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読むことは考えること、著者ははっきりそう書いているわけではないが、漫然と読むのではなく、考えさせられる行為であることを改めて思い知らされたように思う。オノヨーコ「グレープフルーツジュース」、鶴見俊輔「もうろく帖後編」、永沢光雄「AV女優」、坂口安吾「天皇陛下にささぐる言葉」、武田泰淳「審判」藤井禎和の詩、加藤典洋「大きな字で書くということ」など、いずれも極めてユニークな短い文の数々。確かに学校では絶対に教えないだろう文章の紹介だ。鶴見の晩年の言葉が深い。「友は少なく。これを今後の指針にしたい。これからは、人の世話になることはあっても、人の世話をすることはできないのだから」「死んだときに出してほしいあいさつ。〇年〇月〇日、なくなりました。これまでおつきあいいただいたことをありがたく思っています。焼き場にはもう送ってもらえたと思います。しのぶ会のようなことは、なさらないでください。生前、御迷惑をかけたことを、申しわけなく思っています。」凄い言葉だと思う。これを読むときに大きなインパクトを与えることは間違いない。そして坂口の天皇へ話しかける言葉「これじゃあ、戦争前となにも変わらないじゃないか。しゃべらせろ、話させろ、それがぼくの仕事なんだ。おい、待て、あんた、あんた、人間になりたかったんじゃないのか。」また泰淳が小説の中で、中国人の老夫婦に発砲しようとする兵士の頭の中での葛藤のシーンの怖いこと。いずれも壮凄な言葉の数々。
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読み方を考えたことはなかったが、確かに国語の教科書で読み方が書かれてたのを、この本で思い出した。その読み方が全く正しいわけではないが、考えて読むことの楽しさという視点をもらった感じがした。
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ゆるっとしたタイトルで、著者の高橋先生もちょっとおちゃらけた書き口なのに、めちゃくちゃ刺激的な内容だった!
『問題山積みの文章だけが、「危険!近づくな!」と標識が出ているような文章だけが、それを「読む」読者、つまり、わたしやあなたたちを変える力を持っている』
私たちが今まで読んできたものやその読み方というよりは、学校教育の中で読まされてきたもの、教育現場で良い文章と評価されてきたものに対して、疑問を投げかける…だけにとどまらず、左ジャブからの強烈なアッパーカットを喰らわせる!読んでいて痛快さと同時に、この本で高橋先生が紹介してくれたような作品を知らず知らず忌避していたかも…と「声」に価値観を縛られていた可能性に怖くもなりました(この「声」の正体は読んでもらえればわかります)。
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読む力を身につけるということは、読む感性と、あきらめない追求。
坂口安吾の天皇の話と、武田泰淳の審判は胸に迫る。
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高橋源一郎、韜晦術その1、NHKでこの本に書いてあるようなことをしゃべるために、彼はどんな工夫をしているのだろう、そう思うくらい、本質的な過激な内容だと思うのですが、まあ、それに気づかれないまま、笑いながらマイクの前にいるのでしょうかね。
変な時代ですね。
ブログにも感想書きました。覗いてみてください。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202102280000/
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202103010000/
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202103040000/
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「この「声」は、誰の「声」なのでしょうか。
わたしたちは、目の前の「文章」を「読む」、その前に、この「こくごの手引き」の方をこそ「読む」必要があるのかもしれません。」p100
ぞくりとした。
「絶対的に「悪い」ものがあるわけではありません。あるものが「善」にもなり、「悪」にもなる。~だからこそ、わたしたちは、用心しなきゃなりません。~そのための武器こそ、「読む」ことなんだと思うのですけれど。」p112
高橋さんは「読む」ことが本当に好きなんだなあと思う。
書き手の視線を丁寧に想像しながら、「読む」ことを疑って、「読む」ことを信じる。スリリングな国語の授業でした。
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「nobodyがいたよ」がじんわりと印象に残っている。
どの共同体にも属さない、共同体と共同体の「すきま」でしか話されないことば。
「すきま」に奇跡のように生まれる「個人」、それは美しい。でも、そこで個人であり続けることは、ほんとうに厳しい。
絶対的に「悪い」ものがあるわけではありません。あるものが「善」にもなり、「悪」にもなる。いや、「善」でかつ「悪」だったりする。だからこそ、わたしたちは、用心しなきゃなりません。
「個人」というのはすぐに流されてしまったり、染まってしまったりするものという前提があるんだと。
押し流されてしまわないようにしなければ。
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高橋源一郎の書くものが面白いのは、なんとなく不思議とか違うんじゃないかとか思っていたことを優しい言葉遣いで指摘するところ。この本もそうだった。
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「読む」って、どんなこと?
