かなり抽象的な内容・分かりにくいかもしれません。
2022/12/31 20:36
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投稿者:広島の中日ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトルの内容を、著者がクリスチャンであるからか、キリスト教を例に考えてみた1冊です。たくさんのクリスチャンや、聖書、キリスト教関連の文学作品など、多数参照にしています。
独自で興味を引く部分もありましたが、いかんせん抽象的な内容で、中身を掴むのが大変な仕上がりになっています。ですが、決して読み進めにくい文章ではありません。読み物としては十分面白いと思います。
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石川明人(1974年~)氏は、立教大学文学部キリスト教学科中退、北大文学部哲学科卒、北大大学院文学研究科博士学位取得、北大大学院文学研究科助教、桃山学院大学社会学部准教授等を経て、同教授。専門は宗教学・宗教社会学。
私は、基本的に無神論の立場で、更に言えば、世界中の対立・戦争の元凶のひとつともいえる一神教については、否定的にさえ捉えている。そして、なぜそうした宗教が存在するのかについては、常々疑問に思っており、本書のタイトルに大いに興味を持ち、手に取った。
著者は、「宗教を「信じる」とはどういうことか」という深遠な問いを、第一章:そもそも「信じる」とはどういう行為なのか、第二章:神を「信じ」ているとき、人はそれをどう語るのか、第三章:この世には悪があるのに、なぜ神を「信じ」られるのか、第四章:同じ宗教を「信じ」ていれば、人々は仲良くできるのか、第五章:神を「信じ」たら、善良な人間になれるのか、という問いに分けて語っていくのだが、結論を先に言ってしまうと、いずれの問いに対する答えも書かれてはいない。
著者が冒頭で、本書の狙いについて、「宗教という営みの「わからなさ」、あるいは「捉えがたさ」にあらためて気付いていただくことを目指しています」と書いている通り、問いを更にブレイクダウンしつつ、様々な立場からの、様々な(ときに矛盾するような)解釈の仕方を並べていくだけである。
私は、正直少々フラストレーションを感じながらも、何らかの答えのようなものが示されるのだろうと思って読み進めたのだが、最後に書かれていたのは、「大事なのは、「宗教」という究極の「人間的な営み」をとおして、人々が問うたり悩んだりしてきたもの、あるいは「宗教」それ自体から滲み出ている人間のいかんともしがたい矛盾や限界を、ただ素直に見つめることだと思います」というものであった。
読了直後の今、本書の結論(?)に対する性急な評価は避けたいが、ここに至って湧くのは、「(ある特定の)宗教はなぜ創られたのか?」という問いである。(敢えて一神教のみを挙げるが)モーセ、イエス、ムハンマドが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を創った目的は、本当に「人間の矛盾や限界を素直に見つめること」だったのか。。。そして、世界中のユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が、各々の宗教を信仰する理由も、本当にそうなのか。。。
特定宗教の信者の少ない日本において、宗教の意味を説明するにはよいのかも知れないが、世界に目を向けたときに、一神教の信者の同意を得て、その結果として、世界中で起きている(宗教を原因とする)対立や戦争の解決が見通せるような結論とは到底思えず、モヤモヤ感の残る内容と言わざるを得ない。
(2024年2月了)
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読んでスッキリする本ではない。
人類の営み自体が愚かで右往左往しているからだ。
が、以前からスゴ本ブログで教えてもらった、ハロルド・クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか」についてしっかり書かれていて、ますます興味を持った。
また、中島らも「今夜、すべてのバーで」で知った例の祈りのラインホルド・ニーバーについても、数か所で言及されていた。
@ 以下コピペだが、【 】は個人的メモ
科学の時代に神を信じることは出来るのだろうか?この世に悪があることを宗教はどう説明するのか?宗教は人を善良にしたり、世界を平和にするのか?素朴な疑問を通して、宗教と人間のリアルに迫る。
目次
はじめに
信じる者は救われる?/宗教以外にも「信じ」ていること/本書の狙い
第一章 そもそも「信じる」とは、どういう行為なのか
