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『マンゴーと手榴弾: 生活史の理論』。僕は岸さんの優しい語り口と眼差しが大好きだ。本著は沖縄で暮らす人々の生活史から、質的社会学がいかにして、「歴史と構造」にアプローチできるかが試みられる。何気ない一言やエピソードが心を捉えて離さない。
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お父さんから「キーン」と音がした語りが印象に残った。キーンて聞こえたんや、と。
おっ、と思える語りや言葉を、すくい上げるのが上手なんだな。感度がいいんだな。マンゴーと手榴弾を結びつけるあたりとかも。
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『裸足で逃げる』と双璧をなす一冊。
真っ白な装丁が与えるのは清々しさよりも寧ろ生々しさ。"語りを通して"世界を知るのではなく、"語りで"世界を知るということか。生きることは、生温かい体験なんだと実感した。
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岸政彦さんの『マンゴーと手榴弾』読了。
所々では聞いてたけど、割と波乱万丈な人生を送った母の話や、満州帰りだった父の話をもう少し順序立てて聞いておけば良かったなと思う。
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社会学という学問に関わらない方も是非読んでみて欲しい本です。他者への理解とは何かという問いかけへのヒントになりました。
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2019.05.07
2回目のマン弾。
5/3のトークイベント地元とは何か@LoftPlusOne Westを参加を前にして読み返しておこうと思い再読。
「約束としての実在論」って何だろうと考えてみた。
「祈り」「信念」「蓋然性」あたりがキーワードなのかも。
概ね正しいであろう,概ね実在するであろう,このような感覚。
僕たちが語る何かはまるっきし虚構なのではなく,現実の何かに依拠している。
もちろん,ウソやデタラメ,誤りなども存在するだろうけど,それでもなおそれを語るための「何か」が実在している。それに対する「信念」あるいは「祈り」。
これが約束としての実在論なのかなあ。
ところで,トークイベントで岸先生が「距離を詰めてしまっていいのかとも思う」と仰っていた。たとえば,モノグラフを書くことで「同じ状況にあったら自分もそのようにしてしまうかもしれない」と読み手が思ってしまってもいいのだろうか,ということだ思う。
でも本書で,ーー「人間に関する理論」とはそのような状況であればそのような行為をおこなうことも無理はない,ということの「理解」の集まりでありーーとも書かれている。
一見すると矛盾するように見えるこの両発言をどう考えたらいいのだろう,と考えてみることにする。
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おそらく作者のことをtwitterで知って今回はじめて著書を読んでみたが「生活史」「社会学」というジャンルがあるのを初めて知った。それだけでも読んだ意味があったが、中身は少々いやかなり難しかった。「生活史調査」とはある社会問題や歴史的事件の当事者や関係者に聞き取りを行い、語られた人生の経験の語りをマクロな歴史と社会構造とに結びつけ、そこに隠された「合理性」を理解し記述することである。つまり人びとの人生のなかに実在する、生きづらさ、しんどさ、孤独、幸せ、悲しさ、喜び、怒り、不安を聞き取りその人びと(例えば沖縄戦を経験した人たちや被差別部落で差別された人たち)の個人の人生の語りを通じて「歴史と構造」の中で生きている人びとの人生を考える方法である。文章にすればたったこれだけだが(それだけでも十分むずかしいが)その聞き取りした内容をどう捉えどう考えるのか?がまたとても難しい。例えば、部落に生きる人たちに調査をして当然差別を受けたことを前提に話をするが、人によってはその地域の中にいる限り「差別されたことがなかった。」という人もいてそう言われたある学者が「差別されていることにすら差別によって判断力をはく奪され気付けない。」と書き思わずなるほど、そうかと思ってしまう。その部分を引用すると『それは私たちの意思や意図、感受性、行為能力を深いレベルで解体する。差別的構造によって私たちは本来なら持ち得たはずの合理的な(つまり自分たちにとって利益をもたらすような)判断力や行為能力を剥奪されている。そのため、私たちの意図や意思はいわば無意識のレベルで外部から介入されていて自らの不利益になるような選択肢を「選ばされる」ことによって、その差別的な構造を再生産させている。』とあり納得出来るのだが作者はそれを言下に否定する。それは何故か?その考えは自己責任倫理の差別的な考え方に対抗して当事者の責任を解除するために必要な作業であったが「無意識の構造」にまで介入し操作する差別や権力という理論によって描かれる当事者がどのようなものになるか。