著者:高橋源一郎
発行:2020年7月30日
NHK出版
NHK出版「学びのきほん」シリーズで、去年に出たこの本はむちゃ売れたみたい。人気小説家にして大学でも教鞭を執る高橋源一郎が、小学校の国語に書かれている文章の「読み方」の基本15項目を最初に紹介した上で、実際の文章を紹介し、その「読み方」に従ってそれを読むとどうなるか?などを分析し、そこから浮かび上がってくる問題を論じていく。
著者が引っ張り出した文章は、オノ・ヨーコや鶴見俊輔、坂口安吾など。学校や文部省が教える「読み方」で理解は難しいものばかり。最終的には、この「読み方」がおかしいということになってきて、それを教える学校が最も危険な存在だと分かる、というような論説を導いていく。
そういう著者こそが、教育を司る権力側にとって最も危険な存在かもしれない。
書くことを生業にしてきた僕にとっては物足りない内容だったけど、勉強になることも結構あった。
*************
学校で、「読む」ということをならってくると、おかしなことが起こる。簡単にいうと、「読めない」ものが出てくるのです。
二〇〇九年六月一八日
私の人生のおおかたは思い出になった。
(鶴見俊輔「もうろく帖」後編より)
素晴らしい比喩がたくさん使われていても、ボキャブラリーが豊富でも、精密な論理で構築されていても、ワクワクドキドキするようなお話が満載でも、読んだことのない、聞いたことのない知識や情報がいっぱいあっても、そんな「文章」は、それを「読む」読者を、ほとんど変えないからです。
問題山積みの文章だけが、「危険!近づくな!」と標識が出ているような文章だけが、それを「読む」読者、つまり、わたしやあなたたちを変える力を持っている、わたしは、そう考えています。
永沢光雄著「AV女優」について
刹奈紫之(AV女優)さんのことばは、ものすごく分かりやすい。それは(インタビューして文章にした)永沢さんが、彼女のことばをきちんと聞くことができる耳を持っていたからだと思います。
「なんか変なやつだな、気持ち悪い」「生意気な女だ」「しょせんAV女優のくせに」と思った瞬間、ことばという脆いものはたちまち崩れ、永沢さんには、彼女のことばを理解することができなかったでしょう。おそらくは、ばらばらに話されたことばの断片をつなぎ合わせ、それがきちんとした世界を作るまで、たんねんに再構成して、この「文章」はできています。
刹奈さんと永沢さんがふたりで作り上げたものであり、それにもかかわらず、永沢さんは、最後にそっと身を隠し、刹奈さんだけを、私たちの前に登場させたたのです。
坂口安吾「天皇陛下にささぐる言葉」を紹介
内容は、終戦後2年たった時に書かれた天皇に直接言うような坂口による警告で、天皇が人間ならば、もっとつつましさがなければならぬと断罪。例えば、天皇が我々と同じ混雑した電車で出勤する、それを国民が気づいて、さあさ天皇、どうぞおかけくだ��い、と席をすすめる。自分も銀座で散歩中に人波中で天皇とすれ違う時があるなら、オジギなどはしないであろうが、道は譲ってあげるであろう。などと書いた上で、今の旅の仕方(恐らく戦後の行幸のこと)はなんだ。昔に戻っているではないか、と辛辣にもの申している、そんな内容だった。
それに対して著者・高橋源一郎は、名著「堕落論」と比して、これがなんとヒドい文章かと言い、この文章が混乱している、焦っている、息せき切って走っている、なぜなら坂口さんが「熱い人」だからです、と説明している。
しかし、僕はそうは思わなかった、磨き抜かれた「堕落論」に対して、「ヒドい」「混乱している」文章だと思わせるように、やはり計算し、磨き抜かれて、このような文章に仕上がっているのではないかと感じる。高橋源一郎をして取り乱してしまった、その坂口の実力たるや、やはりすごい、と。
武田泰淳「審判」を紹介
「ウィルス」は、宿主にとりつき、その細胞に入りこみ、自己増殖を繰り返して、最終的には、その宿主を滅ぼします。長い潜伏期間があって、もっとも効果的な瞬間にその姿を顕すまでは、それが存在していることすら、わからないのです。
この、「社会」が送り込んだ「ウィルス」が姿を顕すもっとも効果的な瞬間こそ、戦争です。そのとき、はじめて、「ウィルス」はそのほんとうの姿を顕し、「社会」が隠していた「ウィルス」のDNA、そこに書き込まれた、最後の、真のメッセージを伝えます。それこそが、「社会」の「敵を殺せ」という命令なのです。だとするなら、この「声」は、「社会」そのものが発する「声」なのではないでしょうか。
・・・・そう、もう、みなさんもおわかりかもしれませんね。学校もまた、「社会」が、もっとも力を発揮することのできる場所なのです。
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てっきりNHKでの放送をまとめた本かと思っていた。いや、コレをNHKがテレビじゃなくても良いからラジオでも放送してくれたら、「日本は変わった」という事になります。勿論、良い方に。勿論、現代のNHKは「こんなもの」を決して放送したりはしません。百万円賭けたっていい(そう思っていたら、高橋さんはNHKラジオでゲストを呼んで本を紹介する番組を持っていた(飛ぶ教室)。今のところ、伊藤比呂美、ヤマザキマリ、しりあがり寿とかが呼ばれている。ホントに賭けて良いのか?いや、大丈夫。きっと)。
どうやら、NHK出版仕様の岩波ブックレットみたいなものらしい。何事も業書の始まりには名作がラインナップされている。志ある編集者が志ある著者に依頼し、志ある事を張り切って書くからである。「学びのきほん」シリーズ。あと他も読んでみようかな。
NHKが決して放送しないようなことって、一体何を読んだの?
