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投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、「羞恥心の現代史」という副題に興味を覚えて手にした。硬派の本ばかり選択して読んできた私だが、女性におけるパンツに対する羞恥心を取り上げた本書を選ぶとは、随分軟派な本を選んだものだと後悔しながら読み進んだ。しかし、読み進むの従って、著者の鋭い視点と調査の深さに感銘し、最後には、拍手を贈りたい気分になった。
20世紀初頭まで、我が国の女性は、下着を着ける習慣が無かった。それが下着を着けるようになったのが通説では、「白木屋ズロース事件」とされている。「白木屋ズロース事件」とは、1932年12月16日白木屋百貨店の火災において、多くの女店員が、逃げる際に、下着を着けていなかった為に、裾が風に靡いて陰部が野次馬に見られる事を防ごうと、裾を手で押さえた為に、命綱を手放し墜落死したとされる事件である。だから、婦女子は、下着を着けようと啓蒙され、以後下着の普及が増進されたというものである。著者は、まず、この真相から明らかにする。多くの小説や読み物を調査する事により、当時の女性が陰部を見られる事に、そんなに羞恥心を抱いていない事を明らかにする。では、何時頃から我が国の女性はパンツを履き始めたのだろうか? それは、洋装が普及しはじめた頃と考えている。洋装の普及と共にパンツの普及も始った。しかし、現代我々がパンティと呼ぶ代物が普及したのは、1950年代後半としている。それまでは、ズロースと呼ぶべき代物であった。また、パンツに対する羞恥心、所謂「パンチラ」という感情は、女性には芽生えてなかったという。陰部を見られないためのパンツであり、それを見られても羞恥心は起こっていないのある。それを、数々の小説の中の心理を通して明らかにしていく。パンツに対する羞恥心は、パンツが所謂玄人さんから普及している、あるいは、情事、色事の際の道具として普及していった事に端を発していると分析している。当時の女性の心理として、「たしかに娼婦っぽいが、自分もああゆうのをこっそりはいてみたい。なんだか、今までの自分とはちがう女に成れそうな気がする」。しかし、「世間は、それらのパンティを、もっぱら性的にはやしたてている。娼婦めいている、よろめきにふさわしい、などと。だが、自分は娼婦になりたいわけじゃない。男をそそる小道具だなどと言われても、こまる」。こういう心情が、女性がパンティを隠す深層心理と読んでいる。また、上野千鶴子という人物の面白い女性評を載せている。「女は、しかし、男たちの知らないところで、自分自身のボディにもっとナルシスティックの固着している……観客のいないスカートの下の劇場で、女だけの王国が成立する……この特権的なナルシズムについて知らなければ、女の下着についての謎は解けない」。
1950年代後半、これを「パンチラ」元年と位置付けている。それに大きく影響したのが、マリリン・モンローの「七年目の浮気」であったと言っている。それまで潜在化していた欲望が顕在化したと。
「パンチラ」に女が羞恥し、男が歓喜するという状況は、ある種特殊な文化的状況下で起こる事であって、決して普遍的な現象で無いことを著者は強調している。それを1980年代の中国で実感している。1980年代の中国女性は、スカートで自転車に乗り、堂々とパンツを見せて走っていた事を目撃しているのである。
著者は、10数年の研究の成果を纏め本書を書いており、女性の羞恥の歴史を明確に理解したものの、はやり、パンティが見えれば歓喜するという心は変わらなかったらしい。歴史を知っても、その魔法は解けなかったのある。世の大部分の男性がそうであるよう…。
女性の羞恥心の変遷を、「パンチラ」をキイワードに読み解く真面目な好事(こうず)書
2002/11/22 11:08
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投稿者:pipi姫 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者はまず、有名な1932年の白木屋デパートの火事を取り上げ、この事件で女性がパンツ(当時はズロースと言った)を穿くようになったという俗説を嘘だと論破している。この俗説とは、6,7階から救助綱にすがって地上に降りようとした女店員たちが綱から手を離して墜落死したのは、和服姿の彼女らが裾の乱れを気にして前を押さえたからだというもの。和服の下にズロースさえ穿いていれば、彼女たちは野次馬に下から陰部を覗き込まれる羞恥を感じず、したがって綱から手を離すようなこともなく命が助かったに違いない。これを教訓とし、これ以後、ズロースが瞬く間に流行したという。
この、有名な白木屋ズロース流行説が、白木屋専務のでっち上げであったと、多くの資料を駆使して井上氏は論証する。
そして、当時の女性には、陰部を覗かれて恥ずかしがるような感性がなかったことを立証する。さまざまな事象をそれはもう次から次へと、当時の回想録、小説、新聞、雑誌を総動員して列挙していくのである。
昔の女は慎ましく、現代っ子はあけすけで性的にも解放されているという従来の見方は間違っている、と女性の心性、とりわけ羞恥心に分け入った研究はとてもおもしろい。著者の唱える「1950年代パンチラ革命説」は、膨大な量の資料を駆使して「実証」されていく。そこにおいて引用される出典の多くが小説である。小説を史料として扱うことに疑問が湧くが、井上氏は手堅くそれに対する反論も用意している。
だが、パンチラを恥ずかしがる心性と、それを嬉しがる心性、いわばパンツの神秘力の謎が解けた、と言ってご本人はすっきりさわやかになっているようだが、どうもいまいち霧が晴れない気分が残る。
なぜだろう。
パンチラが嬉しいという正直者の井上章一にシンパシーを感じないからだろうか??