現代人は本当に宗教を「信じていない」のか/よくわからない「信仰」という言葉【宗教=信仰・実践・所属】/「信じる」という動詞のさまざまな使われ方/正しいことは、わざわざ「信じ」なくてよいのでは/そもそも何を信じているのか/本当に信じていたら、むしろ「信じている」と言わなくなるのでは/「信じています」と言えば信者なのか/キリスト教徒は、本当に聖書を「信じ」ているのか/お金についての教えも「信じ」ていない?/むしろ「信じ」られない部分が必要なのか/信徒たちの「信仰」は、実はさほど徹底したものではない/宗教に限らない人間一般の傾向/マザー・テレサにおける「神の不在」/そもそも神は「信じ」る対象なのか/イエスは「信じること」にこだわったのか/イエスが人生の最期で口にした言葉/神を信じているならば、かえって疑いを口に出せるはず/「信じ」ているから、文句を言える/「素直に」という副詞は「疑う」という動詞にこそふさわしい/あまり「こだわらない」ようにする/よくわからない「信仰」
第二章 神を「信じ」ているとき、人はそれをどう語るのか
宗教を信じることは非科学的な態度なのか/宗教は科学を排除しない/「祈り」で砲弾から兵士を守れるのか【パウル・ティリッヒ】/ダライ・ラマの発言/「祈り」のいろいろな側面/「主の祈り」は利益や幸福をお願いするものではない/祈りは「お願い事」ではない【要求ではなく、信頼の表現】/ニーバーの祈り【ラインホルド・ニーバー】/ガリレオ裁判/神は「二つの書物」を書いた/神の存在を論証しようとするということ/神と古代の哲学者たち/「神が世界の知性である」【タレス】/宗教的なピュタゴラス/宗教を批判するが、神は否定しない【クセノパネス】/「万物は魂と神々に満ちている」【ヘラクレイトス】/神々に対するちょっぴり冷めた見方【プロタゴラス】/宗教は民衆をコントロールするためのもの?【クリスティオス、ディオゲネス】/ソクラテスの告訴状/神を「信じ」たソクラテス/プラトンの宗教論/神は人間的な事柄を配慮するか【アリストテレス】/エピクロスにおける「神」/妙な「神」を信じている方がよっぽど不敬虔【エピクロス】/宗教に批判的な立場の諸相/「無神論」という概念の広さ/ニーチェの「神は死んだ」/神の死の神学/「存在しない神に祈る」【シモーヌ・ヴェイユ】/「神は存在しない」【パウル・ティリッヒ】/「神なしで生きる」【ディートリッヒ・ボンヘッファー】/「神を棄てる」「仏を殺せ」【マイスター・エックハルト】/「信じる」の奥行き
第三章 この世には悪があるのに、なぜ神を「信じ」られるのか
耐えられない試練などない?/切実な願いも叶えられない現実/なぜ神は日本人の「悪」を放置したのか/「神義論」という問い【ライプニッツ、ヒューム】/『なぜ私だけが苦しむのか』【ハロルド・クシュナー】/不幸の理由を説明するいくつかのパターン/教育的な効果があるのか、死後の世界で埋め合わせがなされるのか/問いそのものを考え直す/ヨブの物語/「神が支配していないことがらもある」/すべてのことに理由があるわけではない/アウシュヴィッツについては「神は防ぐことができなかった」/神を「信じ」てはいるけれども/誰もが納得できる答えはない/抗議の神義論/「わからない」のに、なぜ「信じる」と言い切れるのか/幸福を得るために「信じ」ているのではない?/星野富弘の場合/口で文字と絵をかく/「神様がたった一度だけ、この腕を動かして下さるとしたら」/本当の死の時まで/「でも神さまありがとう」/三浦綾子の影響/「得たものの方が多い」/幸せとは何か/「信じる」とはいったい何か
第四章 同じ宗教を「信じ」ていれば、人々は仲良くできるのか
宗教は「個人の心の問題」?/イソップ寓話と聖書/「目からうろこ」や「復讐するは我にあり」/旧い契約と、新しい契約/新約聖書の内容/イエスは何も文章を書き残さなかった/宗教は集団で営まれるもの/人間の「標準化」としての宗教/信徒たちは平和の教えを「信じ」ているのか/キリスト教は本当に「非暴力」?/キリスト教徒たちは武力行使に躊躇しない/絶対平和主義と非暴力主義は少数派/宗教は「戦争の原因」であるとは言えない/宗教は「平和の原因」であるとも言えない/キリスト教は最初から「一つ」ではなかった/愛と平和を唱えていても喧嘩をするのが人間/教派間の対話と協同へ/「多くの宗教がある」という難問/異なる宗教とも仲良くしようとする動き/信仰を捨てることは悪なのか/芥川龍之介『おぎん』/おぎんらの棄教は悪魔にとって「成功」だったのか/何が正しいのか
第五章 神を「信じ」たら、善良な人間になれるのか
