてるのだろう、と言う興味もあって読んでみた。
研究所の調べたデータなども使用し、鋭い指摘も結構あるがまだまだ雑な「推論」も目立つ。「日本人とキャラクターは長い歴史の中で切っても切れない蜜月関係を築いてきた、そして、その関係は日々、ますますその濃度を増しているともいえる。(第二章p62)」というけれど、「第一章 キャラクターと日本人の精神史」で記載されたのは太平洋戦争後の事例ばかりである。数十年で「長い歴史」というのは「そこまで時間感覚までも変化しているのか」と、時代に取り残された気分になった。おかめ、ひょっとこや福助さんなどのもっと古いキャラクターや、日本以外のことにももう少し触れたほうが説得力があると思うのだが。
「現実生活においても、「生身の私」と「キャラとしての私」のヒエラルキー逆転が起こるかもしれない。(p174)」と著者は予兆して終わる。肯定も否定もしない。少々はがゆい。著者は情報提供に留まり、それ以上はいわない、ということだろうか。まさに著者が書いている「データベース型の消費形態」=断片としての情報だけをランダムに消費する(p141)に向けて書かれた「情報提供のみ」の一冊になっているようだった。
「キャラ」などとは言わなかったけれど、昔から「レッテル貼る」とかいろいろな言い方で人間は「言葉で定義することで理解する」作業をしてきたはずである。言葉で切り取られた一面として単純化しなければ理解の一歩が進まないのも現実である。言葉で切り取り、「キャラ化」させたり「レッテル」を貼ったりして理解しても、それはある限定をしたものであり、現物は切り取れない様々な様相を持つものであること。それを分かった上で(悪い言葉かもしれないが)「使い分けて」現実世界を生きていく。それが大人ってもんじゃないだろうか。それができずに「キャラ化」の世界に捕まってしまう「子供状態」からどうしたら「大人」になれるのか。いや、もしかしたらそんな「大人」にならなくてもよいのか。そのあたりまで議論して欲しかった。
現実世界との接触が減り、現実から切り取られたような「キャラ化」世界を選ぶのは自由だ。しかし、たくさんは処理したり受け入れたりできなくても「地に足のついた」、「暑さにおろおろし、人の冷たさ、温かさにじたばたする」生き方でもいいじゃないですか。ああ、こんなことを言う私はどんなキャラに分類されるのだろう。そんな風に考えてしまうのも、すでに「キャラ化」世界に絡みつかれているらしい。。。。
読んでいる時もそうだったが、書評を書いたら「キャラ」がたくさんならび、文章全体がきゃらきゃらしてなんとも疲れてしまった。こういう影響もなんだか怖い。