紙の本
マルクス哲学の神髄と萌芽
2018/05/31 20:10
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:病身の孤独な読者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
マルクスは世界に誤解を与えてしまった。日本では「共産主義の父」とか「革命といえばマルクス」とかそのような印象があり、「マルクス」という用語自体が禁忌であるかのような扱いを受けている。あえて先に述べておくが、評者はマルクスを支持しているわけではない。しかし、誤解されたマルクス思想の批判を進めたり、マルクスの思想をなんとなくタブー視されているから知らずにいるというのは、非常に危険であるかのように思われる。本書は、言わずもしれたマルクスの代表作の一つである。初めに有名な、社会階級の発展過程と若干の革命をにおわすところがあるが、本書の胆はそこからである。マルクスが行おうとしていたのは、これまで形而上学という名のもとに抽象的に語られてきた経済を商品交換過程や労働者から始め、いわゆる生きた労働を基に経済学を構築しようとしていることである。具体的にはヘーゲル批判から始まるのだが、マルクスの視点と考えには考察・検討する価値はある。もちろん、限界点は多数あるのだが、それを差し引いても本書の意義は大きいと思われる。
投稿元:
レビューを見る
ドイツの哲学者、マルクス(1818-83)/エンゲルス(1820-95)の共著。1846年刊。唯物史観提唱の著。この著における「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」という言葉はあまりにも有名である。この著を読めば、マルクス・エンゲルスの基本理解は得られるだろう。
投稿元:
レビューを見る
私は自らの研究の最も重要なテーマの一つにイデオロギーを据えながらも,イデオロギー研究の出発点ともいえる『ドイツ・イデオロギー』を読んでいなかった。そもそも,マルクスの著自体,『共産主義者宣言』(太田出版),『哲学の貧困』(岩波文庫)に続いて,3冊目にすぎない。だから,そもそもマルクスの人生において,本書がどの辺に位置づくかも知らなかったし,そもそも,本書がエンゲルスとの共著ということすら知らなかったのだ。
そんな浅はかな私だから,ともかく新しい版の方がよいと思って,この岩波文庫版を古書店で見つけて購入したわけだが,内容以前にもいろいろ考えさせられる本であった。まず,『ドイツ・イデオロギー』はマルクスの生前には出版されなかったということ。だから故に,未完のままであり,その構成および構想も決定しないまま残されたようだ。なので,さまざまに出版されている『ドイツ・イデオロギー』は少なからず編集者の解釈を含んだものであるらしい。そんなことから日本のマルクス研究者である廣松 渉氏が1974年に河出書房からドイツ語の原語と併記して出版したということだ。それは『ドイツ・イデオロギー』を初めて読む人のためのものというよりは,マルクス研究者のための文献学的な成果ともいえるものだったようだ。それがその後,他の訳者による版も有している岩波文庫として出版される計画があったが,その後廣松氏が亡くなってしまい,その後の作業を小林氏が引き継いだとのこと。
ということで,本書にはドイツ語は併記されていないが,マルクスとエンゲルスの手書き原稿と丁寧につき合わせて日本語化したのが本書。エンゲルスの原稿は明朝体で,マルクスの原稿はゴシック体で,それぞれの草稿に対して各々が書き入れた補足文や削除箇所,訂正なども何種類かのボールド体を使って区別され,さらにさまざまな注から成り立っている。正直いって,私のような読者にはとても読みにくいが,この2人の努力を思うとありがたく,丁寧に読むしかない。そして,本書には数枚の手書き原稿の写真が印刷されているが,これがとても面白い。といっても,文字が読めるはずはないのだが,面白いのは文字ではなくイラスト。
さて,本書から学ぶことは大きかった。といっても,いわゆるドイツ観念論批判は前半に集中していて,後半はイデオロギーとはほとんど関係ない,歴史的記述に移行する。そういえば,『共産主義者宣言』を読んだときもそうだったなと思い出す。さて,私は10年以上前から「唯物論」とは何か,ということを時折考えている。地理的表象を研究している私の立場は大雑把にいえば観念論的である。しかし,よって立つ立場からいえば「文化唯物論」を参照すべきなのだ。しかし,いまだにウィリアムズをきちんと読んでいないし,唯物論について書かれた本からもどうも納得したものはない。ちなみに,本書でよく出てくるフォイエルバッハの『唯心論と唯物論』も実は読んだことがあったのだ。しかし,マルクスとエンゲルのフォイエルバッハに対する評価も一筋縄ではなく難しい。
