- 予約購入について
-
- 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
- ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
- ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
- 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。
3 件中 1 件~ 3 件を表示 |
「東京者がたり」は良かった
2025/04/01 23:14
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
藤澤清三に関するエッセイを集めた部分と、東京の各地に関するエッセイを集めた「東京者がたり」に分かれている。前者はいつものことなので特に目新しいものはない。後者はなかなか面白かった。東京の地理に詳しい方ならもっと楽しめると思う。
2024/07/19 13:33
投稿元:
748
257P
あらゆるアートはファンアートであるっていう言葉見たことあるんだけど、西村賢太は典型的にそうだよね。私小説以外も書けるであろうに、私小説しか書かないっていう頑なさも自分はあくまでも藤澤清造の枠から出ないみたいな頑なさを感じる。
でも西村賢太の文章の中に小粋とか野暮とかいうワードが出てくるから粋か野暮かは強く意識してるような気がする。
西村 賢太(にしむら けんた)
一九六七年七月一二日、東京都江戸川区生まれ。中卒。二〇〇七年、『暗渠の宿』で第二九回野間文芸新人賞を、二〇一一年、「苦役列車」で第一四四回芥川龍之介賞を受賞。著書に『どうで死ぬ身の一踊り』『二度は行けぬ町の地図』『小銭をかぞえる』『廃疾かかえて』『随筆集 一私小説書きの弁』『人もいない春』『寒灯・腐泥の果実』『西村賢太対話集』『一私小説書きの日乗』『棺に跨がる』『歪んだ忌日』『けがれなき酒のへど 西村賢太自選短篇集』『一私小説書きの日乗 憤怒の章』『薄明鬼語 西村賢太対談集』『随筆集 一私小説書きの独語』『やまいだれの歌』『下手に居丈高』『一私小説書きの日乗 野性の章』『無銭横町』『痴者の食卓』などがある。
藤澤清造追影 (講談社文庫)
by 西村賢太
失恋なのか、本人の告げ口に端を発した対人問題だったのかと思いを巡らせたあげく、つまるところ岡田の死もまた貧困にあったことに結論を得、夜明けに自分の下宿に帰りつき、疲れきった頭で眼前に岡田の亡霊を眺めつつ、その呟きの幻聴を聞きながら、自分の落ちてゆく穴もまた岡田と同じものに違いないが、今はどうすることも出来得ぬ無力感にただ打ちひしがれる──と云うもので、全篇に世の中を恨み、自らを呪う魂の啜り泣きのような叫びと根深い猜疑心が横溢し、鬱屈した精液のすえた匂いが漂ってきそうな、一種異様な雰囲気を持った私小説である。
発表当時、島崎藤村や田山花袋、伊福部隆輝などが称賛し、のちに今東光、佐々木味津三、武田麟太郎などが激賞しているが、一方ではと同郷の友人でもあった横川巴人は〈退屈で到底読み了うせなく其中にと思い貸しなくした〉と云い、また榊山潤の評言を抜き出して並べると、〈いかにも惨めな小説である〉〈その文章も不潔をきわめている〉〈たぶん多くの読者は、この小説を半分も読まずに投げ出すだろう〉〈惨苦と不潔ばかりのこんな人生に、我慢してお附合をする義理はないからである〉〈小説家の才能にも、読者に歓迎される才能と、その反対の才能がある。残念ながら藤沢は、歓迎されない才能を持った、不運な作家のひとりであった〉等と記している。これらはまた、個々の感想としてこの小説の一面を確かに言い当てている。
の友人だった今東光は、もっともそのエピソードを書き残してもいるが、他の知友の回想とも併せて人物的な特徴をあげてみると、それらには毒舌家、律儀、善人、下悪、ぶっきらぼう、面憎い、憎気がない、正義派、正義の熱弁、正義の説教、我儘、性慾研究家、クダ巻き、古風、快男児、好漢、くどい、ねちっこい、ずぼら、能登の江戸っ子、引込んでいてもらいたい男、等々の評言があった。またその特徴の最たる���べらんめえ口調で誰かれなくを罵倒する性癖は、先の巴人によれば父親譲りの向きがあったらしいが、しかし少年時代のはおとなしい、乱暴を働かぬ、成績も秀れた優等生であったと云う。
