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訳もわからず、政治談議などはすべて飛ばすという荒技で読みとおした。
よく分からないがものすごい衝撃を受け、これこそ生涯の一冊だと心に決めてしまった。
多分、この本の中に世界があると感じたんだと思う。「mondo libro」だ。
勢いに乗って、ドイツ語版まで買ってしまった。
しかし最初の一文を読んで、(私にとっては)入り組んだシンタックスに恐れ入ってしまい、それっきり読んでない。もうちょっと読まないと元が取れないなあ。
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村上春樹のノルウェイの森にでてきたので、購入したと記憶している。
西洋の宗教観、歴史観等を理解していないためか、登場人物の台詞にまるでついていけなかった。(二年前)
ので評価はいまいちつけがたい。
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2010/11/20
ドイツの文豪、トーマス・マンの傑作。
長い間をおいて、ようやく上巻を読了した。
トーマス・マンは1929年にノーベル文学賞を受賞している。
本作は、スイス高原にあるサナトリウムにおける
平凡無垢な青年カストルプの療養生活における成長と発見の物語。
セテムブリーニの皮肉な言い回しに、
あきれ半分、時々ニヤリとさせられる。
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教養小説、ということになっているが、なんとなくそんな風には読まなかった(読めなかった?)ちょっとまた再読してみたい本の一つである。
英語では「Magic Mountain」ということを聞いてなんか「魔の山」と雰囲気違うなあと思った記憶がある。
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ハンブルクでの就職を控えた「文化人」、厨二病的で高慢ちきな性質をいくぶん強く持った、いわゆる多感な、しかし純朴で平凡な青年、ハンス・カストルプ。
彼はひょんなことから、「精神と時の部屋」(ドラゴンボール的なそれではなくて、文字通りの。)ともいえるスイスの高原にあるサナトリウムで、地上と隔離されつつもさまざまな人物や自然と対峙しながら精神の旅を始めることとなった。
時間を徹底的に分解し無意味化していく高原の気候とサナトリウムの習慣、ひっそりと患者の入れ替わりが進行する細胞体のような病室、美しい自然のなかで、時は十年一日のごとく過ぎ去り、ハンス・カストルプも次第に順応し、魔の山に陶酔していく。
(「文化人」にとっては理想的な)まどろみのような自由のなかで、青年は自らの好奇心によって、「理性と神」「死と生」「精神と自然」「個と普遍」「概念と力」「合理と非合理」「自由と混沌」「進歩とニヒリズム」「生の意思と自己否定」といった深刻な分裂が、精神の理想郷を目指すそれぞれの欲動のなかで「ごちゃまぜ」となっている姿を目の当たりにする。
精神の逍遥は、しかしながら、自然の一部たる肉体の活動、生命のはたらきによらなければそもそも発生しない。ある日雪山で自然と対峙し、死に直面したハンス・カストルプは、厨二病的な「死への親愛」を克服し、新たな善意と人間愛の姿をとらえるのであった――
こうしてみると多分に「教養小説」ではあるけれども、この物語の楽しみは、白紙状態の自由で危うい青年の心をめぐってさまざまな形態で行なわれる「二つの流れ」のガチバトルだと思う。
いずれも普遍的な善と高貴さへの収束の希求から発生した流れであるのに、なぜ両者は違ってくるのか、どこから同じなのか、なぜ対立しなければならないのか、人間的とは何か。そして、そんな問いかけなどお構いなくやってくる不条理と、魔術的な誘い。自然と、生と死と、時間。ミクロとマクロ、有限と無限。
モラトリアムも終わりが見えかけている時期に、そうしたことをのんびりと考えられるような機会に巡り会うことができ、今までシコシコと続けてきた「お勉強」も捨てたものではないなと思えるような小説だった。つぎにこれを読むのは何年後になるだろう?
