波のような言葉たち
2022/08/31 03:35
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投稿者:une femme - この投稿者のレビュー一覧を見る
男子六人(男三人、女三人)の独り言が、時期や場所の変化に伴い、波のように繰り返しながら、少しずつ変化していくのが面白い。
独白の内容は、それぞれが抱えた、思いや葛藤、不安や希望など、他人には話せない心の内である。幼少期のモヤモヤした不満や違和感、思春期の揺らぎ、青年期の野望や不安…。
瑞々しい言葉は、波のように、時にぶつかり合い、静まり、高まりながら、繰り返し綴られる。
作者自身が、プレイポエムと呼んだ本書は、言葉で描いた絵のよう。
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ほんとにね、寄せては返す波のようだよね、文章が。なんだか主体の境界線が溶け合ってしまって誰ともいつとも定かでないような感じがして、『きことわ』がこれの何かを受けているのかなとちょっと思いました。
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ちゃんと入ってきていない。
詩に触れてこなったし(散文とは言え詩的な受容体を要する気がする)、読むのに早すぎたか遅かったかもしれない。味わいはまだ。うっすら。これが円だとすれば、接線にぶつかれば円に入っていけるのに、まだ平行線、とでも言おうか。
感性で読みたいのに邪魔が入ってきてしまう。本の読み方、意識の仕方をやっぱり鍛えないとな、と思った。
美しい本だと思う。
繰り返されるフレーズ。
青灰色の装丁、よくぞ選んでくれた。
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本書の刊行記念イベント 「ヴァージニア・ウルフとの新たな出会いとその先」に参加する前に読んでおこうと思って手に取った。
イベント開始10分前に、なんとか読了することができた。
僕のような生来の愚図には、この読書法はかなり有効なようだ。/
いわゆる「意識の流れ」、あるいは「内的独白」の小説ということで、やや敷居が高い感があった。
ジョイスの『ユリシーズ』は未だに積読だし、この手の手法の作品はあまり読み慣れていないのだ。
せいぜい、ずいぶん前に読んだ安部公房の『時の崖』を思い出すくらいだ。
いや待てよ。誰か一人忘れてるぞ。
そうだ!ナタリー・サロートがいた。
確かに、英米文学軽視の僕はジョイスもウルフも読んではいないが、サロートの「地下のマグマ」になら何度か触れたことがある。
サロートこそは彼らの流れを汲む者ではないか。
であれば、それほど怖れることはないのかも。/
6人の登場人物たちの内的独白を読みながら、ふとダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』のことを思い出してしまった。
6人の登場人物たちが、解離性同一性障害の別人格たちに見えてきてしまったのだ。
Wikipediaのウルフの記事に、異父兄から性的虐待を受けていたと書かれていたのを読んだせいかも知れない。
もちろん、ウルフが解離性同一性障害だなどという記事はどこを探しても見つからないし、そもそも僕はこの病気の何たるかも知りはしない。
いつもの僕の誤読なのだろうが、そうだとしても、俄然この作家に興味が湧いてきてしまった。/
『ダロウェイ夫人』をモチーフにしたマイケル・カニンガムの映画『めぐりあう時間たち』【注1】を観てウルフの最後を知った目で見ると、本書中には、タイトルの「波」を始めとして、「水底」、「川」、「流れ」などの言葉が光って見えてしまう。/
濱西 和子の論文『ヴァージニア・ウルフの作中人物に見る神経症的要因―『ダロウェイ夫人』と『波』の二作品をめぐって-』【注2】によれば、精神科医の神谷美恵子は、「ヴァージニア・ウルフ研究」【注3】の中で、ウルフは躁うつ病であると診断を下しているとのことだが、いずれにしろ、病を抱えつつ生きたウルフという作家への興味はつのる一方だ。
平野啓一郎の「分人」【注4】、ビリー・ミリガンの24人の「人格」たち、『波』の6人のキャラクターたち、これらそれぞれの相違については、これから考えていきたい。
ウルフ自身が「プレイポエム」と呼んだ文体からは、ウルフの心臓の鼓動が聞こえてくるようだ。