しかし、万太郎は終生貧困を憎んだり、またそれと格闘することなぞなかったのではないか。浅草生まれの浅草育ちで、袋物を作って商う二代続きのちょっとしたおたなの息子の万太郎と、同じ袋物を作って売るでも、農閑期の能登の、死ぬ程寒いランプの下でそれをやっていた家の子供のとでは、資質に似た点はあっても育った環境は全く違っていた。
足の状態が少し良くなってからは近所の足袋屋や代書屋などで働き、そこで貯めた僅かな金を持ち、明治三十九年、十八歳のときに上京する。元来芝居好きで、地元で興行される小屋芝居をたまさかに見物し、役者に憧れていた は、初め俳優志望であった。
しかし、 澤 と会ったことがないと云う人物が、「『悲惨な末路』という伝説」だの「足の悪いのを売物にしていた」なぞと言ってのけているのに至っては、もはや勘弁ならぬ。表に出ろ、だ。とうてい普通の神経で吐ける言葉とは思われない。それでは兵隊経験や抑留生活を書けば「戦争」を売物にし、挫折を書けば「転向」を売物にしているのか、とバカな私は本気で抗議したくなる。足が悪かったり、学歴もないという人間の無念さは、所詮は同じ境遇の者にしかわからない。
悲惨だが滑、野暮なんだがスタイリスト。そしてかたくななまでの正義感をおのれの貫くべき美学と心得、一歩も引かなかった男。──この 澤 の道行きは、そのまま 澤文学の持ち味そのものである。『根津權現裏』も、よく云われるようなただムヤミに深刻ぶった暗いばかりの小説ではない。世を恨み、自分を呪う作品のテーマにばかり目が行きがちだが、くどく、ねちっこい文体には実は落語的要素もあり、パーツごとにみても〝折ます〟との野暮なくだりには廓噺のベースが感じられるし、〝岡田の兄〟などに至っては方言を巧みに逆手にとり、魯鈍な印象を強調させた上で、時折直感的な辛辣味のある台詞を吐かせることで見事に与太郎の役廻りを演じさせている。そこに「血」と「涙」だけでなく、「笑い」のエレメントが全篇を通じて横たわっているのは確かであり、また独得の形容や言廻しなど地口にも通じる上質のギャグがちりばめられているのだ。これは 澤 の他の殆どの作品にも共通する特色のひとつで、今東光の云う、〝戯作者〟の一面はこうした部分にもあらわれている。
もっとも、もはや私なぞがこうしたことをくだくだ述べる必要もない。これまで不整備であるが故に、特定の作家
の研究者と名乗りながら、どうしてか自分の勤務先だと云う大学名を肩書みたいにして絶対につけ忘れぬ一教職者や一評論家の、恣意的な評価を幸いにもまぬがれてきた 澤文学が、小説、戯曲はもとよりその人となりの一面を知るに不可欠な随筆、回答、書簡、座談などの全てを集めて刊行され、私も含め 一般 の読者のそれぞれにその真価を問い、それぞれの心の文学史への位置づけを直接ゆだね得る機会がようやく到来したのである。
実は以前に一度読み、その社会の底辺で何ひとつとしてみたされるものもなく、惨めな雌伏を余儀なくされている男の、この世の全てに対する呪詛の中、何か一瞬の死に花を咲かせる為だけに今を耐えつつ生きることを願うと云った、自滅の予感を孕んだ内容にそれなりに魅かれていたのを思い出したのであろうが、改めて熟読してみて、これは自分にとって救いの神ではないかと思った。
この時のも初読のも原本の半分以上がカットされた抄録ものだったので、古書店で売価三十五万円の値がついた無削除函付きの完品を借金して手に入れ、三度目で全文にありつき、これはもしや、と云う期待に他の小説、随筆等の掲載誌を集めて読み進むにしたがい、その期待がないものねだりの幻想でないことを知った。心に確かな手応えを感じた。 澤 の言葉を借りて言えば、〝かくも殉情熱烈な人が、かつてはこの土に生きていたのだということを知った時には、余りのうれしさから、どうしようかとさえ思った〟。誇張ではない。