それは「徹底的な無能力者」であるからだという。「非合理な行為者をどう理解しその行為や語りをどう記述するか」は現在でも簡単には解決のつかない問題である。責任の解除は能力の否定と結びつくからである。んー難しい。これを書いてても頭が混乱してきたwwその他「嫌なら出ていけばいい」とする基地問題の自己責任論(最近とくにこの「自己責任論」は頻繁に取りざたされている気がする)など示唆に富む内容が書ききれないくらいだ。最後に作者は社会学者自らの存在意義と仕事をこう定義する。少々長いが引用する。『基本的にはこの世界に意味はない。私たちがある戦争に巻き込まれてしまうことにも、ある階層に生まれついてしまうのも、あるいは「男」や「女」であることについても、どれも無意味に決められている。私たちの絶対的な外部で連鎖している無限の因果関係の流れのなかに、私たちはとつぜん放り込まれ、そこで生きろと言われる。そして、そういう因果のつながりのなかで、私たちは、配られた手持ちの資源をなんとか使って必死に生きようとする。意味とはまさに、この「必死で生きようと���ること」そのものである。私たちは、なぜ私たちが存在するのかということについては理解することはできない。しかし、そうした理解できない世界のなかで、どうやって必死に毎日を生き延びているかについては、お互いに理解することができる。私たちは人間についての理論をつくりあげようとするのだが、その作業に終わりはない。それは無限に続く。社会学者にできることがあるとすればそれは、それぞれ一回限りの歴史と構造のなかで、その状況において行為者たちはこの行為を選択したのだという事例の報告を、無限に繰り返すことだろう。』生きた証を残し続ける。それだけでいいと言われている気がしてなんだか少しホッとした。
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表題含めいくつかの短編を一冊にしたもの。アカデミズムと優しさの両立を目指そうとする著者の岐路をつづったものとでもいえようか。2章の桜井批判と「」を外すという事がおそらくこの本の一番難解だが核となる部分。何度か読み直したり、他の本と一緒に検討したりしたい。
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優れた随筆家・作家としての顔も持つ岸政彦の本職は、社会学者である。社会学にもその研究の流儀によって様々な学派があるわけだが、彼はいわゆるフィールドワーク的にある特定のテーマについて体験した個々人の話を傾聴してそこから理論を構築する生活史調査と呼ばれる方法論を得意としている。
本書は、彼が社会学の方法論としての生活史調査について、その方法論としての課題や可能性について綴った小論で構成されている。彼の生活史調査がいかなるものなのかは、沖縄から本土に就職したものの沖縄へUターンしていった人々をテーマとした「同化と他者化-戦後沖縄の本土就職者たち-」を読むとよく理解できる。そこでは話のディテールも含めて細かいエピソードが丹念に綴られ、数十人のエピソードがポリフォニックに重なり合う。そうした重層の中から、個々のエピソードの持つ固有性を生かしながら、理論として一般化できるギリギリのラインを抽出することで、同作は社会学研究と呼ぶにふさわしい洞察を得ることに成功している。
なお、本書の幾つかの小論はかなり理論的な叙述も多く、社会学に関して一定の関心を持たない読者でないと読むのは厳しいかもしれない。それでも、また幾つかの小論では、実際の生活史調査によって得られたインタビューから、その語りのディテールをうかがい知ることができる。表題の「マンゴーと手榴弾」とは、沖縄で集団自決を迫られ、手榴弾を受け取った少女が、不発であったことから辛くも生き延び、数十年後、この聞き取り調査に訪れた著者や学生らに凍ったマンゴーをもてなす、という様子を表わしている。我々は、ほぼ同じくらいのサイズであろう2つのオブジェクトー手榴弾は少女に手渡され、マンゴーはその元少女から手渡される-の奇妙な連鎖が持つ不思議さに、生活史の持つディテールを感じるのである。
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「マンゴーと手榴弾-生活史の理論」https://www.keisoshobo.co.jp/book/b372622.html 読んだ、良書!社会学のフィールドワークの手法と潮流について、実際のエピソードに沿って論じている。調査の哲学や葛藤を知るのはおもしろいし、何より調査時の個々のエピソードが生々しい。「みんな」ではなく一人一人なんだよね(おわり
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前回読んだ「断片的なものの社会学」で岸政彦氏が好きになって、「マンゴーと手榴弾」「街の人生」の二冊を図書館で借りた。「マンゴーと〜」は、社会学の理論についての本。いろいろな人たちの生活史を語りとして聞いて、その分析や解釈のあり方について考える。
