想像上の過去としての「前近代」
2004/01/10 03:04
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投稿者:jyorimotofu - この投稿者のレビュー一覧を見る
昨年、何かと話題になった小熊英二『と』だが、要は戦争を招来した日本という国家と、その構成員たる「国民」の前近代性をいかに乗り越えるかという問題意識において、敗戦の記憶が持続しているうちは、少なくとも革新、保守ともに表層の差異を除けば同根であることを膨大な資料をもとに明らかにしてゆく著作であった。そこで大きく取りあげられた丸山真男、大塚久雄も、当然そのような意識の下に出現しているのだが──そして付言すれば吉本隆明はそういった彼らの問題意識、「国民」観への批判者として現れる──、本書の著者、川島武宜も彼らとそれを共有している。
たとえば1967年=昭和42年に書かれた「はしがき」を見てみよう。
「本書における私の関心の対象は法意識である。しかも、わが国に広汎にのこっている『前近代的』な法意識である。[…]今日もなお、前近代的な法意識は、われわれの社会生活の中に根づよく残存し、『社会行動の次元における法』と『書かれた法』とのあいだの深刻重大なずれを生じているのであって、[…]前近代的法意識を指摘することが、われわれの家族生活・村落生活・取引生活・公民としての生活を前進させるために緊要である」。
当然、川島はズルズルベッタリと規範と事実をなしくずし、前者を蔑ろにするような「前近代的」法意識を批判するのであり、さらに敗戦後20年たってもそれが払拭されない日本への危機感を随所に顕にしている。いうまでもなく、川島は「前近代」を超えた立場からそれを批判してゆくのだが、注意すべきは「前近代」とは、それを超えた位置に立つことで出現した、想像上の過去であるということだろう。それは「近代」化が進むことで超克されるものでもなく──現に約40年前に初版出版されたにも関わらず、本書はまったく古びていない──、また西欧から立ち遅れたものでもない。問題は、たとえば憲法9条を恣意的に引用し、自衛隊の派兵を法的に正当化するような、法の政治的遂行ひとつひとつであり、それらを批判してゆくことこそが重要なのだ。転覆及び改変すべき法や法意識が存在するのではなく、その遂行こそが問われるべきなのだ。
とはいえ、帝国憲法や判例の批判的読解から導かれる「前近代的」法意識の様相は、極めて刺激的であり、大いに参照に値する。特に「近代」について興味がある人には、うってつけの一冊ではないだろうか。
和を以て貴しとなす
2022/01/07 16:10
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本人は約束そのものよりも約束をする親切や友情が大切であるという国民性に伴う規範意識と言語習慣に基づき、融通性という契約内容の不確実性が日本人に安定感を与えるのは丸く収めるという和の精神によるものだと論じている書。
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「法意識」というものを取り上げるあたりが、さすがだ。ただ、いかんせん戦後十数年を対象にした論考ゆえに資料の古さからくる錯誤感はいなめない。
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1月?(かつて?)文系大学生が読むべき本といわれる第二弾である。
[内容]全体を通しているのは、本書冒頭に提示された筆者の問題意識―西ヨーロッパの先進資本主義国ないし近代国家の法典にならって作られた明治の近代法典の壮大な体系と、現実の国民の生活とのあいだには、大きなずれがあった。そのずれは、具体的にどのようなものであったか―というものである。その問題意識に基づき各論が展開されている。第二章では、権利にかかわる意識を扱っている。従来徳川時代以来「権利」という固有の日本語にはなかった。そして伝統的に言われていることは、日本人は「権利」の観念が欠けているということである。また、権利、権力を区別し、日本人の権利に関する意識、また西洋人の場合の意識を具体例を交えつつ対比している。そして、権利を巡る憲法の持つ意味もわかりやすく解説してある。第三章では、所有権に関し、筆者の経験なども交えつつ指摘されていることは、所有者は、所有物の独占排他的な支配を持っているということの意識がない(あるいは弱い)、第二に、所有物が所有者の現実の支配をはなれ、他人の現実の支配下に置かれている場合には、所有者の「権利」が弱くなりそれに反比例するように、非所有者の現実支配の正当性を持つようになるということである。第四章では、契約についての意識を一般的な取引の観点、身元保証契約の観点から論じている。その双方で共通しているのは、契約の成立、内容などに明確さを求めないということである。もし、問題が起こったら、「話し合い」を通じ解決するということを予定するという。第五章では、前章で話題になった「話し合い」という話題に関し、日本人は、訴訟を避ける傾向があるという指摘し、「仲裁的調停」を用いることが多く、一方で裁判となった場合でも、被告に全面的に責任を負わせるのを避け、原告にも責任を負わせるよう努力する傾向もあると判例を交えて、述べている。