この人の、泥みたような生き恥にまみれながらも、地べたを這いずり前進し、誰が何んと言おうと自分の、自分だけの矜持を自分だけの為に貫こうとする姿、そして、結果的には負け犬になってしまった道行きは、私にこれ以上とない、人生ただ一人の味方を得たとの強い希望を持たせてくれたのである。 澤 と云う人の、元来、人の二倍も三倍も分別をわきまえ、絶対に良識や良俗を踏み外すことの出来ない性質なのに、何かどこかが社会一般のあらゆるものと嚙み合わず、諦めを強いた心への代償として、あえてつきまとうヘマな巡り合わせを逆手にとって生き、書いた、その軌跡がたまらなくうれしかった。
澤 の作品に初めて接したのは十二年前のことである。当時、日雇いの人足仕事で糊口を凌いでいたが、夕方、作業を終えての帰り途には殆ど毎日、神保町か早稲田の古書店街を流していた。そんな折にぶつかったのが、ある郷土文学全集中の一巻である。手にとってみたのはその作家が野垂れ死にしたと云うことを何かで記憶していた為であろう。興味本位で立ち読みし、口絵の写真で初めて、かの異端文士の風貌を知った。暗く哀しい表情をしたその人は能登の七尾に生まれ、初め演劇記者として出発し、長篇私小説『根津權現裏』で文壇に登場、寡作ながらも大正末の一時期には新進作家として認められていたが、不遇、窮乏がつきまとった人生であり、やがて精神に異常をきたした果て、昭和七年厳寒、芝公園内のベンチにて満四十二歳で凍死したことなどを改めて知った。
その頃はすでに二十三歳になり、もう自分もツブシが利かないことを実感せざるを得ないさなかにあった。まともな職につきたくても、中卒と云う自業自得の学歴に加え、まず当座を賄う金がなかった。十五で家を出て以来、賃金日払いの人足仕事しかしてこなかった報いで、その日稼いだ金はその夜のうち、必然的に消えてしまう。どこかの工場なりに勤めるにしても、最初の月給を貰うまでを凌ぐ、まとまったものがない。まして二年分は常時たまってる、三畳間の家賃すら分割で払っている身であるならば、悪循環でも厭ったらしい日払い人足業を続けるしか生きていく術はなかった。だから作中の、惨めな生活に耐える主人公の、〈ああ、何時までかうした生活を續けねばならないのか。〉と云う嗟嘆は、殊に心に響いた。作者が昔の尋常小学校しか���ていないことも何かうれしかった。一期一会のつもりだった。
また、晩年期には作風の転換を狙い、作中に片仮名語を多用し却って失敗した、と見る向きもある。例えば「諸君をウエルカムする」「獨りドライヴして居る魂」「チヤイルドに授けられる母」(『此處にも皮 がある 或は「魂冷ゆる談話」』)等を指してのことらしいが、私などはこうした個所に吹き出し、たまらない程うれしくもなった。いったいにブロークンな英語混じりのセリフと云うものは、無論言う人のキャラクターにもよるが、ひどく可笑しい場合がある。それを分かっていてギャグとして使う人もいる。元来、 とは『根津權現裏』にもあらわれている落語的要素や、地口にも通じる洒落のセンスでも分かるように、類まれなユーモリストたる素地を多分に持っていた私小説作家なのである。本来あり得ないところに一つ混じっている片仮名語の、不意討ちの面白さ。これは一種の言葉のレトリックであり、 流のユーモアである。実際、この日本語と外国語がチャンポンになったセリフや言い廻しは、何も時勢のいっときの流れに迎合したものではなく、 のごく初期の作からしばしば使用されてきているものなのだ。
は明治二十二(一八八九)年、石川県鹿島郡藤橋村(現七尾市)に生まれ、小学校卒業後、地元で種々の職についたのち上京。俳優を志したが、少年期に病んだ右足骨髄炎の後遺症で断念する。以後は演劇雑誌の編輯などに携わり、大正十一(一九二二)年に長篇私小説『根津權現裏』を書き下ろし刊行して、文壇に登場した。くどく、ねちっこい筆致で貧窮と鬱屈した性慾を描く特異な存在として、一時期新進作家の列に名を連ねるものの、作品が不評になるにつれ、その発表数は激減、やがて悪所通いによる精神の破綻が言行に現われ、内妻への暴力などが繰り返されたのち失踪し、昭和七(一九三二)年のこの日の早朝に、東京・芝公園内のベンチで凍死体となっているのを発見されている。満四十二年の生涯であった。
