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投稿者:nobita - この投稿者のレビュー一覧を見る
同調圧力をきちんと説明できている本である。このような見えない力が常在することを意識して世の中を見ることが必要。このような、政治状況があるのは、自民党に投票するのは利権があるのと同調圧力があると思われる。台湾のようにきちんと投票に行くのは、それぞれ主張があるからだと考えられる。
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なるほどと思わせる本でした。
特に特攻の中で「多くの若者を「特攻」という軍の命令による組織的な体当たり攻撃で死に追い込んだ真の原因は「戦争をしたこと」ではなく、そうせざるを得ない「空気」で若者を包み込み、自発的という体裁でそれを選ばせた、当時の同調圧力だったのです。」との記述は、まさにそのとおりだと思いました。
悲しいかな日本人って……を、考えさせられた本でした。
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「自分は自分」な僕だが、コロナ禍のマスクのように、ある程度は社会の行動と同調はする。「同調圧力」が生まれる背景と圧力に押しつぶされないには、を考えるために読みたい
#この国の同調圧力
#山崎雅弘
23/7/6出版
#読書好きな人と繋がりたい
#読書
#本好き
#読みたい本
https://amzn.to/3XCW22E
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同調圧力について,大変コンパクトにかつ卑近な例えから,歴史的な大きな同調圧力について広範に網羅されていて,誰もが気楽に手に取れる良書だと思いました.
「個人主義」が「お互いを尊重し,個人として認め合う」と言うことをもう少し色んなところで強調してもらうとより読者には(特に,今まで政治や社会について考えたことが少ない方には)伝わりやすかったかなぁと思います.
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ゆっくり読んだので時間がかかってしまった。
子供の頃から同調圧力には、逆らっているタイプだったけれど、大人になると上手く立ち回れるようになったかな。 少数派を多数派に取り込む空気を出すのも、誰かを排除して、集団が堅固になるのもどちらも同調圧力だなぁ。
世界によって、自分が変えられないように、自分のぶれない「芯」を持ち、それを信じつつも柔軟性を持って生きたい。
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第1章 同調圧力ー心や身体にからみ付いて自由を邪魔する、見えない「カ」
人間は一人一人が違った個性を持ちますが、自分が何かをやりたいという願望や衝動の中に「自分以外の他人も自分のコントロール下に置きたい」とか、「人の上に立つ人間になりたい」という特質が強い大人は、おそらく子どもの頃からそんな片鱗をのぞかせて、子どもの集団内で「人を支配するカ」を伸ばしていったのだろうと想像します。
「リーダーの取り巻き」連中も、おそらく大人になっても同じように「組織や集団の中で権力を有する者の取り巻き」という安全なポジションを確保して、うまく世の中を渡っているのかな、と想像します。
理不尽だと思う何かについての我慢を強いられる理由が「みんなも我慢しているから」というのは、説明になっていません。
当時の中学教師はもう一つ、絶大な威力を持つ「武器」を持っていました。それは「内申書」または「調査書」と呼ばれる書類です。
忖度とは、本来は「国民全体の奉仕者」であるはずの国家公務員、特に賞が関の省庁に勤務するエリート官僚が、国民ではなく時の総理大臣や内闔の顔色をうかがい、明確な指示や命令を受けてもいないのに、総理大臣や内閣の意に沿うような行助を自発的にとる現象を指して使われ始めた言葉です。
上位者によって下される評価が、あたかも「ブラックボックス」つまり不透明な箱に入った形で進められるなら、なるべく自分一人だけが目立たないよう「みんな」に埋没し、生殺与奪の権を握る上位者に逆らわずに従順であることが「安全策」になります。