「人格者」になりたい私たち/よい生き方と学問【ルース・ベネディクト】/「ヒューマニティーズ」とは何か/「人間性」と「教養」【キケロ】/人文系学問に期待されていたもの/人文系の学者は人格者なのか/武道やスポーツや芸術で「人格者」になれるのか/やっぱり「宗教」なのか/弱い人々のために無償で働く【マザー・テレサ】/身代わりになって死んだ神父【マキシミリアノ・コルベ】/生徒に鞭打つ聖職者【ロアルド・ダール】/ラフカディオ・ハーン「お大の場合」/聖職者たちによる加害/教会でも人間関係の衝突がある/信仰は人を善人にする魔法ではない/ダビデ王の悪事/無宗教者・無神論者であれば善人になれるのか/プラス面もマイナス面もある/キリスト教徒であることにこだわら���い/愛とは面倒くさくて嫌なもの【ドストエフスキー】/愛も憎しみも、人間は知らない
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クリスチャンの宗教学者が、キリスト教の事例を中心に「信じる」ということの意味について様々な視点から論考した本。本書自体が優れた宗教学の入門書になっています。
「宗教を信じる」とは簡単な言葉だけれども、突き詰めて考えると、果たして一体何を信じているのか、とたちまち答えに詰まってしまう。中でも興味深く読んだのは、第3章の神義論について。宗教や信仰が孕む矛盾は人の心の有り様の反映のようで興味深い。個人的に思ったのは宗教離れ、無信仰が世界的に進む中で、それでも人間が存在する以上(或いは感情、心があるが故に)は最後まで宗教、神を信じることは消滅しないのではないかな、と。宗教について、信仰について、もっと色々知りたくなりました。
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冒頭で述べられたように「わからなさ」に関して書かれたものであった。しかし、そのわからなさを表面的に明確にしただけのようにも感じた。わからなさに対する著者の意見が煮詰まってないようにも思え、最終的にはあとがきの「私たちが宗教を理解し尽くすことはおそらくないでしょう」に集約される。もちろんそれには同意だが、読み物としての深みはなくわからなさがわかっただけで、宗教をとらえ直したり深めたりするきっかけにはならなかった。
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タイトルがややミスリードで、「宗教」を信じる、ではなくて、内容としては「神」を信じる、とはどういうことか、を論じておられます。内容としては、学術的見地に基づいて、非常に地に足の付いた落ち着いた論を展開されていると感じました。
と同時に、はじめににも、すっきりしていただくことを目的としていない、とあるように、すっきりしたい人にはお勧めしません。
自分は宗教をやっていますが、他人には勧めません。それは、自分が他人の幸せにあまり興味がない冷たい人間の表れなんだとも思っていますし、そもそも宗教を勧めることで人間関係を悪くしたくないという、保身のためでもあります。
自分が宗教をやるのは、その教義を自分が身につけることで、人格者を目指しているからで、ある意味自己満足です。
自分の経験から言えば、本書の4章のタイトル、同じ宗教の人なら仲良くなれるかと言えば、そんなことはありませんし、逆に自分と同じ宗教でない人でも、素晴らしい人格者の知り合いはたくさんいます。宗教に限らず、人間が集団を営むのであれば、善人だけの集団はあり得ないでしょう。
本書内にもありましたが、武道・スポーツ・芸術もそれで人格者になれるわけではないので、宗教も芸術みたいなものかもしれませんね・・・。
わからないことをわからないままにしておけて、そういった人やものを排除しないでそのまま置いておけるという心のゆとりが、現代日本には必要なのかもしれないなと思いました。
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典型的な日本人である私は神社にも行くし、寺にも行く。だがそれは儀礼的なものだ。私にとって神は存在しても、していなくともどちらでも良い。信仰心の厚い人との会話の中で違和感を感じる事は、この世の全てを『神の采配』『神の思し召し』『神が与えた試練』といった具合に現状の起源を神に収束させる発言である。これと「偶然とは無知の告白である」とは何が違うのか?物事には必ず因果律がある。私達に与えられた知性は因果を辿るだけの能力がある筈なのだか、あらゆる結果を神だとか偶然だとかに収束させて、そこで思考停止する、その姿勢こそ神が最も望まないものではないのかといつも考え込んでしまう。
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キリスト教を前提として書かれており、基本的にはキリスト教を「信じる」とはどういうことか、という内容。かと言って、キリスト教を賛美するわけでもなく、その是非を問う形の抑制的な記述で、レーベルに相応しく若者向けの啓蒙的内容になっている。
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う〜〜〜ん
なかなか難しいというか
書いてあることは理解できているつもりだけれど...
