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ジャンル:教養
原書には「不条理についての試練」という副題が付いている。
社会に出ていくまでには読みたい。
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真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生生きるに値するか否かを判断するこれが哲学の根本問題に答えることなのである。
どんな偉大な行動、どんな偉大な思想もその始まりはささやかなものだ。
自らの挫折の中に信仰を持つものは自らの勝利を見出す。
人生は意義がなければないだけ、それだけいっそうよく生きられるだろうと思えるのである。
思考するとはなによりもまず、ひとつの世界を作ろうと望むことだ。
わずかな哲学は人を宗教から遠ざけるが、多くの哲学は人を宗教へと連れ戻す。
わずかな思考は人を生から遠ざけるが、多くの思考は人を生へと連れ戻す。
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うーん。かなり難しかったです。
いい年ですが、最近、読書の面白さに目覚めいろいろ読んでいますが、これは、ちと早かったかな。でも何となくは解ったような...
是非、もう一度、読んでみよう。
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内容(「BOOK」データベースより)
神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。―本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追究したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。
Le Mythe de Sisyphe by Albert Camus
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シーシュポスが科された罰は、生きることそのものです。人間は死ぬのがわかっていながら、なぜ生きなければならないのか・・・。
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人生が生きるに値するか、あなたは悩んだことがあるだろうか?
今はつらくても、何かに納得ができなくても、明日になれば、もう少し大人になれば、どうにかなると思っているだろうか?
けれど、本当に明日がやって来るのかはわかりえない。
いつか、必ず死ぬときがやってきて、その希望を打ち砕くときがくる。
死が訪れる日を肉体は全否定しているのに、精神は明日の存在を渇望している。
では、人は自ら死ぬべきなのだろうか?
明日への不安、肉体と精神がもたらす「不条理」から逃れるために、自殺するべきなのだろうか?
それは間違っている、そうするべきだ、どちらを判断したにしても、カミュの書いたこの本を是非読んでいただきたい。
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無知な自分には、全て理解することができなかった。
大げさかもしれないが、人生を変えるだけのパワーをもった作品。
人生は不条理だと感じ、劣等感を持つ人にこそ読んで欲しい作品。
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カミュが自らの文学の主題である不条理について論じた、哲学的エッセイ。
カミュは「不条理」を次のように捉えている。人間には世界を理性(logos)に基づいて意味付けしようとする本質的な志向性があるが、世界の側は人間の理性を一切受け付けずこの志向性を常に裏切る。このように人間と世界が相対立した状態、人間と世界を結ぶ唯一の関係性が、「不条理」である。この不条理を自覚してしまった人間にとって、人生は生きるに値するのか。不条理は人間に自殺を要求するのか。これが本書の唯一の問題である。この問いに対峙するに際して、カミュは断固として不条理から目を逸らさない、不条理の自覚を手放さない。ヤスパース・シェストフ・キルケゴール・フッサールの"実存哲学"は、不条理(=人間と世界の和解不可能な絶対的断絶)を解消してしまおうとしている(「飛躍」「(生を超えたものへの)上訴」と表現されている)として「哲学上の自殺」であると批判される。
問いに対してカミュは答える。不条理を自覚しそれと不断に対峙し続けねばならぬ。反抗せよ。自殺は不条理に対する屈服である。人間は世界に対して意味を付与しようと反抗し続け・そして敗北し続けよ、不条理というその反抗の絶対的な不可能性を自覚しつつ、その上でなおその不条理に対峙することを決して放棄することなく。希望などない、何も解決しない、問題は先鋭化されるばかりだ。しかし「こうした反抗が生を価値あるものたらしめる」。