ほんまに男の人って、スカートからパンツがチラリと見えて、嬉しいのかねぇ。
羞恥心の歴史に着目した著者の慧眼には脱帽するし、おもしろおかしく読みやすい本ではあるが、もっと短くまとめられるはずなので、★は4つ。
学問的気分とエロチックな気分が同時に味わえる、独創的な調査研究
2004/10/11 10:54
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投稿者:萬寿生 - この投稿者のレビュー一覧を見る
事象Aと事象Bが在る。この事象間または各事象の変化の間に、相関関係が在るとする。この時、Aが原因でBが結果か、逆に、Bが原因でAが結果か、を如何にして判断するか。Aが原因でBが結果であるということが、通説または常識であるとき、Bが原因でAが結果であることを、如何にして証明するか。この本はそういう本である。何故女性はパンチラを恥ずかしがり、男はそれを嬉しがりときめくのか。いつからそうなったのか。恥ずかしいから隠すのか、隠すから恥ずかしいのか。
和装の時代は、パンツは無かった。なにかの拍子で裾が捲れたら、もろに陰部が見えることもあった。パンツで隠すことができれば、従来の恥ずかしいところは見られず、パンツ自体を見られることは気にならない。それが何時からどのようにして、恥ずかしくなったのか。
白木屋デパートの火事による女子店員の墜落事故から、日本女性のパンツ着用が普及した。当時の新聞、雑誌の記事を、丹念に渉猟分析し、この神話をくつがえすことから始まり、各時代の小説に表現された事項をかき集め、など、従来の学問的方法とは異なるやりかたで、現代歴史を検証している。
学問的気分とエロチックな気分が同時に味わえる。独n的な調査研究だろうが、学問的な部分もエロチックな面も、何となく物足りない感じではある。パンチラではテーマが軽すぎるか。ビニ本、裏本の研究をしている東大の先生もいるはずだが。
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内容:パンツと羞恥心の歴史と言えば聞こえはいいが、ようするに「1950年台に、今まで見えても良かったパンチラが恥ずかしいものになった」、これだけを言うために200ページも本を書いている。
感想:ま、なんとなくタイトルに引かれて借りてみたが、なんていうか漢字ドリルの採点やってるみたいな本だった。問いもないし、答えは上記のあれだけで、ただ文献をひっくり返しただけ。ほらこの時代の婆ちゃんは陰部見られても恥ずかしくないってこの小説とあの雑誌にも書いてあるじゃん、これと同じようなことの繰り返し。ネタがネタだけに楽しみにしていたのに、これはヒドイ。
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「パンツが見えるとなぜそんなにエッチな気分になるのか」という謎に挑んだ意欲作。白木屋事件の真相も解明されます。
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1910年代〜現代までの、女性の下着の文化風俗史。「時代が下るにつれ、女性は大胆で開放的、性的に放埒になった」という、あの俗耳になじんだ女性史を覆す洞見に満ちている。
1950年代以降、女性用下着はズロース(股引、猿股のような下着。詳しくはググってくれ)に代わって、現在のようなパンティが普及した。が、日本では、このカラー展開したオシャレなパンティが娼婦用、浮気用と見なされる度合いが高かったという。下着に「娼婦用」「浮気用」いった自閉的な幻想を抱くようになった女性が、それを見えるてしまうこと(パンチラ)を恥ずかしがる心性が、そこで初めて生まれた。とりもなおさず、このとき初めて、男性にもパンチラを喜ぶ心性が生まれたというわけだ。
まとめると、
①女自身が「派手で、娼婦的な”いけない”パンツをはいている」という過剰なナルシシズムを抱き、
②パンツが見えないようにする立ち振る舞い、脚さばきを編み出した。
③そうやって隠されたときに初めて、男性の「見たい」という好奇心が刺激され、
④「パンチラ」が性的な意味を帯びるようになったと。
こういう「順序の倒錯」を暴く手法は、鷲田清一の『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫、1996)に似ている。井上章一さんは3冊目だけど、専門外の分野に徒手空拳、果敢に挑んでいく姿が素敵。
パンチラがありがたがられる今となっては信じがたいが、その昔の女性はパンツも猿股もはいてなかったし、着物が風にあおられて「モロ見え」してしまっても、あんがい平然としていたわけなのだ。「パンチラが多分に時代・文脈依存的だ」ということを暴きだす、井上氏の手並みの確かさに感嘆した次第。
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白木屋ズロース伝説」は眉唾の風評であつた!