それは目次を見たら少しはわかると思う(^^)。
はじめに:誰でも読むことはできる、って、ほんとうなんだろうか
1時間目:簡単な文書を読む
2時間目:もうひとつ簡単な文章を読む
3時間目:(絶対に)学校では教えない文章を読む
4時間目:(たぶん)学校では教えない文章を読む
5時間目:学校で教えてくれる(はずの)文章を読む
6時間目:個人の文章を読むおわりに:最後に書かれた文章を最後に読む
これを読んで驚いた方は相当いたようだが、私はほとんど驚かなかった。
「つまり、問題山積みで、できたら近づきたくないような文章、そういうものこそ、「いい文章」だ、とわたしは考えています」
という様な高橋源一郎さんの意見は、長い人生で掴んだ私の教訓と、以下の様なことで似通っていたからです。
「世の中の意見が二分するような事柄の中にこそ、世の中で大切にしなければならない核心がある」
防衛問題しかり、死刑制度しかり、生活保護問題しかり、嫌韓問題しかり。
ただ、第5時間目の武田泰淳「審判」には、少し驚きました。
中国戦線における、一兵士の中国人農夫射殺の心理を描いた作品。晩年において武田泰淳は、コレは自らの体験だったと告白したらしい。
私は堀田善衛の文章や「史記」論に寄せた武田泰淳の知識人としての誠実な姿を知っている。
俄には、コレは信じがたいことだった。
高橋源一郎は、Twitterでこのように言っている。
「武田泰淳は『審判』で「知的訓練のない」兵士(庶民)がどんな思考回路で中国農民を虐殺するかを書き「知的訓練がある」(自分のような)兵士がどんな思考回路で農民を殺すかを「内側」から書いたが、本当に恐ろしいのは、この小説を読んでいると我々日本人はまたきっと同じことをすると思えてくることだ。(2019/08/03)」
その通りかもしれないが、正に恐ろしいことだ。
しかし、それを見つめることの中にこそ、「世の中で大切にしなければならない核心がある」。
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高橋源一郎が何を書くのか?というのはずっと追い続けていたいと思っているのですが、そうしていてよかったといつも思う。こんなに、僕の気にしていることを書いていてくれると感じさせるのがうまい人がいるのかと思う。ひょっとして本当に僕の心の中を除いてるんじゃないかな。と思うほどに。
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文学苦手なので読んでみた。話のスケールがどんどん大きくなり、読むってそういうことか、とストンと腑に落ちる。 NHKラジオ 高橋源一郎の飛ぶ教室 で、カミュのペストのときに使われた「ことばという感染症」という表現もすこし分かったので、新刊も気になる。
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ラジオ「飛ぶ教室」を愛聴しているので、あの和やかなムードを予想して楽しみな気持ちで読み始めた、ところが!やはり、高橋さんは作家である(失礼…)。スリリングな体験としての「読む」を味わえる素晴らしい著作だと思う。
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ちょっとわかりやすく、そして、深く、読むことってどんなことか、教えてくれる。小学校の国語の教科書に書かれている、読みかた指南。高学年に向かって書かれた、言外の心情を慮って読む、というのは、あまりできてないかも、と思った。読む道は険しい。
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どんなこと?に対する答えは示されない。
それどころか風呂敷は広がり続けていく。
読む文章の類型はたくさんあって、それは教科書通りの「読み方」では捕捉しきれない。
できないことを想像させる文章があって、
想像しきれない境遇の人の文章や思いがあって、
見てはいけない文章や、
社会の体裁上取り扱えない文章、
「私たち」の植え付けに気付くための文章がある。
「私」に「社会」が求めるもの
「個人」であり続けること
読むってどんなこと?の答えは、
「個人」に委ねられている。ということを
構造として表現してる本。
結論は出さない、風呂敷は広げたままで
文章を前にわくわくしよう。