更に論を進め、人間の凡ゆる秩序付与を世界が峻拒するという不条理こそ、自由の根拠だとする。そして、凡ゆる価値判断が無効となり事実判断のみが為される不条理のもとで「重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだ」「自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能な限り多量に感じとる」ことだ。不条理を自覚し、瞬間(「現在時」)を生きよ(「明日というものはない」←連続的な時間の継起という観念は生を目的-手段連関で埋め尽くそうとする合理性による意味付与から生じる。『美と共同体と東大闘争』参照)。
私は、不条理というものを冒頭に書いたカミュの定義とは若干異なる仕方で捉えていた。則ち、「logos(理性、言語、論理、自己意識)による世界の対象化は虚偽であり私はそれを否定しようとするが、否定を遂行した瞬間その対象は logos による別の規定を不可避的に受けるしかなく、それがまた虚偽として否定の対象となり、以下この否定運動が無限に続き・決して何らか積極的な実体には到り得ない」という事態として(cf. 否定神学、ロマン主義的アイロニー)。人間は世界を覆う虚偽を否定し続け・そして敗北し続けよ、否定を完遂することの不可能性を自覚しつつ、その上でなお否定運動を決して放棄することなく。他にしようがない。これは、カミュの描く「不条理のもとでの反抗」という生の在り方に近いと思う。ただ、カミュは"人間"が世界を意味付与しようとして"世界"がそれを拒否するとしているが、私は"人間"が世界を対象化しようとして且つ"人間"がそれを否定するとしている点で異なる。また、カミュは自殺を認めないが、私は否定運動の���限に於ける自己否定としての自殺は・認めないとしたところで意味がないと思っている。こうした差異を自分なりに解釈し直した上でならば、カミュの描く「不条理のもとでの反抗」という生の在り方を、私は受け入れられる。
そして、不条理を自覚し反抗という形で不条理を生き抜くことを通して、自分の運命は――自分を超越した何か(神など)ではなく――まさに自分自身が支配しているのだということを知る。そのとき、不条理を自覚し・それを肯定する以外にはないということを知ったシーシュポスと同様に、不条理を生きる人間は「幸福」である。 何と苦悩に満ちた「幸福」であろうか、その苦悩には自分独りで対峙する以外にないのだ。
カミュの傑作。
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人間は終わりの見えない、無目標の作業をする時が一番つらいらしいです。そんな類の話を、わざわざ難しく書いています。でも今作は少し神話に題材を置き、自身の哲学を出すあたりはさすが。痛烈なことを言いながら、決して声は荒げない、紳士カミュに座布団一枚!
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難解な本である。思考の水平線をカミュと同じ高さに保ち続けないと、論理を維持するのが困難だ。
自分が10代に考えていたことを明らかにしてくれた箇所があり、深く感動した。
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読んだのは1年も前だけど感想書いてなかった。まとめないと忘れる。
不条理と自殺との関係についての本。
曰く、「不条理」とは”この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態”、或いは“欲望する精神とそれを裏切る世界とのあいだのあの背反状態”、或いは”人間と世界とを結ぶ唯一の絆”。
実存哲学者達は人の理解を超えたものを神と呼び、不条理を生きる苦しみから逃れようとする。世界の不思議を全て神様の仕業にして受け入れてしまう。が、カミュは「不条理=神」とするのは飛躍だ、逃避だと批判する。
“シェストフにとっては、理性はむなしい、が、理性を超えたかなたになにものかが存在する。不条理な精神にとっては、理性はむなしい、しかも、理性を超えたかなたにはなにもないのだ。”
この絶望の中で、生きるべきか、死ぬべきか。カミュは生きるべきだと言ってる。
不条理は人間と世界との関係、対立のなかにあるから、対立の一方の項を否定すること(自殺)もまた不条理から逃げ出すことになる。神を信じることも自殺することも拒むとき、残った選択肢、“筋道の通った数少ない哲学的姿勢のひとつは反抗である”。
“反抗とは、人間と人間固有の暗黒との不断の対決だ。不可能な透明性への要請だ。”
“この反抗とは、圧倒的にのしかかってくる運命の確信―ただし普通ならそれに伴う諦めを切り捨てた確信―それ以外のなにものでもない。”