ちなみに,現在の地理学では20年前に流行った表象研究の行き過ぎに対して,「物質」なるものの復権が叫ばれている。しか��,そこでいうところの「物質」とは何を示しているのか判然とせず,どうにもこの種の議論には違和感を抱いていたのだが,それについては本書を読んですっきりとした。本書において「物質」という言葉はよく出てくるが,それは自然科学が対象とするような物質ではない。物質的交通と精神的交通(ここでいう交通とは関係性やコミュニケーションのこと),物質的労働と精神的労働などといった対比で用いられ,経済活動こそが社会編成の基礎だという。ここに,有名な土台-上部構造の理論も垣間見れるし,精神というものが社会的な生産物であるという今日的議論も登場する。そして,極めつけが「われわれはただ一つの学,歴史の学しか知らない」(p.24)というエンゲルスの言葉こそ,まさしくマルクス主義的な立場であり,だからこそ本書の前半で歴史と乖離した観念学を批判し,後半で自ら歴史記述を実践した,といえるのだろうか。
投稿元:
レビューを見る
マルクスとエンゲルスの草稿。題名どおり、当時のドイツ哲学界におけるイデオロギーを批判し、新たな理論を構築しようという意気込みに満ちた著作。「ドイツ・イデオロギー」が具体的に誰の思想を意味しているのかという点はもっと考慮されていいように思うが、理論の精緻さのみを重視し感覚的な人間を忘れているという批判はいまなお薬としては有効だろう。もちろん、マルクス主義そのものがそうしたイデオロギーに堕しているという可能性は常に考慮されてしかるべきだが。いずれにせよ、理論と実践の問題を考えるうえでは欠かせない著作内容。
投稿元:
レビューを見る
マルクスやエンゲルスの体裁が整った著作とは違って、これはノートのような紙に思いついたこと、またはどこかで学んだことをひたすら書き連ねた本である。またエンゲルスが主に執筆した箇所をマルクスが書き加えたり、線を引いて消したり、また絵のような内容を書き加えたりしている。
体裁が整った著書は当然だが取捨選択しているので、彼らがどのような発想をしているか、も当然だが取捨選択している。しかしこの本に関しては思いついたこと、また学んだことの成果をそのまま載せているので、彼らがどのようにして「唯物史観」や「共産主義」の原理を構築したかが読み取れるし、またフォイエルバッハの哲学をどのように学んでいたか、が分かる。
とはいえ、断片的であるのは当然で、分かりにくいのはたしか。ただ生々しいマルクス、エンゲルスの頭の中身がわかる気もする。
投稿元:
レビューを見る
とにかく読みにくい。ぐだぐだと考えたことが述べ連ねられている。そこかしこに後に資本論で書かれることのメモ書きが顔をのぞかせている。不完全であるが故に、なぜ資本論がいわゆるマルクス主義として読むことのできる書物になってしまったのかが想像できる。ドイツイデオロギーの方が言いたいことがまとまっているから。資本論は敵が増え過ぎて誰に対してなんのために書かれているのかよくわからない。この本では確かに唯物史観である。しかしそれは、ヘーゲル左派の論敵が史的唯物論でないからにすぎない。資本論でわからないことかはドイツイデオロギーではわかる。でも資本論はわからない。
投稿元:
レビューを見る
面白い。
分業による所有形態の多様化。
その前提としての、生産形態・交通形態のあり様について。人間を規定する諸条件あるいは階級は、そうした物質的形態に関係する。
投稿元:
レビューを見る
マルクスとエンゲルスが、彼らなりの唯物史観を思いつくがままに書きなぐった著作。
書きなぐった、というのは大げさな表現ではないだろうと思う。メモ書きのような断片が多く、それらから彼らのフォイエルバッハ理解を知ることができる。理論重視で突っ走ることから、イデオロギーという言葉を知らしめた一冊であることも頷ける。
投稿元:
レビューを見る