また云うまでもなくこの共感は、作品世界に対してだけにとどまらず、ちょうどその時分は、懲りずにまたもや酔って暴行をはたらき、暗い所へ足かけ十二日(金曜の夜に逮捕された為、勾留期間が通常より一日延びてしまった)入れられた直後でもあり、 もまた、晩年脳梅に冒されたのちは奇行続きで、何度か警察に勾留されたなぞ云う話にも自らの救いを感じ、その人が義務教育のみしか受けていないことも、我が身と重ね合わせてひどくうれしがったものである。 さらにはどこへ行っても愚行が因で軽んじられる点や、知らないうちに泥みたような生き恥を晒し続けている共通点( の場合は念入りにも、行路病者さながらの狂凍死なる死に恥まで晒してのけたが)も、実際涙がでてくる程身につまされ、 の方の、殆どくどさに近い律儀さや愚直なまでの正義感、或いは独自の文学的センスを別とすれば、ともにドメスチックバイオレンスの傾向がある点を含め、ちょっともう、他人とは思われないまでになってしまった。
さて、残るは「女地獄」である。その後もこの人の遺した詠句を題名とした作をものしたりしたので、さすがにもはや「女地獄」までの使用は気が引ける。しかし、私はいつか必ずや私なりの「女地獄」をものして��ら終わりたい。それは私は、買淫の常習癖のある酒乱のDV男ではあるが、これで根は随分とフェミニズムに憧れているので、やはりこの題名の響きに執着したいし、この題名のものを最後の最後、いよいよその状況が来たときの切り札として握りしめていたい。
元来がこの全集は、 の歿後弟子を自任する私が誰よりも欲しているものであり、いつまで経っても僅かな日銭稼ぎでその日暮しをするより能がなく、惚れた女もまるで得られず、この先きっと家庭なぞも持てぬであろう、中卒で前科者でアル中であるところのこの私が、その作成を自分の人生最後の目標としてかかげざるを得なかったものなのだ。だからこそ、あえて身の丈に合わぬ( の、ではない)全五巻別巻二冊、と云う網羅性を重視した大がかりな巻立てにも挑戦したのである。もっと簡易な、それこそ私家版めいたものでもとあれテキストをかたちとして世に出した方がいいのではないか、と言う人もあるが、私はてんからしてその道だけはとる気はなかった。なぜなら、 澤 は生前から 今日 に至るまで、作家として一種の偏見の彼方に置き去りにされてしまっている感があるからだ。
芝公園での行路病者さながらの狂凍死と云う奇矯の一点だけで語り継がれ、その作品世界のユーモアに裏打ちされた、昨今の小説には類例を見られぬ悲惨の妙味と云うのは未だ十全には知られていない。それだけに歿後弟子を名乗る私たる者、その師に対する従来の無知や偏見に対し、せめて一矢報いてやらなければ到底死にきれないが、さてそれを手がけるこの私と云うのがのことよりまず己れの方をもっと何んとかすべきに違いない、訳のわからぬ不様な男であるのだから、それはやはり私的なものではなく、取次ぎを通せる書肆からどこまでも公刊のかたちで出さなければ甚だ申し訳が立たないのである。この妙な意地は、所詮くだらぬ見栄や体裁に帰結するものに過ぎないのかも知れぬが、地下のにだけはその真意をわかって頂けると思う。
死後、私の方の墓に香華を手向けてくれる者もなさそうだが、もし後世のどなたか訪れて下さるなら、その際は酒類も結構だが、願わくばラッキーストライクとカルピスウォーターも供して貰いたいもんである。
と云うと、何かいかにも文芸修業数十年の弁みたようだが、実のところ私自身、もともと特に小説書きを志していたわけではない。 但、読むことは滅法好きで、やはり活字本が手放せぬ方ではあるものの、それは特定の物故私小説家数名の復読に限られているから、ときにその読書範囲の狭小さを思わぬ場合もないではない。多分、本来の資質は、そう文学向きにはできていないのであろう。
と云うのも、私は平生何かにつけ江戸っ子ぶってはいるが、実際のその生まれは、恥ずかしながら江戸川区である。イヤ、そもそもは代々深川の在で、なればそこにとどまり続けていれば良いものを、私の父親が結婚を機に該地へ移ってしまったのだ。
東京人特有の、本然の意味での粋な野暮ったさと云うものは、上京イコール洗練とはき違えている、そこいらの百姓学生風情には到底理解の叶わぬものがあろう。 本稿はその私の、極めて身体的な東京地図の断片集である。
