キリスト教と戦争
2020/01/12 12:39
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
宗教と戦争について、記した一冊。以前から考えていた、宗教のみが戦争の原因になるのではなく、文化や歴史、経済的要因など、さまざまな要因が絡み合って戦争が始まるのだと言う考えには共感した。
ローマ帝国において初期キリスト教とが兵役拒否したのは、平和主義というより、部隊での皇帝崇拝などの儀式を嫌ったからだというのは、初めて知って驚いた。
誰しもが気になること
2017/03/12 21:02
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投稿者:チェンジマイまいど - この投稿者のレビュー一覧を見る
宗教は常に平和を希求し、愛を説くものであるはず。
そんな風に思いがちですが、同時に義務教育の歴史の授業でも
学んだように宗教が原因となる戦争の例は数限りなく、そしてそれは
何もキリスト教に限ったことではありません。日本人になじみ深い
仏教や神道が戦争の原因であったことも、また今後もそうなる
可能性が十分にあることを認識して、考えるうえでの一冊と
なるのではないでしょうか。
倒錯した人類の歴史
2016/07/26 11:22
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投稿者:平良 進 - この投稿者のレビュー一覧を見る
内容は国公立大学の一次試験で世界史または倫理社会を選択した方であれば「おさらい」にはなるだろう。ルターが農民たちへの態度を変質させていったことや歴代米大統領の宗教観なども明らかになっている。
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序章 キリスト教徒が抱える葛藤と矛盾
第1章 ローマ・カトリック教会の説く「正当防衛」
第2章 武装するプロテスタントたち
第3章 聖書における「戦争」と「平和」
第4章 初期キリスト教は平和主義だったのか
第5章 戦争・軍事との密接な関係
第6章 日本のキリスト教徒と戦争
終章 愛と宗教戦争
著者:石川明人(1974-、東京都、宗教学者)
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アーミッシュの元は再洗礼派
原爆を投下する部隊に対して祈った従軍チャプレンもいた。
カトリック教会は、建前としては、良心的兵役拒否は代替奉仕がある場合のみ可能という立場。
システィナ礼拝堂にミケランジェロに絵を描かせたユリウス2世は、自ら剣を帯びて戦地へ向かう「軍人教皇」だった。
プロテスタントも、ツィングリは自ら剣をとって戦い、チューリッヒの教会にある彼の銅像は、聖書と剣を手に持っている。
アメリカでは「兵士のための聖書」なるものまで販売されている。
初期キリスト教徒が軍に入らなかったのは、人殺しを避けるというより、軍隊内の偶像崇拝に関わるのを避けるためだった。
ブッシュ大統領は一番好きな政治家はだれかと聞かれ「イエス」と答えた。
空母の航空機格納庫で戦闘機を背景に、精密誘導爆弾を保管する箱に水を入れて洗礼を施す写真がアップされている。
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2016年3月15日読了
キリスト教という切り口で戦争を語っているけれど、キリスト教とクリスチャンという1つの人の類型を通して普遍的な人の欲望やエゴや思考と戦争の関係を紐解いている、とても興味深い一冊。
「平和」という概念は自立したものではなく、「平和ではない≒戦時」状況があって初めて成り立つ。ということは「真摯に平和を願うこと」は「戦争の原因を取り除くこと」と極めて近いことでもある。
宗教というのは、人が本来みずから取り組まなくてはいけないこと(なぜ人を殺してはいけないのか?とか)のジャッジを「神」に預ける、ある意味の心の逃げ場なのではないかと思える。
なぜなら預けた時、考えることから解放され、それを「救い」や「赦し」と感じるのではないか、と。
1章と終章だけでも十分に読む価値のある一冊。
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新書だけれどずっしりと重い。半世紀前から、聖書は読んできたつもりだった...けれど、キリスト教教徒である著者とはずいぶん読み方が違い、驚きました。日本では0.8%しかいないキリスト教徒も、世界では23億、ピュー・リサーチ・センターの予想では、2050年には29億、イスラム教徒が28億と接近し、2070年には逆転すると。「イスラム教とキリスト教の両陣営が、直接戦争状態にあった時期はむしろ稀である。」著者は書いていますが、心配ですね。参考図書案内も充実しているし、大きな宿題を貰った感じです。
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キリスト教が戦争をどう捉えているかという本。なぜ「十字軍」が始まったのか、「十字軍」はキリスト教にとってなんだったのかを知りたかったが、そういうキリスト教の戦争の歴史を解説してくれる本ではなかった。残念ながら私の期待には沿っていないが、勝手に期待してた私が悪いので仕方ない。
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表題の通り、最終章まではキリスト教と戦争との関係性を創立した紀元前から現代に至るまで簡易にまとめており、初学者にも分かりやすい内容となっている。
最終章は著者の意見となっているわけだが、それがあたかも人間性への諦念のような終わり方であり、人によっては物足りなさを感じるかもしれない。