この本のタイトルを見て、この本の中に答えがあるような気がして読んで見たが...
謎が深まるというか...
ただ思ったのは
「信じる」事は能動的な事で、受け身なことではないと思っている。
宗教...を信じる...となるとまた一つハードルが上がる気がしてくるけど...
何かを「信じる」ことはなんというか明日に繋がる気がする...
いつだった読んだ本に「自分の本当の気持ちは神様にしかわからない...」みたいなことが書かれたあるのを読んだ記憶があるけど...
自分の気持ちすらわからない時がある...
口ではこう言っているけど心の中では違う思いがある...とか...
宗教はなんか生き方の指針みたいなところがあるようにも思うし、道徳観を養う...みたいな感じもしている...
なんだかややこしい本を手にした感あり...
そもそも宗教ってなんだ?って感じにもなってきた...
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宗教は真摯に「信じる」ことによって"生きる力"を得られ、また神様を畏れることによって善人でいられるのだと思う。
しかし人間は弱いものなので時には神様に反することもするし、人と憎みあうこともある。しかしそれでも神様を信じることにより、時間がかかることもあるが全ては神様のご計画のもとと思うことにより癒されたり、悩みの答えを見いだせたりもする。神様がいて神様だけが答えを知っているから、だから難問にも立ち向かえる人もいる。神様は自分の中で感じるものだと思う。
作者のよう、クリスチャンだとしても神様を全く信じなければ何も感じないし何も起きないのではないかな。
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宗教の話題が最近多く、元々自分も関心があったので関連本を調べていて出会いました。図書館によってはヤングアダルト向けになってることもあり、読みやすいかなと手に取りました。
のですが…うーん。宗教全般についてではなく最初に著者もとりとめなくなることを避けるためか本書はキリスト教を中心に「信じる」ということについて考察します、と本書の趣旨を著しているのですがまぁ、中心というよりキリスト教を信じるということについて全編書かれてました。
その意味では本来読みたかった内容と結構かけ離れていてちょっとがっかりしました。もう少し宗教全般についての信仰ということについて知りたかったのですが…。私の知りたかったことは本書の趣旨とは違うようです。
さらにヤングアダルトむけというにはちょっととっつきにくいのではとも。第1章で結構若い人は挫折しちゃうんではと感じましたね。
「キリスト教を信じる」の「信じる」について定義をしておきたいというのは本書を語るうえで大事なのはわかりますがくどい。あまり本を読まない若い人が宗教に対する興味で手に取ったらヤになっちゃうんではと感じましたね。
私はそれなりに読書してる方と思いますが(読書家と言えるほどは読んでませんが)ちょっと文章にげんなりしました。
本書を読み進めるには3章から読んだほうが個人的にはとっつきやすいように思いました。
世界の哲人たちがどのように宗教について思考してきたかということがよくわかり面白かった。特にクシュナーが障害を持った子供を亡くした経験から「誰かの神的な感性を深めるために、同情心や感謝を学ぶために神は障害児を作った」という見解について怒りを覚えるという話にはとても共感しました。本当に。
障害にまつわる様々な社会的理解や福祉的対応を「単なるいい話」にする状況や人々に対して私も常々怒りを覚えているので、そのような時代からこれは普遍のことなのだと知らされると同時に何十年経ってもこういうことはそう変わらないものなのだと思い知らされたような気にもなりました。クシュナーの著作を読んでみたい気持ちになりました。
同章で星野富弘さんと三浦綾子さんの対談にも触れていましたが、その対談集は知ってはいても恥ずかしながら手に取ったこともなく読まねばならないなと思いました(「銀色のあしあと」)
キリスト教について興味のある方、その信仰について疑念など感じる若い方、を中心として信じることを考察するには足がかりとしては良いかもしれません。