私の生まれ育った町は荒川を渡り中川を���えた、新中川と江戸川に挟まれる位置に在していた為か、これで川と云うものに対する愛着は人一倍強くできている。 が、川ならば何んでもいいと云うわけでもない。それはどこまでも、自身の地元の川に限られているようだ。 たとえば私はこの十数年間、大正期の或る私小説家の墓参の為に、能登の地にしばしば赴いている。その墓所のある七尾には、 御祓 川 と云うのが流れている。帰路に立ち寄る金沢には、犀川と浅野川と云う有名な川がある。
十五で家を出た私が、最初に独り暮しを始めたのは鶯谷の三畳間だった。その頃は扇風機一台持てず、日雇い仕事にゆかぬ日なぞは室内の暑さに辟易し、二十分程歩いた浅草の三本立映画館によく避難した。そして冷房の利いた館内で夜までを過ごしたのちに、また蒸し暑い部屋に帰る段には、必ず吾妻橋の真ん中辺に佇んで、小一時間程も暗い 川面 を眺めるのが常だった。 無論、川風で涼を取る、なぞ云う小粋な了見からのものではない。
それが為、私の中での蒲田と云う街は、あれで随分と甘いような苦いような、まことにヘンな印象を残していた。そこには一同で必ず立ち寄った、駅ビル内の食堂街における思い出なぞも 相 俟 っているようであった。 その祖母の墓へは、十年程前にふとした思いつきで足を運ぶ流れとなった。航空便に乗り遅れ、次便までの時間潰しとして、空港に近い該墓所に立ち寄ってみたのである。実に、二十年ぶりの 展墓 と云うかたちであった。
ご多分にもれず、小説を読むのは好きな方である。 イヤ、そう断言することは、今はもう当たらない感じだ。従ってこれをより正確に云うならば、それは小説を読むのは好きな方であった、と過去形を用いるべきであろう。 全く、ここ数年来の私は、いったいに小説と云うものを広範囲には読まなくなった。毎月寄贈される数種の文芸誌にしても、拙文が載っているものでさえ、封も開けずにそのまま処分してしまうことが習慣化している。
だが、この心境(良いか悪いかは別にして)に至る以前までの私は、これで存外に濫読派の一時期も 経 ててきたものだった。 但、それらの殆どは古書店での入手が主流ではあった。 その当時──十代の後半より飯田橋の四畳半に棲んでいた時分は、神保町、本郷、早稲田と、いずれの古書店街にも徒歩で行ける地の利があった。
もっとも神保町は店ごとの専門色が打ちだされているから、単に 隙 つぶしの為の小説本を安く得るときには、もっぱら早稲田の方に足を向ける次第となる。そこの均一台で三冊百円也の文庫本を買い込めば、一週間は格好の消閑材料になり得るのである。
十五歳時に一人鶯谷にアパートを借りて棲みだして以降は、私の上野とのつき合いかたも一変した。一度は昔の赤札堂のところでナンパに成功し、初めて同い年の女とつき合ったこともあった。 この十七歳の少女のことは、拙作にも殆ど原型をとどめぬまでにデフォルメを施して二度まで書き、前号でもふれた 此度 の映画作にも出てくる格好となった。 が、映画では該少女は風俗嬢となり、ヤクザじみた男の情婦と云う設定での登場となっている。脚本の準備稿を見たとき、これに私は全く異議を唱えなかった。すでに述べたように、映画は映画として好��なようにやってくれることを望んだが故にである。 しかし、今はその設定に些か胸が痛む。自分の私小説においては、そこで書いた内容にはとことん責任を負うが、不出来な映画の原作改悪での責までは、とても面倒をみきれない。
中学卒業時までを、都下の町田で母と姉とのアパート暮しをしていた私は、とにかくその環境と無縁になりたくて仕方なかった。前年より、何か気に食わぬことがあると姉のみならず、母にさえ暴力(決して、軽めのものではなかった)を 揮うようになっていた私のその意向に、母は 双手 を挙げて賛成し、縁切り料的に十万円の金を渡してくれたのである。 で、それを初期費用として、はな私は、子供の頃から大好きだった後楽園球場の付近に住むところを探したと云うのは、すでに本連載中でも述べた記憶があるが、この宿探しは今思うと、何んとも世間知らずな話ではある。