個人的にはセテムブリーニさんのキャラが憎めない感じで好きだったなぁ。
長いけど、暇な人は読んでみるといいと思う。世界史、思想史、音楽に興味がある人は特に面白いはず。
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世界史にも出てくる名著。
とにかく長くて、上巻だけでも読むのに苦労しました。
ですが、内容は面白いです。
がんばって下巻も読んでみます。
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上下巻合わせて1200ページ余りながら、不思議な物語と精神論・宗教論が混ざり合い、非常に難解な物語でした。
読み進めることが、まさにタイトルのごとく「魔の山」を登ることのようでした。。。
と冗談はさておき、
本書は、主人公ハンス・カストルプの結核を中心に、病気という面から「生と死」の考察と、サナトリウムという療養所のある平地と隔離された街を「時間」の考察という、2つの大きな主題から成り立ちます。
主人公のハンス・カストルプは、優柔不断というか、自己主張の少ない青年で、従兄弟のヨーアヒムを見舞うために、3週間の予定でサナトリウムを訪れます。しかし、サナトリウムで結核と診断され、長期療養を言い渡されるも、主人公のハンスはそれほど抵抗なく、療養を受け入れます。そして、時間的に孤立した療養所に留まることになるのです。
病気が人生観を変えたという話は、聞いたことがあると思います。病気は生と死の中間にあるものとも言えますが、病気は生の方向を良くも悪くも修正できる力をもつものなのかもしれません。
もう一つの主題である「時間」についてですが、この時間の魔術は、私達の時代でも容易に想像できるものなのではないでしょうか。普段の社会生活の中でも、時代の潮流に乗れていないと感じたり、世のトレンドとは無縁なコミュニティしか持ち合わせていなかったりと。。。
ある種、ゲーテとは異なる教養小説。
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山上にあるサナトリウムを訪れた青年ハンス・カストルプが自らも結核を患っていることが発覚し、3週間の滞在予定のはずが魔の山にて長い時を過ごす教養小説…なのだが、上巻を読む限りでは主人公は小説内で流れていく時間そのものではと思えてしまう。時間と空間というのは世界の特性ではなく人間の意識の特性によるものであり、時間が持つ主観的な相対性に対して自覚的な言及が興味深い。病院内の過ぎたようで遅々として進まぬ退屈な時間と停滞しているように見えて瞬く間に過ぎ行く時間、そうした対比が小説内の構造として表現されているのだ。
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読み終わったというか…
ぶあっつい文庫本の半分読み終わっても、まだ物語が始まってから24時間経ってない、しかも要約すると
ご飯食べてお散歩して寝てた。
…という。
いや、内容は濃いんですけど。
考察があっちこっち行き過ぎて
ついて行けず…
話の続きは?が気になって
断念しました…
ううぅ…最後まで読みたかった…
2人のお祖父ちゃんの喪服の話が面白かった。
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だいたい、ハンスの行動は最初から変だった。
普通の健康な人間にとって、病や病者とは通常禍々しくて遠ざけるべきものであって、誰も病者の群れの中に三週間も身を置こうなどとは考えないだろう。
そんなことを考えるのは、早すぎた父母の死(二人とも【彼の五歳ど七歳のあいだに死んだ】)から類推して、自らの体内にもすでに死が育ちつつあるのではないかとの不安を抱いている者だけになし得ることではないだろうか?/
【音楽は時間の流れを、きわめて特殊ないきいきとした分割法によって目ざませ、精神化し、貴重なものにします。音楽は時間を目ざまし、私たちが時間をきわめて繊細に享受するように目ざましてくれます‥‥その点で音楽は倫理的です。芸術は目ざますかぎり倫理的です。
しかし、その反対の場合にはどうでしょう?音楽が私たちを麻痺させ、眠りこませ、私たちの行動と進歩とを阻害するとしましたら?】/
前段はロシア・フォルマリズム※1のシクロフスキーの文章を思い出させる。
【生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法であり、そして知覚過程が芸術そのものの目的であるからには、その過程をできるかぎり長びかせねばならぬがゆえに、知覚の困難さと、時間的な長さとを増大する難解な形式の方法が芸術の方法でありー以下略ー】(ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』)/
【イメージの目的は、その意味をわれわれによりよく理解させることではなくて、対象の独得な知覚を創造すること、つまり、対象を《知ること》ではなくして、《見ること》を創造することなのである。】(同上)/
※1:ロシア・フォルマリズムは、1910年代半ばから1930年代にかけてのロシアの文学運動・文学批評の学派。