だが、現代において考えるべき諸問題へのヒントを得る一助という意味で、本書は読むに値する良著であると思う。
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世界最大の宗教であるキリスト教の信者はなぜ愛と平和を祈りつつ戦争ができるのか、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて見ていくという体裁を取っていますが、実際の内容としてはキリスト教だけに留まらず全ての人間に当てはまる事柄が議論されています。
取り敢えずキリスト教に限った話で言えば聖書に於いて「戦争はするな」とは一言も書かれてはおらず、むしろ戦争の章は多く、また百人隊長といった軍人がイエスに認められさえするのです。さらに信仰を盾として、救いを兜として、神の言葉を剣として取りなさいと軍事的な表現で語られてもいるのです。
そして聖書のそれら章句を読み、解釈し、議論するのは人間であり、人間には①諸悪の根源は外来的なものである②悪は常に意図的である③今は特別な時代であるという3つの戦いへと駆り立てる先入観が備わっているという心理学的にもかなり突っ込んだ部分にまで話が拡げられています。
それらはなにも"戦争"だけの話ではなくて、全ての人間もちろん私自身の日々の生活での他人とのコミュニケーションに於ける葛藤にも当てはまるものであり、手厳しい論調で書かれてはいるものの私自身の反省点も多く見受けられてもっと冷静で優しい人間になりたいなと思わされました。
著者による文章はややキツめの印象を受けますが、宗教だけに留まらず私たちの普段の生活レベルにまで通用する議論がされているので、一度落ち着いて自分自身を見つめなおしたいという方にも良い1冊かと思います。
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「愛と平和の宗教」として語られ、またそのように自認するキリスト教と戦争・暴力の係わりを紹介した書。聖書・神学・信徒の言葉からキリスト教における戦争・武力行使の正当化のあり方を概観し、キリスト教の「平和」と「戦争」に対する態度、ひいてはそこから浮かび上がる人間そのものの矛盾に満ちた本質を説く。
本書は、「愛と平和」を説くキリスト教が「戦争と暴力」をどのように肯定してきたのか、如何なるロジックで前者と後者を両立させてきたのかを紹介した本である。「なぜ、キリスト教徒は、「愛」や「平和」を口にするのに、戦争をするのだろうか」という素朴な疑問の紹介から始まる本書は、キリスト教と戦争・暴力を巡る関係を様々な視点から概観していく。正当防衛や条件付きでの武力行使を認めるローマ・カトリック教会、「不正や悪人を罰する」戦争を肯定するルター、聖書における戦争や虐殺・軍事的比喩の記述、初期キリスト教や中世教会の戦争との関わり方――。
それらを通して見た上でなされる、先の問いに対する筆者の答えは単純明快である。そもそも、この問いの前提となる「『愛と平和』・『戦争と暴力』は二項対立である」という概念そのものが間違いなのだ、と。キリスト教は現実の諸要請に応じて(条件付きながらも)戦争や暴力を肯定してきたし、またそれを教義や神学のレベルでも織り込んできた。その根拠にあるものは、戦いや武力は必ずしも神やイエスの説く「愛」や「正義」、「平和」と矛盾するものではなく、寧ろ状況によっては後者をなす為の一つの手段である、という論理であった。平和と戦争を巡るキリスト教(及び個々の信徒)の考えは様々ではあるものの、「愛と平和を祈ること」と「戦争をすること」は決して常に矛盾するものではないのである。
筆者はここから、戦争にまつわる人間普遍の本質についても話を広げていく。人は「愛」や「平和」「正義」を望みながらも、その為に戦いや暴力を行ってしまう。戦争の根本にあるものは「善意と悪意の入り混じった、混沌とした理性と情念」であり、「愛情」「優しさ」のみではその抑止にはなりえない。それは人間が持つ本質的・普遍的な不可解さ・矛盾であり、限界である。平和と戦争を巡るキリスト教の言説は、ある意味で平和と戦争を巡ってアンビバレントにのたうつ人間の姿でもある。「はっきり言って、真の愛など、私たちにはありえないのかもしれない。私たちに、真の愛は不可能なのだ。そう気付くことの方が、正直というものである」(p221)という筆者の言葉から浮かび上がるのは、戦争と平和について議論する上で本当の意味で必要な悟りにも似た諦念である。
本書はキリスト教徒の筆者によって編まれたものであるが、その中での筆者の語り口は赤裸々なまでに率直である。「キリスト教は、それ自体が「救い」であるというよりも、「救い」を必要とするのに救われない人間の哀れな現実を、これでもかと見せつける世俗文化である」(まえがき)とまで言ってのける筆者は、一体何を以って信仰しているのであろうか、と思ってしまう程でである。ややもすると露悪的に扱われがちなセンセーショナルな話題を扱っていることもあり、もう���し個々の事例の背景事情についても解説してほしかったという不満はあるものの、色々と考えさせられる本であった。
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なぜキリスト教が戦争を行うか、に対する明快な回答は得られなかった(そもそも明快な回答自体がないのかもしねれない)
・聖書には、戦争を肯定するとも、否定するとも読める箇所がある
・様々な時代で様々な解釈がなされた
・具体例の列挙
という印象を受け、テーマに対する明快なロジックを私の能力では読み解くことができなかった。
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平和を訴えながらも、なぜ、戦争という究極の暴力をするのか?
