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ずいぶん悲しい。
悲しいエッセイですが「生きるってそもそも悲しいもんじゃない」という誰かの台詞を思い出します。
悲しいほど素敵です。
そんなものはないのかもしれないけれど、彼女の友人を眼差す方法に憧れます。
こんな文章を紡げるのは、どれだけその対象の人物に愛情を注げていたかということです。
どの人たちもみんな個性的。
ひょっとしたら街の中で一列に並べられたら見落としてしまいそうな人たちが、豊かな言葉で「世界にたった一人の人」としてたち現れてきます。
これは狙いなのか、それとも意図せずなのかは分かりませんし、そうできなかったのかもわかりませんが、彼女の夫であったペッピーノの死を主に物語る章というものがありません。
けれど、どこにもその気配が漂っています。
覚えておきたい。「入り口のそばの椅子」のツィア・テレーサ、「銀の夜」のダヴィデ、「夜の会話」のフェデリーチ夫人とサンティーナ、「大通りの夢芝居」のミケーレ、「家族」のニコレッタとベルトとノラとピシュタ、「小さい妹」のガッティ、「女ともだち」のガブリエーレ、「オリーヴ林のなかの家」のアシェル、「不運」のカルラとガストーネ、「ふつうの重荷」のルチア。
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1960年代のミラノにあった書店を舞台にしたエッセイ。コルシア書店は書店でありながら、サロンの様なコミュニティ。
理想の共同体を夢みた30代の友人たち、貧しさから這い上がったインテリ達、裕福な貴族、盗むことがなぜいけないか分からない孤児育ち、ドイツ人と結婚したユダヤ系女性など・・・それぞれの背景や価値観を持つ人たちが集まり、別れていく様子が、絶妙な距離感と抑制の効いた文章で描かれています。
理性的な表現とあいまって、コルシア書店というコミュニティが眩しく感じられます。本音で自分の意見を交換する場は意外に少ないものなのです。
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若い時に読んだきりで、作者の心の内をあの頃は掬い取れてなかったと思う。ただ、読後の身体の中に残った重量は凄かったのを覚えている。
あれから10年。今、読み返すと須賀さんの心に少し近づけた気がする。そして、これから10年後、読み返したら、もっと、と思う。
一生かけて読み返して自分の立ち位置と孤独を知ることのできる本だと思う。
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8/31 読了。
人生のなか、決して長く深く関わったわけではない人びとの思い出。ぼんやりと結んだ像はどこか明るい光に満ちていて、さびしさや苦しみを肯定してくれる。
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須賀敦子と出会ったのは、彼女が亡くなったすぐ後くらいだった。そして、おそらく、最初に読んだ須賀敦子の本が、『コルシア書店の仲間たち』だっと思う。
敦子さんがミラノで暮らしはじめた頃の時代背景やイタリアの様子などが、はじめはピンとこず、少しとっつきにくい印象をもったかもしれない。でも、読み進んでいくと、そこには、時代や国の違いをを超えて共感できる、若者たちの不器用でひたむきな愛すべき姿があった。
長い時を経て、友人たちを生き生きとよみがえらせた、宝物のような一冊。
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お布団に入って、
寝る前に聞く、
おばあちゃんの思い出話、のような作品。
イタリアで過ごした若き日の思い出が、
たんたんと綴られています。
小説のように客観的。
感情が抑えられているぶん、
じわーと、胸がくるしくなる。
「もう過ぎたことだけれど」 みたいな、
諦め?のようなもののアンニュイな感じに、
いつも涙ぐんでしまいます。
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著者がイタリアで色濃く関わったコルシア・ディ・セルヴィ書店の回想録。最初、流麗な文章と「戦後伊思想サロン」とでもいうような排他的なインテリ集団の火照りに、著者との距離を感じて入り込めず。中盤、ヒトラー似のドイツ人とユダヤ人少女の結婚のお話あたりから、本書内の"環境"にこちらが慣れて急速に面白くなっていった。こういうややゴシップ的な内容が出てくるのは、著者もこの辺りから"緊張感"が解けているわけで、この辺りから彼女の記憶に主観的に入り込めた。それらの記憶をやがては静かに正視する恬淡とした孤独感がまたよろしい。旅行や短期滞在では感得し難い異国の血肉の部分を感受できる一冊。
全体に、内田洋子さんよりかなりウェットでした。
【参考資料に】
大通りの夢芝居、最後の部分
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著者のイタリア時代の友人たちに関するエッセイ集。長い年月の間に、色々な別れがあり、悲しくもあるが、読後感はじわーっと感動する感じ。
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静かな悲しみがずっと文の中に感じて、最初は戸惑ったけど、
『夜の会話』あたりからは、少し楽しみながら読みすすめることができた。
特に『大通りの夢芝居』が好き。
アシェルは友人でいたらいいなと思うし、ルチアは女性として憧れる。
すとんと何かが抜け落ちたような寂しさは、やっぱり最後までつきまとってきたけど、最後の文はすごく素敵だ。
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こういう、異文化の中に自然といる人の記す文章は好き。むしろ文化としての目線は少ない。孤独とは、生き方の性向とは。最後の孤独についての独白、こういうの大好き。100/232
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時代やお国柄が違うのにとても愛着のあ る魅力的な登場人物だった。永遠はなく人の繋がりが時間とともに薄れていく切なさにに共感した。
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イタリアに留学した著者が参加したという「コルシア書店」がいったい何なのか、あまり事前説明がないまま「仲間たち」のについてのエピソードが展開。読み進むうちに抗独パルチザン・カトリック左派運動からでたものという事がわかってくるものの、出て来る「仲間たち」のバックグラウンド、書店での役割も今一つわからず、どうにも気持ち悪い…。
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ずっと読みたいと思っていた
須賀敦子さんの随筆。
青春時代を過ごしたミラノでの日々、
そこで携わったコルシア・ディ・セルヴィ書店に
集う人々との交流の思い出を綴っている。
彼女は、静かな、淡々とした様子でありながらも、
人が身を置く環境や親しい人との関係性が
いつまでも変わらないことなどはありえない、
そしてそれと同じように、人の心や考えは
移り変わり行くものなのだと私達に教える。
その事実を受け止める時には、
一抹の哀しみや寂しさを感じさせられる。
青春期の終焉を認める事、
何かを諦めるという事だからかもしれない。
しかし、いつかは喪われていく、
終わりを迎えるものであっも、
自分の心の中にこうありたい、こうしたいと
理想を持ち、それに向かって奮闘した事、
いつかは独りで歩いていくのかもしれないが、
喜怒哀楽を共にした友人
一緒に夢の実現に向け頑張った仲間達は、
自分の生涯の宝になるだろう。
須賀敦子さんは、この作品を通し、
私達に対し、生きること、人と出会うことに
怖がらないように、と背中を押してくれる。
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1950年代から70年代にかけて、ミラノの現代文学や思想の最先端の人々と共に過ごしていた須賀敦子の回想。『ミラノ霧の風景』でもそうだが、彼女のエッセイは時に暗く沈鬱でさえあるのだが、街の描写も人との交流も限りない深みと静謐感とを感じさせる。ここにあるのは、音のしない静かで思索的なイタリアだ。
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「イタリア文学者で翻訳も手がけているのよ。著著もあって、とても素敵な文章で…」と、知人に勧められて。
澄んだ静かな湖面を思わせるような文章でした。
読んでいて、ゆりかごにのっているような気分になる。
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須賀敦子さんは最後に書いています。
「コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた」。「若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちは少しずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う」と。