ほとんど機械的に強いられる「ハンコのお辞儀」は、第三者から見れば、上位者に対する「過剩なへりくだり」という印象が強く、社員の心や行動を萎縮させて精神の自由を失わせる効果もあるように感じられます。
「二礼二拍手一礼( 二拝二拍手一拝)」は、今ではすっかり「神社を参拝する者は必ずそうしなければならない」かのような、強い影響力を持つ「マナー」になりましたが、これも実は大昔から続く「伝統的なマナー」ではなく、神職ではない一般の
参拝者がこうするようになったのは、実は平成の時代になってからでした。
マナ—とは何かについて考える時、それは「あらかじめ用意された決まりごとを守ること」なのか、それとも「自分以外の人への礼儀や気配り」なのかを、毎回立ち止まって考えることが必要ではないかと、私は思います。
そうすれば、居丈高に、あるいは一見穏やかに「こうするのがマナーだから」と特定の行動様式への服従や同調を相手に強いる、実質的な同調圧力の状況に直面した時、本当は従う必要がないことにまで「従わされる」ことから逃げられる可能性も髙まり
ます
多数決は民主的手法の一つですが、「暗黙の多数決」はそうではありません。むしろ、暗黙の多数決によって作られる「空気」は、民主的手法とは正反対の存在です。
山本七平の『「空気」の研究』はいわゆる同調圧力がテーマではなく、日本で物事の決定が下される経過においては、論理的に説明可能なプロセスと、そうでない、非論理的で誰にも説明できないプロセスの二種類がある、というのが主題でした。
物事が、非論理的かつ非合理的なプロセスで決められる。表向きは、論理的あるいは合理的な判断と議論に基づいて賛否が決められたかのような体裁がとられるが、実際には、それとは異質な次元の「場の空気」に思考や発言を拘束され、本当に心の中
で思っていることを口に出して言えず、全体の「空気」に沿う意見だけを参加者全員が述べる。
このような異様な光景を、山本は客観的かつ論理的に分析しましたが、その場に居合わせた人が、思考や発言を「空気」によって拘束され、理不尽に封じられるのは、まぎれもなく同調圧力の効果だと言えるでしょう。
第二章 誰が何のために、同調圧力を生み出しているのか
同調圧力やピア・プレッシャーが「存在するか否か」ではなく、それらの圧力に「抗うカ」あるいは「抗う勇気」を、国民や市民がそれぞれの内面に持っているかどうかではないかと、私は思います。
集団の中で、何らかのピア・プレッシャーが存在したとしても、一人一人の国民や市民が、それに抗うだけの「抵抗力」を持っていれば、ピア・プレッシャーで集団に従わせる効果は激減します。逆に、それに抗うだけの「抵抗力」を、一人一人の国民や市民が持たなければ、同調圧力で集団に従わせる効果は、逆に碰化されます。
私は、 この同調圧力に対する「抵抗力」とは「自分は個人であるという意識」ではないかと思います。
日本人の多くは同調圧力に伴う「マイナス面」よりも、それが集団に及ぼす「プラス面」の方が大きいと考え、それを社会から無くすよりは、むしろあった方が、自分にとっても望ましいかも、と理解しているのではないか、ということです。
体の秩序を維持するというプラスの側面を過剰に重視した結果としての、リーダーの思考形態への無自覚な同調だと言えます。そして、思考がそんな状態になれば、自分は「支配される側」なのに「支配する側」だと錯覚して、支配する側に都合のいい方向性の同調圧力を、周囲のメンバーにかけることが平気になります。
今の日本では、同調圧力の問題について「少し我慢して従えばいいことだろう」と軽く考える人が多いかもしれません。みんなと同じような発言と行動をするだけでいいなら、変に逆らって「悪目立ちする」よりは、同調した方がラクじやないか、と。
しかし、現実はそんなに甘いものではない、ということを、この歴史的な前例は我々に教えてくれているように思います。社会の中で、同調圧力による思考と行動の支配が際限なく増大していけば、やがては「家族の死を喜ぶことを強いられる」という、地獄のような社会へと再び変質していく可能性も、ないとは言えないのです。