“意識的であり続け、反抗を貫く―こうした拒否は自己放棄とは正反対のものだ。人間の心のなかの不撓不屈で情熱的なもののすべてが、拒否をかきたてて人生に立ち向かわせるのだ。重要なのは和解することなく死ぬことであり、すすんで死ぬことではない。自殺とは認識の不足である。不条理な人間のなしうることは、いっさいを汲みつくし、そして自己を汲みつくす、ただそれだけだ。不条理とは、かれのもっとも極限的な緊張、孤独な努力でかれがたえずささえつづけている緊張のことだ、なぜなら、このように日々意識的でありつづけ、反抗を貫くことで、挑戦という自分の唯一の真実を証しているのだということを、かれは知っているのだから。”
生きる。具体的には、より多くを生きる。
“同じ年数を生きたふたりの人間に対して、世界は常に同じ量の経験を提供する。それを意識化するのは受取るぼくらの側の問題だ。自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能なかぎり多量に感じとる、これが生きるということ、しかも可能なかぎり多くを生きるということだ。”
こんな感じだったと思うけど、腑に落ちない点もある。
全てを知りたいって欲求はめちゃめちゃ大きいし、どこまでも理性的でありたいって気持ちも理解できるけど、神(どんな神かにもよるけど)を信じるからといって、そこで思考停止に陥る人ばかりでもないと思うけどなぁ。
それから不条理=神とすることを拒むのは、どこまでも理性的であるって前提で納得できるけど、自殺によって不条理から逃げちゃいけな��理由、反抗しながら生きなきゃいけない理由が、“偏見のない人間にとっては、知力が自分の力をはるかに超える現実と格闘している姿ほど素晴らしい光景はない”、つまり「抗ってる自分かっけぇ!」だけなのはすごく弱い気がする。人生の意義は意義などない人生を生き抜くことだ、それを生き抜くのがカッコイイんだと言われても、そう思えない人には自殺を思いとどまらせることができない。
あと、“重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだ”っていう具体的な生き方に関して。“生の意義を信じることは、つねに、一連の価値の階梯、ある選択、ぼくらの好みを前提としている。不条理を信じることは、これまで定義したところにしたがえば、それとは反対のことを教える。”ってことで、不条理を生きる人間には良いも悪いもない、”どの行為の結果も等価値”だと言ってる(これは犯罪を勧めるものではないとも言ってる)けど、何だかあらゆるものから自由でいることにこだわりすぎてるんじゃないかって気がする。“自分の人生に何か一つの目的を思い描いている限り、かれは目的を達するのに必要なことをしようと従順で、自分の自由の奴隷になりつつあったのだ。”なんてことも言ってるし。なにものからも自由でありたいがためにこの論理をつくり上げたんじゃないかって気もしなくもない。
ただ語り口はやたらかっこいいのでぐいぐい読ませる。以下は一年前の自分が付箋貼った箇所の一部。
“おのれを殺す、これはある意味で、告白するということだ。生に追い抜かれてしまったと、あるいは生が理解できないと告白することだ。”
“ごまかしをしない人間なら、真実だと信じていることがその行動を規定するはずだということを、原則と認めることができる。”
“ひとりの人間にとって世界を理解するとは、世界を人間的なものへと還元すること、世界に人間の印を刻みつけることだ。”
“まったく道徳的だと思えるひとつの明々白々たる事実がある。人間は常に自分が真実と認めたもののとりこになってしまうということだ。”
他にも印象的な言葉がたくさんあるよ。
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不条理についての考察が前半でなされています。
カミュは繊細で優しくて大好きな人間です。
ゆっくりしっかり読み進めたいと思います。
不条理は西田幾多郎先生の絶対矛盾自己同一性と一致する部分が多いように感じます。
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日本で言う賽ノ河原ですな。繰り返し繰り返し同じ現象をすると頭がイカレるっていいますね。不条理だ。不条理だ。てか、カミュの作品なのにカフカの解説はいってません?これ?不条理だ。
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読み進めるのが難しく少しずつ読みました。
後半へいくほど高揚感が高まり、
読後には爽やかな気持ちになりました。
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11月24日 成田くん紹介
生きる不条理性を超越したシーシュポスについて、気鋭カミュによるによる論証