日常的言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす「異化」の手法を提唱した。/
トーマス・マンは1875年生まれで、『魔の山』は1924年に書かれており、シクロフスキーが「異化」概念を成立させるべく著した2つの小論、「言葉の復活」と「手法としての芸術」は、それぞれ1914年と17年に発表されているが、当時のマンに、はたしてロシア・フォルマリズムの影響があっただろうか?/
【「(略)あなたは人生の厄介息子です。】/
突然、名前を呼ばれた。/
【ハンス・カストルプは、(略)機会あるごとに不幸な(略)夫人をいくども訪ね、(略)面倒をみてやるようにつとめた。たとえば、粥を食べるときにスプーンを注意ぶかく口へ運んでやり、食物が喉につかえると、吸呑みから水を飲ませ、ベッドで寝がえりをするのにも手をかしてやった。(略)ハンス・カストルプは、食堂へ行く途中や散歩からの戻りに、ヨーアヒムに(略)一足さきに行ってもらい、彼女の部屋を訪ねて、世話をしてや���、ーー世話をしながら胸がひろがるような幸福感をおぼえたが、】/
認知症の母を介護していた頃が思い出された。/
◯ 後部座席の ドアを開ければ 立ちあがる 母と暮らした 黄金の日々/
◯ なにひとつ まともに出来ぬ 者なれど 老母は吾を 頼りていたり/
◯ 生きるには あまりに弱き 者なれど 老いたる母の 世話に生かさる/
【墓地は形が不規則で、初め南に長方形にのび、それから左右へ方形にひろがっていた。いくども拡張する必要にせまられて、隣接する田畑を編入したことが一見してわかった。(略)石碑も十字架も質素なもので、あまり費用のかかったものではなかった。碑銘についていうと、(略)さまざまな名前があったが、数字はどれも同じように若くて、行年(ぎょうねん)はだいたいにきわめて数が若く、誕生から死亡までの年数はどれもほぼ二十年、もしくは、それをあまりこえていなかった。】/
増殖する新しい墓のイメージが、ロシアの墓地を呼び出した。/
◯プーチン発言:
《ロシアのプーチン大統領は25日、「特別軍事作戦」と称するウクライナ侵攻に出征した兵士の母親代表者らと会合し「誰もがいずれは死ぬ。交通事故死も3万人だ」と述べた。
プーチン氏は「近親者、とりわけ息子が死ぬのは大きな悲劇だ。だが交通事故、あるいはアルコールが原因でそれぞれ年間3万人ほどが死ぬ。われわれは神の下にある。大切なのはどう生きるかだ」と出席者に説いた。》(2022年11月27日、産経新聞)/
どうやら、プーチン・ロシアにおいては、生き方と同様死に方までをも国家が決めているらしい。
犯罪者は国のために死すべきであり、少数民族も、貧者も同様である。
これは、プーチン式「生政治」※2であり、いわば「死政治」とでもいうべきものではないだろうか?
そして、それは明らかに全体主義の一つの貌である。/
※2:フーコーの「生政治」:
《私が「生政治」と呼ぶのは、人口として構成された生きる人々の総体に固有の諸現象、すなわち健康、衛生、出生率、寿命、人種といった諸現象によって統治実践に対し提起される諸問題を、十八世紀以来合理化しようと試みてきたやり方のことである。》(ミシェル・フーコー『生政治の誕生』)/
【「道徳?(略)ソウネ、ワタシタチハ考エルノヨ、ワタシタチハ道徳ヲ徳ノナカニ、ツマリ理性、秩序、良風、誠実ナドノナカニモトメルベキデハナクテ、ムシロ、ソノ反対ノモノ、ツマリ罪ノナカニモトメルベキダト。危険ナモノノナカニ身ヲ投ゲコミ、危険ナモノ、ワタシタチヲ破滅サセルモノノナカヘ飛ビコムコトニヨッテネ。ワタシタチハ、一身ノ安全ヲハカルヨリモ、一身ヲ破滅サセ、損傷サセモスルコトガ、ズット道徳的ナコトダト思エルノヨ。偉大ナ道徳家ハ、有徳ノ士ナドデハナクテ、悪ノ、悪徳ノ冒険家デアッテ、悲惨ノマエニキリスト教的精神カラ跪クコトヲ教エテクレル偉大ナ罪人デアッタトネ。(以下略)」】/
思いがけないタイミングで、マドンナ、ショーシャ夫人の口から核心に触れるような言葉が発せられる。/
訳文は「うさんな」「ハシナイ」などの言葉に見られるように、しば��ばやや古風でしゃちほこばって響く。
これから読まれる方には他の訳の方が読みやすいのではないか?
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上巻は3日、下巻は読み終えるのに1ヶ月半もかかってしまった。
なんと切り口の多い作品。。
まだ完全には消化しきれていない状態でこの文章を書いている。
こういった間口の広い作品は、
フィニッシュをどこに持ってくるかという問題があり、
巻末の解説でも書かれているように、
実は作者自身も明確にはそれを決めずに書き始めて
流れに身を任せたようだが、
個人的には最終章の決闘のシーンが終わった時点で
充分な満足感が得られ、
あとはどう結論をつけても何らかの片はつくだろうと感じたので、
それだけに、このフィニッシュには少々不満が残った。
他の人はどう感じたのか気になったので色々とレビューを読んでみたが、
まあ「時間の扱いが見事な作品」「精神論の教養小説」などと
評する人の多いこと。。
これだけ切り口の多い作品に対して、特に印象に残ったのがそこ?