何といふショッキングな(私にとつて)主張でせうか。
念のために、「白木屋ズロース伝説」とは何かを少しここで復習しませう。
1932(昭和7)年12月のことであります。この年は谷啓が生まれた年ですが、話に関係ありません。
東京日本橋の「白木屋百貨店」で火事が発生しました。大火災です。
発生箇所の4階では、店員たちがカーテンや着物の帯などで即席のロープを拵へ、それを伝つて逃げやうとしてゐました。しかし当時の女店員は着物を着てゐます。和装であります。下着を穿いてゐないのが普通なので、ロープを伝つて降りたら、下から丸見えになつてしまふ。そんなはしたない姿を公衆の面前に晒せる訳がありませぬ。と、逃げるのを躊躇してしまひ、結果多くの女店員が若い命を落したのであります。
この大火をきつかけにして、世の女性たちは下着(ズロース)を穿くやうになつたのである...
私はこの話を完全に事実と思ひこんでゐました。いろいろな文献にも紹介されてゐます(なぜか「コラム」「こぼれ話」みたいな扱ひが多い)。ちなみに白木屋百貨店は後の東急百貨店ですね。なほ、白木金属工業(現・シロキ工業)は白木屋百貨店の子会社として発足した会社なので、今でも東急グループなのであります。これも関係ない話。
ところが本書の著者・井上章一氏によりますと、この大火によつて女性がズロースを穿くやうになつたといふのは嘘であるとの指摘であります。興味を抱いた私は早速購買、通読したのであります。まあ若干の助平心も手伝つたことも否定はしませんが。
要するに、おびただしい数の文献に当り、あるいは証言を集め、羞恥心に関る変遷を概観しながら白木屋伝説を否定する一冊と申せませう。その姿勢は一本気といふか、モノマニアックといふか、一種の感動さへ呼ぶものであります。力作に違ひありません。
...それでも私は、「白木屋ズロース伝説」は事実であつて欲しかつたな...
http://genjigawakusin.blog10.fc2.com/blog-entry-46.html
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とにかく奥が深い。
どんな分野であれ、論文や本を書きたいと思っている人は絶対に読むべき本。
この姿勢は必ず参考になる。
なぜ、パンチラが恥ずかしくなったかという歴史なんだけど、学問の奥深さを感じさせてくれる一冊。
★10個でも足りないくらい。
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井上氏は建築史の専門家だそうですが、後書きでこれからは風俗史の専門家と名乗ろうかとのこと。確かに日本の女性がパンツをはく歴史の研究はそれに値する内容でしょう。良くもここまで調べたと思う執念で過去の新聞・雑誌・小説から探査しています。1933年の白木屋の火災まではノンズロで全て丸見えだったが、白木屋火災をきっかけとして日本女性がズロースを穿くようになったという言い伝えは一部が事実だとしても、恥ずかしくて飛び降りることが出来ずに死亡したのは俗説であると否定します。当時の風習から丸見えになることは度々あり、死ぬ危険を前にして決して恥ずかしがっていたわけではないのだそうです。それを繊維会社が宣伝目的で使ったことは事実であり、広まっていったとのことです。白木屋火災で死亡した8人の女性の死因を探求から本は始まります。白木屋以降もパンツがなかなか普及しなかった理由。そしてパンツが局部を隠すようになって安心感で、パンツが見えることを恥ずかっていたわけではないこと、それを恥ずかしいと思い出したのは1950年代になってからだということ。そして男性もパンツが見えることに喜びを見出したのは1950年代までであり、それまではむしろ「丸見えでなくなったことへの淋しさ」を訴える文章が多く見えること。そしてズロースからスキャンティ、そしてパンティの歴史なども詳細に調べています。よくもここまで、と一寸呆れてしまうような迫力です。そしてそのことへの言い訳ともいうべき後書きも面白いです。井上氏は「つくられた桂離宮神話」の研究においても恥ずかしい部分への探究の喜びを追求しているということなのです。