いずれ、また読むことになるだろう。
《さあ、ぼくの内部に、あのいつものリズムが湧きあがってきた。眠るように横たわっていた言葉が、いまうねり、波頭をもたげ、崩れては盛りあがり、崩れてはまた盛りあがる。ぼくは詩人だ、そうだ。ぼくは偉大な詩人なのだ。過ぎゆくボートと若者たち。はるかな木々、「しだれる細枝の噴水」。ぼくはすべてを見る。すべてを感じる。霊感が満ちる。目に涙が溢れる。それでもこれを感じつつ、ぼくは熱狂をさらに高く高くかり立てていく。》
《そうしていま自らに問うのです。「私は何者だ?」と。私はバーナード、ネヴィル、ジニー、スーザン、ロウダ、ルイの話をしてきました。私はこのすべての人物なのでしょうか?それともひとりの個別の人間なのでしょうか?》
【注1】
マイケル・カニンガム『めぐりあう時間たち』:
Wikipedia:
https://ja.wikipedia.org/wiki/めぐりあう時間たち
【注2】
ヴァージニア・ウルフの作中人物に見る神経症的要因
―『ダロウェイ夫人』と『波』の二作品をめぐって-
(濱西 和子。富山大学学術情報レポジトリ)
https://toyama.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=2973&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=32&block_id=36
【注3】
神谷美恵子「ヴァージニア・ウルフ研究」:
神谷美恵子著作集 4 ヴァジニア・ウルフ研究
(1981、みすず書房)
【注4】
平野啓一郎の「分人」:
『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社)
訂正:マイケル・カニンガムの映画『めぐりあう時間たち』→
『めぐりあう時間たち』は、スティーブン・ダルドリー監督。マイケル・カニンガム原作でした。
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ヴァージニアウルフ、幕間で挫折してる。波。なんとも詩のことばでストーリーは掴めない。こんな読書体験はしたことないかもと思いながら読んでいます。
923読了。
いままでよんだ小説でいちばん追えなかった。
さいごのさいごで、男女6人がなにものだだったのかが薄ぼんやり。
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パフォーミングアーツを鑑賞しているような感覚だった。タイトル通り、誰かの語りに別の誰かの語りが(場合によっては同じ人の語りが)打ち寄せては消えていく。感情を揺さぶるでも、答えにたどり着くでもない、こんな読書体験があるのかと読み終わって震えた。
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台詞がト書きのような具合で延々続き、台詞だけで物語が展開していく。劇=詩《プレイ・ポエム》の極地ここに極まれり。
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独特な文体でしたが、とても新鮮な読書体験ができました。綺麗な小川の流れを見ているような気持ちで読みました。内容は少々難解で分からない部分も多かったのですが、雰囲気の勢いに任せて味わいました。間に挟まれる1日の時間の描写が素敵でした。
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全体を通して詩的、抽象的、暗示的な言葉が溢れているので、一度読んだだけでは細部までは到底理解できない。
まずは「6人のうち誰に一番共感出来るだろう」などと考えながら最後まで筋を追ってみた。
寄せては返す波のように、6人の感情の揺れ動きが非常に印象深い。羨望と軽蔑、愛情と憎しみ、一体感と疎外感。
親しい人物に抱く、相反するが並立する感情が、難解だが美しい表現で綴られている。
訳者の解説にもある通り、6人にはウルフの多面的な部分が投影されているようだ。
また、バーナードが自分に言い聞かせるように繰り返す、「月曜日のあとには火曜日が来て、また水曜日が続くのです」という言葉。仕事を持ち、家族を持ち、家を持ち、一見すると豊かで楽しい人生を送っていても、どうしても埋められない虚しさと物足りなさがある。しかし、次の瞬間には、折り合いをつけてやっぱり楽しく人生を謳歌しようではないかと、前を向く。