「まじめな女性ほど戦争への高揚率は高い」や「まじめな女性ほど(戦争扇動の)先頭に立ってしまう」という現象は、「まじめさとは何か」という重い問題を我々に突きつけていると言えます。
まじめな女性を当時の国策へと駆り立てる上で、国策に従わない者を「非国民イコール日本人ではない者」と罵倒し社会から孤立させ、お前も国策に従わなければこうなるぞと脅す社会の風潮イコール同調圧力が、大きな後押しに���ったことは容易に想像できます。
第三章 安心感を得るために自分を「集団や組織」に埋没させる罠
精神的な疲れがたまっている時や、生活環境の変動が激しくて先行きの展望が見えにくい時には、同調圧力という「大きな流れ」に身を委ねる誘惑も大きくなります。同調圧力なんておかしい、いやだと頭の片隅では思いつつ、それでも従ってしまう理由を考える時、そんな心理的誘惑の側面も無視できないでしょう。
本人には「悪気」がなくても、なんとなく同調圧力に従う人は、結果として、その行動によって「積極的に同調圧力をかける人間」の力を強めています。「積極的に同調圧力をかける人間」の影響力は、「その同調圧力に従う人間の数」によって大きく変動するからです。
倫理的あるいは道徳的に考えて、その命令への服従や行動の是非を考えるのでなく、集団内での自分の「立ち位置」という観点で、いちばん最適な行動をとる。そうすることで、集団の中で自分の立場は保たれる。ナチスのホロコーストが、あれほど大規模かつ組織的に実行された背景には、 同調圧力という我々の身近な問題とも繫がる、心理的な動樣も存在していたのです。
集団の構成員と同じ行動をとることで、自分の身を守ったり、自分だけが集団から孤立して迷走したりするリスクを回避できます。人が自らの意思で同調圧力に身を委ねる理由の一つとして、こうした「リスク回避」の心理も考えられるからです。
「鳥や魚の集団行動」はすべて、全体として綢和がとれている「自然の摂理」にかなっているが、人間が集団で特定方向へと進んでいく社会的な現象は「自然の摂理」とは必ずしも一致していない、という事実です。
ー九七四年、ドイツの政治学者エリザベート・ノエルリノイマンは「沈黙の螺旋(スパイラル・オブ・サイレンス) 」という仮説を提唱しました。事前の世論調査での「どちらの政党が勝ちそうか? 」という問いで優位に立った側が、選挙期間中により多くの支持を獲得して、選挙で勝利したことがわかりました。いわゆる「勝ち馬に乗る」という考え方にも通じるものです。
第四章 間違った道に進んでも集団が方向転換できない恐ろしさ
日本軍の戦争犯罪などを研究する歴史家で社会学者の林博史は、著書『沖縄戦強制された「集団自決」』の中で、先の戦争末期における日本人の「集団自決」について、「地域の住民が、家族を超えたある程度の集団で、もはや死ぬしかないと信じ込まされ、あるいはその集団の意思に抗することができず、『自決』または相互に殺し合い、あるいは殺された出来事」と定義しています。
ちなみに、沖縄県では「集団自決」という言葉について、県民にそれを強いた日本軍の精神的威圧と物理的暴力、その根底にあった大日本帝国時代の人命軽視の帮神文化などの「本当の原因」から目を逸らし、宜任を個々の犠牲者に押し付けるとの批判があり、より本質的な表現として「強制集団死」という言葉が使われる場合が珍しくありません。
私も戦史研究家として、戦後の日本社会には大日本帝国時代の精神文化が根強く残っていると考えており 、ハラスメントの加害を「本人のためだ」と居直る醜い態度も、精神注入や精��鍛錬と称して部下に暴力を振るった日本軍人の思考形態と似通っているように思います。
アジア太平洋戦争は、日本だけでなく諸外国で多くの人間を死に至らしめ、生き残った人々にも心身に傷を負わせました。あの戦争で失われた日本人死者の総数は約三ー〇万人で、内訳は軍人が約二三〇万人、市民が約八〇万人とされています。
第五章 集団や共同体の「みんな」と衝突せずに、心身の自由を取り戻すために
翌ー九三二年に大日本帝国の傀儡国家として「満洲国」が建国されると、国際社会はこれを厳しく批判し、孤立した大日本帝国は1933年に国際連盟を脱退して独自の道を進みました。