キリスト教の理念と現実の「矛盾」。信仰と軍事の親和性についての指摘を多くの事例、参考文献から解説する。
時代、状況、地域、立場によって解釈も違い、「自分こそが正しい」と思って行動する、つまり「信仰」よりも「人間の本性」に行き着いてしまうのか。
「宗教」と一括りにできる話題ではなく、善意が暴力を正当化してしまう現代の問題にも通じる。
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キリスト教なんて平和言いながら戦争しまっくてるやろ!と思っていたところに見かけたので買ってみた本。実際、キリスト教が戦争を肯定しているように読める部分もあれば、やむなく戦争した後にどう精神ケアをするのかに着目した教えもある。しかし最後まで読めば、キリスト教がどうこうなのではなく、この世を生きる人間には生きていくために拠り所が必要だということがわかる。生きる過程では他人との衝突は避けられない。そのときにどうするか、その後にどうするか。本来はただそれだけだったのだと、考えさせられた一冊でした。
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「正しい人はいない。一人もいない。」(ローマ信徒への手紙3:10)
◆
「キリスト教こそ、戦争や異端審問や植民地支配で人を史上最も多く殺した最大のカルトである」
「イエスの教えとキリスト教は無関係」
「ザビエルは、先祖は地獄に落ちるのだったらなぜ、そんな有難い神様がもっと早く来なかったのか、との日本人の質問に答えられなかったではないか」
「宣教師とキリシタンたちは、日本の神社仏閣を焼き払い日本人を奴隷として売り払ったではないか」
キリスト教が批判される際に、必ずと言っていいほど言われるフレーズである。
さらに、
「宗教があるから戦争が起こるのだ。
宗教というものがなくなれば戦争もなくなるはず。」
「一神教は排他的で、多神教は寛容」
という恐ろしいほどに単純な二元論が断罪の言葉として使われる。
まあ、確かにそうかもしれないが、ちょっと無邪気に白黒つけるのは待ってほしいと言いたい。
かなりナンセンスな決めつけである。
事態は単に宗教のみでなく、さまざまな伝統や思想や情緒、利害がもっともっと複雑に絡み合っているのである。
実際に同じ組織一つとってしても決して一枚岩ではなく、かなりの幅がある。
◆
例えば戦争ひとつとっても、
「侵略」側が目的とするのは、相手の領土や物品の略奪であり、闘争そのものではない。
戦わずにそれらを獲得できるならそれに越したことはない。
したがって、「侵略者は常に平和を愛好する」。
防御側の目的は、純粋に相手を撃退すること、つまり闘争に他ならないので、戦争概念は防御と共に発生する。
◆
フスも、ルターも、ラインホルトニーバーも、戦争を拒否しなかったし、
ボンヘッファーはヒトラー暗殺に関わり死刑になっている。
◆
聖書に「殺すなかれ」がある割に、聖書の中ではやたらと異民族を虐殺する描写が多い。
もちろん、平和の道を示している箇所もあるが、
解釈者によって都合よく取られてしまう。
◆
創初期のキリスト教徒たちに中にも軍人がいたが、
どちらかというと戦争の拒否よりもローマの偶像崇拝の拒否による殉教が多かった。
◆
ローマ・カトリックは、「正当防衛は重大な義務である」と、
トマス・アクィナス以来の伝統に基づきカテキズムにも記しているが、日本のカトリック教会はそこには触れない。
◆
宗教の違いが争いを生むわけではない。
むしろほとんどの場合はは平和の期間の方が長い。
なんらかの具体的な状況が複雑に絡み合って人々に武力行使を強いる。
宗教もまた戦争の道具となりうる。
宗教自体が暴力の「原因」にはなり得ない。
◆
総じて人は「悪」を意識している時よりも「善」を意識している時の方が凶暴になり他者を傷つけることを躊躇わないものである。
問題は愛の欠如ではなく、誰かを愛しているからこそその人にために誰かを押し退け蔑ろにしてしまう。