感性が拙いとしか言いようがない。
そのような中学生の読書感想文レベルの感想にしか消化できないような
内容の薄い作品では決してない。
まず、舞台設定の見事さだろう。
標高1600メートルの山上にある高級療養施設。
抑圧の強い地上の現実世界から隔離されていて、
病気と死がいつも隣り合わせ、建物の周辺は自然に恵まれ、
気候変化が激しく四季に捕われない季節感があるという、
筆力次第で様々な非現実性を創出しやすい舞台。
見事な設定だ。
また、この作品を難解と感じさせる要因として、
第6章のセテムブリーニとナフタの激しい会話のやり合いがある。
精神と自然、病気と死、革命と伝統、自由と秩序。
色々詰め込んでいるが、
メルヴィル「モービィ・ディック」のような、
ただ単に詰め込んだだけで、
その事が全く何の効果も成していない駄作とは違い、
この作品は「詰め込み」が作品と綺麗に調和し、
芳醇な広がりを演出している。
しかし何と言っても、この作品の一番の読ませ所は
各シーンの起承転結のつけ方だろう。
過剰なまでの精神論、政治論、宗教論の応酬、
気まぐれに表情を変える美しい自然の描写、
音楽の与える高揚感、
様々な方法を駆使してクライマックスまで持っていき、
感情が最高潮にかき立てられた所ですぱんとシーンがカットされる。
この切り方が実に見事で、この読後感だけでも
読んで良かったと思わせるものが充分にある。
こういった粒ぞろいの各章を全体として俯瞰したとき、
上記「時間の扱い」「精神論」が作品に与える深みにも
唸らせられるのであって、
この作品を「時間に関する小説」「教養小説」などと単純に
一面的な部分を切り取って断定するのはナンセンスである。
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「ノルウェイの森」でキーとなる物語。サナトリウムに入院している従兄ヨアヒムを、学校出たてのハンス・カストルプが尋ねて、そこで7週間のつもりが7年も過ごすことになる。大学工学部を出たばかりの世間知らずなところがなんともリアル。セテムブリーニが御託を並べるところがウザイが、経済的な後ろ盾が無く困窮している彼と、従兄弟達の恵まれた生活とが第1の対比をなす。下巻に第2の対比がある。たっぷり頁を使ったショーシャ夫人との恋愛沙汰がどうなるのか。閉じた空間に医者、患者ら多彩な登場人物がいて、読んでも読んでも飽きない。
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「このことに連関して、たとえばトーマス・マンの小説「魔の山」では、いま扱っている強制収容所の囚人とやや比喩的に類似した状況にある人々、すなわち結核療養所の入所患者で、同様に退院の期限を知らず、同様に「未来を失って」、すなわち未来の目的に向けられていない存在を送っている人々の心理的な変化が描かれているのである」『夜と霧』フランクル p.174
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これは読むのに苦労したなー…
なぜならば終盤のハンス青年の
ほのかな思いが成就するときに
他の言語でしゃべっているのを表現するために
カタカナ混じりの会話になってるのよ。
平凡な位置青年であるハンスが
いとこの療養に付き合いうために
3週間の期限付きでサナトリウムに
行くことになったけれども…
…がつく通りでお察しです。
それとページ数で。
結局彼も発熱により
サナトリウムから降りられなくなるのです。
平凡な彼は
やがて様々な患者に感化され
心の成長を遂げていきます。
人体に興味を覚えたり
恋というものを覚えたり
そして、それが成就したり。
下巻、すごく気になるのよね…
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「退屈な教養小説」というのが率直な感想である。
「魔の山」と言うと何やらファンタジーな空間を連想する向きが多そうだが、実際には結核療養のための施設…サナトリウムである。
高山の療養施設ながらまるでリゾート施設のような雰囲気で、若くしてここに送られた主人公は特に将来を悲観する事も無く周囲の一癖も二癖もある大人達から色々学ぶ事になる。
まぁ大半は主人公について回るセテムブリーニとかいうオッサンの寓話的警告で、表向きはただ食って散歩して寝ているだけなのに分厚い本の上下巻とかよく書けたものだ。
元々は「大学に入ったら何やら小難しそうな本に挑戦したい」というだけの理由で読んだので内容らしい内容はもうほとんど覚えていない。
この本を読んで何か一つ得た事があるとすれば主人公がやたら気にしている人妻のクラウディア・ショーシャがサルバドール・ダリの妻となったガラのモデルらしいと後に判った事ぐらいだ。