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タイトルと表紙だけ見ると「引く」タイプの本ですが、非常に真面目に「パンツが見えることに対する女性たちの羞恥心」がいつ頃、どのように作られていったのかについて述べられています。著者が(多少のスケベ心は当然あるにしろ)真剣にこのテーマに取り組んでいるということは、本書で取り上げられている参考文献や新聞記事などが非常に多いことからも分かります。
女性が下着を日常的に身につけるようになったのは洋装が普及してから、という漠然とした知識はありましたが、その辺は服飾史とかを繙けば簡単に調べられるのでしょう。一方で、羞恥心などといった人の「感覚」に関する歴史は、調べようと思ってもなかなか難しいと思います。その点、注目されにくい(と言うか、特にこのテーマについては注目しても表に出そうと思わない人が恐らく大多数)と思われるテーマを引き合いに出して一冊の本にした著者の気力に脱帽です。
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男が覗くから女が隠すのか、女が隠すから男が覗くのか? 「なぜ男はスカートの中を見ることに、これほど興奮するのだろうか」という下世話な謎は、「つい数十年前まで、和装の女性はパンツすら履いていなかったのに」(つまり、覗いたところにパンツがあるというのは、男にとって残念でありこそすれ、喜ぶことではなかったはずなのに)という本格的な疑問へと展開される。井上章一は、当時の京大生にとっては必読書だったものだが、おそらく『美人論』以来、20年振りくらいに読んだ。
有名な白木屋ズロース伝説(白木屋の火事で、和服を着ていた女性店員たちが、陰部が野次馬に晒されまいとするあまり、命綱を手放して転落死した)を断定的に否定するショッキングな幕開けに始まる本書は、まさに「知の探求は最高の娯楽」を地で行く面白さで、井上章一は本書によって、この問題における第一人者(一人中)としての立場を確立したと言える。
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昔、上野千鶴子さんの「スカートの下の劇場」という本を読んだ記憶はあるのですが、内容はすっかり忘れていますw。1955年生まれの井上章一さんの「パンツが見える。」(羞恥心の現代史)、2002.5発行です。パンツが見えて喜ぶのは男性で、見られて恥じらうのは女性。でも50年ほど昔は、パンツはそれほど普及してなくて、チラリと見えるのはパンツではなかったと。百貨店の火災事故から、便所に男女の区別のない時代、女性の立ちション、7年目の浮気、見せる下着・・・、パンツをめぐる感性の興亡、著者10年の思索の結実だそうです!
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「パンツ」をめぐる女性の羞恥心と男の感性の興亡を考証する著者渾身の一作だ。なぜ「パンチラ」に男は萌えるのか? またそれはいつからそうなったのか? 女性は女性で、いつから下着の露出を気にするようになったのか?
いいねぇ。このテーマにここまで真面目に取り組むこと自体が素晴らしい。
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●昔、女性はパンツを履いていなかった。それゆえパンツ(陰部)を覗かれることに対しての羞恥心もなかった。パンツをめぐる羞恥心や感性の変遷を考察した本。
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0133
2019/08/22読了
ずーーーっとパンツだった。面白かった。
文明開化してもパンツ(ズロース)を履くことが少なかったというのは驚き。職業婦人たちは履いていた、というがそれが性的な仕事の人がよく履いていたとあるのが面白い。パンツの意味がまるで今と違う。
戦後になってもなかなか普及していかなかったというのが驚き。若い人はともかく年配の方は全然履かない。
パンティーになってもやっぱり性的な仕事の人たちから始まって一般に広まっていくというのが面白いなあ。
男性もパンツを目当てに見るのがここ数十年のことというのが驚き。
パンツではなく局部だったり膝とか腿をみているとは。
パンツを履いてれば見えても恥ずかしくないというのは男女ともに共通の考え方だったとは今では考えられない。
トイレが男性共通の時代があったのも驚いたなあ。
新しいパンツが欲しくなった。