このバーナードの気持ちが一番共感出来たかもしれない。人間の本質的な感情をよく表していると思った。
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SNSでおしゃれに紹介されていて、憧れを持って手に入れて、読み出してびっくり!難しいというか、流れが、意味が頭に入って来ない…最初の20ページほどで中断し、数ヶ月。それでも何とか再開し読み進めるうちに、(ああ、タイトルの波とは、この波のように寄せては返すような文章の構成のことを言うんだな…)と理解してから何とか最後まで辿り着きました。訳者あとがきに著者ウルフのご主人が「一般の読者には最初の100ページは難解すぎるだろう」とおっしゃったとあり、私は心の内で「それな!」と叫びました(笑)私が特別読解力がないわけではなかったのだ…と安堵しました。というわけで、内容についての感想はあと2回くらい読まないと書けそうにありません。頑張ります(拳)
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同窓の男女6人の人生が彼らの独白オンリーで綴られているんだけど、あまりに詩的で繊細、内面的に描かれていてはっきりした筋を追うような作りにはなっていない。ところどころで海辺の夜明けから日没までの美しい風景描写が挿入されて、人生のうつろいと重なり合う。読み始めは素敵だなあと思ったものの、ずーっと同じ調子にあいまいで装飾が多い文章なので疲れてしまった。飴玉をなめるみたいにゆっくりゆっくり読む本だと思う(そうしなかった私に非がある)。一番好感度高かったのはロウダ。最後に自殺したことが明かされるけど、そうなっちゃうよねえ、と思わされる。
全体を通して精神しか書かれないので、中盤で皆の精神が溶け合い、一つになったかのように感じられるシーンも自然と入ってきた。自分たちは6人の個別の存在ではなく、一つなのだとバーナードは言う。そもそも最初から、彼らの独白は会話しているわけでもないのにお互いに答えあっている。でも、ゆるくつながった独白で進めるという書き方がその焦点に特化しすぎていて、感動的というよりは、そういう風に書いてあるからそうなるよな、という感想が勝った気がする。
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『波』を読み終わった後に何を読めばいいかわからない。土曜の夜11時に。1人で座っているときに。読書プランはあった。でもいまどこに居るんだ?ここからどこに戻ればいい?最も近そうな他のウルフ小説でさえ、永遠の彼方に感じられる。この空間、この思考。これが終極点?これがブラックホールの中心なのか。目を閉じて、この思念を抽象化し傍に避けてしまって新しい余地を生み出す?そしてその入れ物に次のインプットを待ち受ける?それが人生なのか。明日が月曜日でないとしても、いつかは常に月曜日が来る。せねば、せねば、せねば。そこから逃れる術はない。しかし、ここにいて、この戸惑いに目を背けるだけで抱えることになる虚無感、それはどんな本にも癒せない。そもそも初めからそういうルールで人生が進んでいく(かのように思える)こと自体も、『波』の空間からは全時間を凍結し、それら全てを見渡す視野と精神の領域を感受したのではないか。仕方なく、積み上げてきた読了本の山が崩れ去り、心の中からフレーズが消えていく、そのときを待ち受ける。静かに動かず、自分の喪に服すように。あるいは何かフレーズに頼って書き残したり、気休めに10秒数えて節をつくり、次の本を読む口実を、人生自体を問うのではなく、人生上での行動と経験を探るための嘘を重ねるしかない。いつか打ち立てたフィクションは現実に勝るという信条を、人生とはフィクショナルなものなのだというフレーズに刷新し、死を思うことも、美そのものに対する切迫性も捨て去る。身軽になり、現実という言葉の海、虚構に、回帰するのだ。少なくともそれは死と対極にある。
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これこそ私が目指していた既存の支配的な言語体系を解体したものでは。波のごとく、寄せては打ち返す人生の悲哀を、敢えて6人のアイデンティティーを融和させることにより、美しく描き出す。