しかし削りに削って当初書いた文の半分ほどにしてこの分量になったと著書はあとがきに書かれてましたが、これより厚いとヤングアダルトでは手に取ってもらえないと思います。
削った分の熱い思いの文章は一般向け他著書にされたら興味のある方は手に取るでしょう。
私はキリスト教の話についてはしばらく本書でお腹いっぱいになりました。
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宗教という営みのわからなさに欧米の思想やキリスト者の言葉を通じて気づく、みたいな本。
折角第一章で神道は宗教と言えない論についてちらほら紹介されるのに、その後は全く言及がなくなるので肩透かしを食らった気分。宗教は人間に規格を定め、その社会の構成員を標準化するための仕組みかも?って話が面白かった。神義論については参考図書を追いたい
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「信じるものは救われる」って無理あるよね、みたいな素朴な疑問につっこんで答えているという点で面白い本だった。
宗教は、救いを求めるというより、社会や環境がどう変化しようが自分を保つためにあるように思う。
勝手な解釈だけど。
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ドーキンスさんの本を読んで、宗教にやっと関心を持つことができたので、今度はこの本を読んでみることにした。(絶対読む順番反対なんだけど、、)
家族と、宗教を信じる必要性や科学を無視した(正直言って)、科学的に見れば辻褄の合わない論理を、なぜ世界中の多くの人々が信じているのかが謎ということで話題になった。この本を通して宗教、とくにキリスト教を信じる人が何を考えているのかを明確にしたかった。
まず、「信じる」という言葉をわざわざ使うのであれば裏には「それを疑っている」という前提もあるのではないかという主張はかなり画期的だと思った。ドーキンスさんが言っていたように、聖書にはすべて教えが書かれているわけではなく忠実に従うべきでない項目もあるので、やはり読み手が取捨選択する能力が必要である。それならば聖書など最初からいらないのではという主張も、本書が補足的な役割をしてくれたおかげでだいぶ理解が追いついた。ちなみに本書では反神議論と無神論は異なるようだ。(違いはよくわからない)
ただ、信じるべきでない記述が聖書にある理由について、人間はツルツルしたものよりもざらざら凸凹したもののほうが掴みやすいという比喩がいまいちよくわからなかった。(p37)
それと読み物は違うというか、だったら最初から省けよ…といまだに思っている。
キリスト教信者は、完璧な人よりもちょっとおっちょこちょいで人間性の垣間見える人のほうが好感度をもつということなのか、、?
そして2つめに、信者にとって信じることは趣味程度のものだということ。(p38)どうやら四六時中聖書の教えを守っているというわけではないらしい。推し活のように意外と軽いようだ。
ガリレオ裁判は議論の余地がある、ちょっと理解できなかった。
宗教は人を幸福にするか?という章では、結局その人の受け止め方次第だよね、というのが著者の考え方のようで、これはアドラーの嫌われる勇気に似ている考え方だなと思った。(p155)
また、日本の諺と聖書に書かれている内容が一致するということで、なんとなく土着という言葉を思い浮かべた。
ということで、この著者のスタイル的に結論を出さない、意見を保留するみたいな感じで、いつも「かもしれません。」が文末に来てて「じゃああなたの意見はなんなのですか?」と言いたくなることが何度かあったが、
聖書が不完全だから、やっぱり人間は不完全なのかなと思った。そしてますます、ドーキンスさんの主張に同意できるようになり、聖書の必要性がよくわからなくなった。
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読みたい理由と内容がピッタリ合えばとても満足度が高いんだろうなとは思う
あと読むタイミングがハマらなかったのかもとは感じつつも面白く読んだ