[感想]
非常に面白かった。そしてわかりやすかった。それは自分自身が日本人であるから共感しやすいということに加えて、筆者が直接直面した多くの具体例が多用されていたからであろう。本書を読んで法学には、二方向のベクトルが存在していなければならないということを考えた。一つは、社会から理論への方向、そして理論から社会へ。上部構造と下部構造とも言い換えることもできるかもしれない。本書の中で「社会的地盤」という言葉が出てきたが、法律は社会的地盤に建っていなければならないと思う。それゆえ、日本人の法意識を知るということも大切なことだ。
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内田氏推薦の本。古い本なので、今の本と比べて読みずらい。当時はわかりやすい本だったと思う。
法意識は当時と今では変わってきており、その辺についてしることが出来てよかった。
法が社会に与えるインパクト、影響速度など興味が出てきた。
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これはもうめちゃくちゃ面白いので、法律好きの方や日本人論の好きな方にはぜひ読んでもらいたい一冊です。
法意識、などというととても大げさなようですが、実際に書かれているのは、もう笑っちゃうくらいの「日本人の実態」です。特に面白いのは所有権に関する話で、日本人にとって所有権なんてものはあってなきがごとし、他人のものをチョイと平気で使うことになんの咎めもない、そういう民族だということに改めて気付きます。
そしてそんな「日本人らしさ」が、実は根底では西欧近代の法感覚とは根本で相容れないものであるということを、見事に示している。そういう本です。
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ものすごく掻い摘んで言うと
西洋・・・進んでる
日本・・・遅れてる という内容
しかし、目的合理的法意識と価値合理的法意識の対立であって、西洋内部でもある対立なのではないかという批判がある
ただ、日本人がどういう法意識を持っているかを知る上では、おもしろい本
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これは面白い。法学の先生が書いた本だから固く抽象的な部分も多いが、具体的な事例が非常に興味深く、まるで民俗学の話を聞いているかのよう。宮本常一「忘れられた日本人」と似た面白さがある。
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内田先生おススメの一冊。
読みながら、「ははあ、あるある」と思い当たること数々。
著者は、日本人には「権利』観念が欠けていると述べているが、近年のやたらな「権利意識の振り回し」は、まさに権利の観念の欠如が齎しているものと思ってよいのであろう。
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[ 内容 ]
西欧諸国の法律にならって作られた明治の法体系と、現実の国民生活とのあいだには、大きなずれがあった。
このずれが今日までに、いかに変化し、あるいは消滅しつつあるのか。
これらの問題を、法に関連して国民の多くがどのような「意識」をもって社会生活を営んできたかという観点から、興味深い実例をあげて追求する。
[ 目次 ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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日本人の法律や権利、義務の意識について考察した古典的名著。既に40年以上前の本である。
郷原信郎『思考停止社会』でも触れられていましたが、日本人にとって法律は「伝家の宝刀」のようなものだ、という言葉がある。これは法律の非日常性と、フェティシズムの対象と化していることを物語る。
道路交通法、労働基準法が破られるのが日常茶飯事なのは今も昔も変わらず。思えば日本では法律論を持ち出すと、「杓子定規」、「融通が利かない」、「心が冷たい」、とよく言われる。