『ドイツ・イデオロギー』は、1845から46年にかけてマルクスとエンゲルスが共同執筆した草稿である。この草稿の編集をめぐっては、研究者によりこれまでにいくつかの版が発表されてきた。初めて公刊されたのは1926年のリャザーノフ版であるが、リャザーノフがスターリンに粛正されると1932年にアドラツキー版が刊行された。長らくこれが「決定版」と看做され、古在由重による岩波文庫の旧訳もアドラツキー版に基づく「抄訳」であった。廣松渉は夙にアドラツキー版の問題性を断罪してきたが(『マルクス主義の成立過程』参照)、その集大成が自ら編集した『手稿復元・新編輯版ドイツ・イデオロギー』(原文テキスト+邦訳テキスト)である。それから約30年の時を経て、ついに古在訳に代わり廣松訳が岩波文庫に採用されることになったが、廣松の他界により廣松訳をベースに小林昌人が翻訳を完成させた。廣松によれば『ドイツ・イデオロギー』はマルクスが疎外論から物象化論に転回したことを示す重要文献であり、それを廣松自身の翻訳で文庫として読むことができるのは実に有り難い。
投稿元:
レビューを見る
内田樹・石川康宏の『若者よマルクスを読もう1・2』で引用・紹介されて面白そうだった『ドイツイデオロギー』を早速読んでみた。
この本は、マルクスとエンゲルスの両者が共同して書いていた手稿を、むりやりツギハギしたもので、普通の体裁の本よりも少し読みづらい。ぼくは、最初の凡例もろくに読まず、ざくざくフィーリングで読みすすめた。
全体は、「ドイツイデオロギー」すなわちヘーゲル学派がいかに間違っているか、を言い立てる前半部と、マルクス乃至エンゲルスの史的唯物史観を、具体的に開陳してみせる後半部とにおおざっぱに分けることが出来る。
『若者よマルクスを読もう1・2』でも引用されていた、「重力の思想に取り付かれた男」の話は、ドイツ観念論がいかに間違っているかを示す比喩で、全体を通してもやはり印象に残った。重力の思想に取り付かれている事が原因で、男は重力に支配されて水に溺れてしまうのだから、重力の思想さえ忘れる事が出来れば、以降溺れる恐れはない、という戯画はヘーゲル哲学のあてこすりである。つまり、ヘーゲルによれば、人間が考えたことに世界が支配されるのであって、世界が人間の考えることに支配を及ぼすのではない。マルクスはこれを「逆立ち」と言っている。
前半は抽象度が高く、手稿の入り乱れ方も激しくて、よく分からなかった。もっとも、文中で槍玉にあがっているヘーゲルもフォイエルバッハも、基礎教養として欠如しているので、分からないのが正しいのかもしれない。「聖マックス」とか「聖家族」とか「聖」という語がしばしばキーワードになっているのもどういう意味なのか、おそらく先行文献を参照しないと、文脈が分からない。しかし、後半は歴史がいかに「生産緒力」と「交通」と「分業」によって、メカニカルに即物的に発展してきたか説明していて、基礎教養も必要なく、面白く読めた。
このへーゲルとマルクスの相違というのは、超越と内在の相克という対称として、プラトンとアリストテレスから続く相克の系譜とも照合できるのかもしれない。とりあえず、次はヘーゲルの『歴史哲学講義』にブックサーフィンしてみようと思う。
投稿元:
レビューを見る
ドイツ・イデオロギー 新編輯版 岩波文庫
(和書)2009年09月18日 22:25
2002 岩波書店 廣松 渉, マルクス, エンゲルス
岩波文庫の新編輯版の前に出ていた「ドイツ・イデオロギー」は読んだことがあったのですが今回この本で再読してみようと思いました。内容も随分前に読んだので忘れていました。それも丁度良かったかもしれません。
とても興味深く読めました。
投稿元:
レビューを見る
「大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝 (斎藤幸平著)」と「コモンの再生(内田樹著)」からの流れで本著を手に取った。
本著138頁からの{84}a=[40]の節、「こうして、ここに、自然発生的な生産用具と、文明によって創出された生産用具との差異が際立ってくる。(中略)第一の場合、つまり自然発生的な生産用群も場合には、諸個人は自然に服属させられ、第二の場合には労働の生産物に服属させられる。それゆえ、第一の場合には、所有(土地所有)もまた直接的・自然発生的な所有の支配として現れ、第二の場合には労働の、とりわけ蓄積された労働の支配として、つまり資本の支配として現れる。(後略)」に始まる本節をじっくりと吟味したいと思う。
投稿元:
レビューを見る
マルクス主義の特徴である唯物史観や共産主義の構想、革命の必然性などが本書から確認できる。とはいえ、通常の書物の構成と異なり、本書はマルクスが遺した草稿の修正案が複数記載されていたり、文章の一部が欠落しているなど、読み物として体を成していない。したがって、この本にまとめられたことが、必ずしもマルクスの意図と一致しないことを、読む際に念頭に置く必要がある。