元来が、私はアルコール類が苦手である。両親ともに一滴も受けつけぬ体質だったから、おそらくその遺伝もあるのだろう。 しかし、それだけにこれは、どうでも克服しなければならぬ事柄でもあった。
毎々繰り返しのように云うが、何んと云っても私の父は、とんでもない性犯罪者である。すでに他人として、現在まで三十五年が経っているとは云い条、その遺伝子を受けついでいる事実までは変えようがない。だからこそ私は、父親の趣味嗜好とはことごとく逆をゆくことを心がけていた。 私が車の免許を持たないのは、かの父親が外車マニアであり、零細運送店を経営していたことと無縁ではないし、趣味としてはカントリー・ミュージックを好み、夥しい数の洋楽レコードを収集していたそのせいで、私は音楽に殆ど興味を寄せなくなった。かわりに、先方が好まなかった小説世界に没頭するようにはなった。で、煙草や酒もこのデンと云うことになる。
はな、その名を知ったきっかけは、やはり江戸川乱歩の随筆からであったのだろう。 早逝の天才画家、並びに詩人と云う点にではなく、すぐれた怪奇小説作家としてのその紹介ぶりに魅かれ、論より証拠で該作を読んでみたくなった。中学を出て、鶯谷の三畳一間で古本ばかり読み漁っていた十六歳の頃である。 が、当時どれだけ古書店を廻ってもその著作にはぶつからず、平生は涼を取るのと立ち読みが眼目で立ち寄る、三省堂本店や東京堂にも、その〝怪奇小説作家〟の本は一切見当たらなかった。
ともに、概して田舎出の者が多いのが不思議だが、つまるところ東京に来て調子にのっている田舎者が、本当に不愉快でならないのだ。アングラ芝居の関係者がその地のバーで、朝まで演劇論を闘わせ、ときには摑み合いにも発展するとか云う、自己満足の猿芝居はまことに〝臭い〟と思うし、その街を闊歩していっぱしの東京人を気取る百姓と、それを許容する周囲との甘えた馴れ合いは気味が悪くて仕方がない。まったくもって、人も街も安雑貨だ。 そうだ。これは別段下北沢に限らず、どうも私は世田谷区全体が嫌いなのだ。
元来が横溝正史の小説から読書好きとなった私は、その七〇年代にまきおこったブームの先鞭たる『横溝正史全集』を二度に亘って刊行し、「犬神家の一族」や「女王蜂」の掲載誌である『キング』発行元の同社に��、妙な云い方だが一方的にインチメートな感じを抱いていた。
中卒、満年齢十六歳と云う不利な条件によって、アルバイトの口も極めて限られていたと云う理由も一応はあったが、それより何より、私は働くと云うことが先天的に大の苦手にできているのである。 それだからこそ、折角に義務教育のみで社会に出ても就職もせず、折角に一人暮しを始めてもことあるごとに〈帰省〉しては、母親のなけなしのパート賃金を 毟り取る行為を 番 度 繰り返してもきたのだ(胸を張って云えることではないが)。
現在の私は、そこそこの潔癖性である。正午過ぎに寝床より立つと、まず行なうのが入浴であり、これはかれこれ二十年近くの習慣になっている。 そしてそののちに、大抵は一、二日おきでサウナに赴くのだが、やはりここでも浴槽に浸かり、最後には頭も洗えば体も洗う。無論、股ぐらもだ。 そしてそして、さらには深更に至り仕事を始める前には、 恰も何かの儀式的な塩梅にまたもや浴室に入って、これはシャワーのみで切り上げるものの、とあれ一日に都合三度の入浴を行なっているのだ(この他に、必要に迫られての、金銭を介した野暮用を済ます際は、その行為の前後にもシャワーを使うから、都合五度をかぞえるときもある)。
芝公園 三年の長きに亘って書かして頂いた本連載も、今回をもって、まずは終了と相成る。 その最後に赴く地は、これは私の為にはどうでも芝公園でなければならない。 芝公園と一口に云ってもなかなかに広いが、これをもっと細かく云うならば、それはいわゆる十七号地──即ち、昔のボウリング場(現在のザ・プリンスパークタワー東京)の、車道を挟んでの向かいにあるテニスコート付近の一角に限定される話ではある(尤も、この公園内に設置された案内板や、管理事務所で配布しているチラシ上での〝十七号地〟は、その位置が異っている。私の云う〝十七号地〟は、古地図を数十種参照した上で特定したものだ)。
3 件中 1 件~ 3 件を表示 |