印象に残ったのは、「鉤括弧を外すことーポスト構造主義社会学の方法」という章。この章は、①被差別部落で生まれ育った年配女性と、②沖縄から本土へ出稼ぎに出て後にUターンした人々の、「自分は(被差別部落出身であること、あるいは沖縄出身であることを理由にした)差別を受けたことがありません」という語りについて考察する。差別は本当になかったのか、実はあったけれど、本人たちが感じ取っていなかっただけなのか。
社会学者Aは、差別されたことがないと言うのは、実は存在する根深い差別によって差別を受けたことに気付く能力すら剥奪されてしまっているためだ、と言う。社会学者Bは、彼らが差別されたことがないと言うのであれば本当に差別はなかったのだ、と言う。社会学者Cは、AとBの論はいずれも、語りが「差別-被差別」という文脈でしか解釈されていないことに問題があると批判した。さらにCは、差別とはある人々に対する「カテゴリー化」や「一般化」であるとし、解釈や理解の工程には多かれ少なかれ「カテゴリー化」や「一般化」が欠かせないため、結果的に差別・暴力となり得ると結論づけた。
Cの理論について岸氏はこう述べる。
「いかなる一般化も禁止すること、つまり語り手の語りを引用符のなかにいれたままにしておくということは、それを全面的に翻訳不可能なものとすることと同じことなのである。(中略)他者の語りの(対象言語から主体言語への転換としての)翻訳を不可能なものにすることで、私たち社会学者に、その語りを受け取ったあと、それに続けて何かについて「書くこと」あるいは「物語ること」を禁止したのである。(p.105-106)」
では社会学者に求められることは何か。それは、聞き取りを通じて事実を蓄積し、その都度、自分の理論を変遷させていくことである、と岸氏は述べる。たとえば出稼ぎののちに本土からUターンした沖縄の人びとは、差別があったからUターンしたと考えられてきたが、彼らの語りからその事実はないことがわかった。
「私はこのことを、差別ではなく、『他者性』あるいは『他者化』という概念で捉え、紆余曲折を経て、最終的に『同化圧力が強いほど、他者化される』という仮説に至った。(p.111)」
沖縄で生まれ育った人びとは、自分が生まれ育った地への帰属意識が非常に高いので、そこから離れたときに、沖縄以外の地への「他者性」が強く意識される。だから、出稼ぎという目的を達成したら沖縄に戻ってくるという選択をしたのだ、というふうに、それまであった理論の変遷を行なったのである。
自分の意見を変えるということは、社会学者ではなくとも、なかなか容易なことではない。私自身、ずっとそうだと信じてきたから、この方針を変えたら過去の自分を否定することになるような気がするから、といったような理由から、固執してしま��ことも少なくない。けれど、語りという形で伝えられた事実が事実として目の前にある以上、それが自分の理論にそぐわないからといって、捻じ曲げたり、無理矢理な意味付けをしようとしたりすることは、横暴である。自分という人間の根本的な信念を変える必要まではないにしても、事実を事実として、いったん受け止めようとする姿勢を持ちたいと思った。
生きてきた道筋が全く違う他者の語りというものは、常に、自分がこれまで当たり前だと思ってきた価値観や世界観を揺るがす可能性を持っていると思う。たくさんの揺れが起こるのを自分の内側で感じながら、他者の語りを、口を挟んだり批判したりすることなく、ただ聞くというのは、大変な作業に思える。揺れの一つ一つを全てまともに受け取る必要はないし、いちいちそんなことしていたら、自分ってなんなんだという崩壊に繋がる。他者の語りと、自分の持っている価値観を切り離して、なお聞き続けるということができるようになるのには、相当の時間と経験が必要だったのではないかと、根拠はないけれど勝手に推測して、社会学者って、岸氏ってすげえ、と今なっている。
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社会学においての調査。
質的調査と量的調査がある。
質的調査→興味深いが曖昧である
量的調査→つまらないけど確か
岸さんの聞き取り調査は、個人の語りに注目した質的調査であり、曖昧さの解消のためにそれをどうやって調べていくかを詳細に記述していた。
この調査には、事前のアポから、調査後のお礼も含め、人と人との繋がりの中で本が生み出されていくのかなと。
戦時中のおばーおじー達のリアルな声を、
こうやって残してくれる著者に、
ありがとうといいたくなった。
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あらかじめ聞き取り内容など決めず取り止めのない話を通じてそこに生きる人の民俗を記録に残す生活史。ヤンキー文化や、地元の友人との繋がりは日本どこでもそんな気がするけど、戦争にまつわることや基地の騒音は沖縄ならでは…と思う。フィルターを通さない調査の難しさもわかる。書籍としては意味付けや注目箇所は書いても研究としてはただ記すのだろうか?いやそんな論文ないよなぁ…?本件の場合回答者がこちらの意図に合わせてしまうことのむつかしさも際立つ。直前読んだ心理学の本とも思いがけずつながった。