特に明治憲法下では国家権力が法の拘束の外(臣民の権利は法律の範囲内)にあったので、今から考えてみれば、法律に関する意識は欧米諸国に近づいたと見てよい。この本では消防車が人を引き殺しても、軍の火薬庫が爆発しても、官立大学の教授が手術ミスで患者を死なせても、判事が故意に間違った判決を下しても責任を問われなかった例が紹介されている。
日本人は権利意識も弱いとされる。例えば狭い車道から広い車道に車が入ろうとしている状況について、海外の法律は「通行優先権を持つ車に道を譲れ」="Yeild Right of Way"という権利の側の視点から述べられているのに対し、日本の法律は「狭い道から広い道に入る車は気をつけなければならない」という義務の視点から事例を想定する。
また、昔から「最近の日本人は義務を果たさずに権利ばかり主張する」という意見が根強く残る。権利をあまり主張しなかった(できなかった)からこそ年功序列、終身雇用を前提とした日本的経営=家父長的(家族的)労働関係が成立し、高度経済成長の原動力が生まれたと言える。 その一方で障碍者や女性の権利が以前よりも幅広く認められるようになったのも、権利を主張し続けてきた歴史があったためである。
日本人は所有権の独占排他性になじみが薄い、という指摘もその通りだと思いました。それは自己の管理下の他人物を私有物と混同しがちということ。例えば他人の貸借物をそのまま自分のものにしてしまうことが挙げられる。
権利内容の不確定・不定量性の指摘も興味深い。はじめから妥協が予定されていて、なし崩しに連続している。だから、役得的背任、横領があっても、当事者に罪の意識がないことがよくある。そのまま有耶無耶にされることも同じ。
概して言えば、日本人は現実に法律を一字一句そのまま適用するよりも、その場の雰囲気や現状に応じて良く言えば臨機応変に、悪く言えば恣意的に曲げて適用しがちということ。それがわかったので読む価値はあったと思う。
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「権利」「所有」「契約」「裁判と民事訴訟」といったキーワードについて、「各々明文化された法(及びその源流である西洋法思想)」と「日本国民の生活」のズレを説明している。
具体的には例えば第4章「契約」の内容、即ち「日本では売買契約による所有権の移転が確定的ではなく、売った様な預けた様な関係がある」の様に、
「西洋=境界線(法律上の権利義務・所有権など)が明確⇆日本=境界線が曖昧」といった切り口の議論が主な内容である。
この法意識の現れ方の一つの例として「民事訴訟では白黒を付けずに調停する」事であると書かれている。だがこの本が書かれた年(昭和40年)から40年以上経った現在でも日本企業同士の取引契約締結時には、この曖昧さが原因で交渉がこじれるケースが日常茶飯事。平凡なビジネスパーソンでさえ頭を悩ませる様な根の深い問題を扱ってると感じました。
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1967年に書かれたとはとても思えないですね。今読んでも全く古くささを感じさせないです。
法学部の学生の必読書だという話なのだけれど、残念ながら自分は法学部時代にこの本を知りませんでした。
読んでたら法律の勉強に対する意識も変わってたかもなー
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1967年出版。
前近代的社会に移植された近代的な法律。この「ずれ」は先の大戦の敗戦を経て、やがて解消していくだろうと本書は予測する。
ところで同じ1967年の中根『タテ社会の人間関係』は「(日本の伝統的な)根強い人間関係のあり方というものは、決して、従来説明されてきたような封建的などという簡単なものではないし、工業化とか西欧文化の影響によって簡単に是正されるものではない」と看破している。
2012年において、どちらの予測も間違ってはいなかった(←極めて日本的な)。
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何の疑問を持たずに空き地で遊んだことのある人。
あなたの「法意識」は典型的な日本人タイプです。
明治維新、昭和の終戦、と大きな社会変革を経験し、近代的な法体系を発達させてきた日本。法律は西洋に勝るとも劣らない立派なものになっていったが、日本人の「法意識」は前近代のまま。
「権利」概念の欠如、使用者・労働者(あるいは発注者と請負業者)の封建的関係、白黒付けることを嫌う精神性、喧嘩両成敗的思考、内容が不確定な契約書、聖徳太子以来の「和の精神」、などなど。
一応著者は、戦後20年を経て日本人の法意識が大きく変わりつつあると指摘している。本書の初版発行は1967年だから、それからさらに40年余がたった現在は、当時よりも近代的法意識は成熟しているのだろう。
しかし著者が挙げる具体例には「確かにそうかも」と思い当たるフシが多い。俺の法意識も、やっぱり「日本人的」なんだなあ。