この出来事により、日本はそれまでの「欧米に学ぶ」という謙虚な姿勢を捨て、明治期から政治目的で特別視されていた天皇の位置づけをさらに神格化して、「こんなにすごい天皇を戴く日本は、世界で一番素晴らしい国なのだ」と自慢する国になりました。
そして、1935の「天皇機関説事件」( 天皇の権能を憲法の枠内に留めるか否かという論争)と「国体明徴声明」(政府による天皇機関説の否定)以後、大日本帝国では国民の「自由」は事実上ないがしろにされ、天皇を頂点とする国家体制の「秩序」維持が、社会の中で絶対的に優先される社会へと変質していきました。
され、やがて大きな嵐のように吹き荒れていきました。
一人一人の国民の自由どころか命、つまり「生きる権利」すら国家( ひ時の政府)に献上し、天皇のため、国のためという名目で死ぬことを「至上の名誉」と考えるような世界観の刷り込み(いわゆる洗脳)により、国民はまるで自分の意思でそうしているかのように、国策に同調していきました。
権威主義の国に共通するのは、国民が自由を手放して秩序の維持に同調すればするほど、全体として「強い国」になるので安心できる、という考え方です。
自国がより「強い国」になれば、外国に攻め込まれる可能性が下がる、という風に、自国と周辺国の関係を「カの関係」だけで理解する人は、相手国に譲歩することを「弱さの表れ」と見なして拒絶します。
フロムの心理分析によれば、ドイツの人々が自らの意思で「自由」を捨てて「全体の秩序」を選んだ大きな理由は、孤独感からの解放でした。
第一次大戦後、ドイツ国民は皇帝を頂点とする窮屈な国家体制から解放されて「自由」になり、人々はその「自由」を謳歌しました。しかし、一人一人の人間が何をしてもいいという「自由」は、人々の心から「大きな集団に帰属している」という一体感や安心感を取り去り、孤独感や孤立感を味わわせるという、マイナスの心理的効果ももたらしました。
そんな中で、大恐慌やインフレなどの経済危機によって生活環境が悪化し、将来の見通しが立たなくなると、ドイツの人々は不安を解消する手段として「大きな集団に帰属している」という一体感や安心感をもう一度得たいと思うようになりました。
その結果、国民から「自由」を取り上げる代わりに「大きくて強い偉大な国家に自分も帰属している」という一体感や安心感をドイツの国民に与えてくれる、ナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)が絶大な支持を集めたのでした。
日本の小学校や中学校で、批判的思���力を育てない理由はいくつか考えられます。
その一つは、集団に属する一人一人の人間が自立的に物事を考えて行動することよりも、むしろ集団の「秩序」を乱さず、集団内での地位が上の人間の言葉に疑問を抱かずに黙って服従することが、日本の社会では優先されやすい、という現実です。
また、一人一人の子どもが批判的思考を持たず、先生の言うことに従順である方が、先生にとってもラクで仕事がやりやすい、という「統治上のメリット」もあります。
同調圧力に逆らう、あるいは従わないという選択肢をなかなか選べないという人は、自分が属する集団や共同体に対して「過度な依存心」と「過度な恐れ」を抱いているのではないでしょうか。
集団や共同体の仲間に自分も入れてもらえている、という依存の安心感。
自分だけが集団や共同体から排除されたらどうしょう、という恐れ。
どちらも、人間の自然な感情であり、これらを適度に抱く人は多いと思います。
しかし、それが過剰になると、人の心から「精神の自由」が失われます。
同調圧力という現象は、常に「かける側」が多数ですが、実際には「積極的にかける人間」の数はそう多くありません。同調圧力を「かける側」の大半は、どちらかと言えば「自分が排除されたくない」という理由で、消極的に同調しているだけです
軍事の世界には「各個撃破」という言葉があります。これは、敵の部隊をあらかじめ分断しておいて、戦闘力をひとまとめにできない状況に追い込んだ上で、バラバラになった敵の弱い各部隊をひとつずつ順番に攻撃して「各個に撃破する」という戦い
方です。
会社などの一般社会でも、この「各個撃破」の戦法を使う人が時々います。
各個撃破に対抗する戦法は、同調圧力を跳ね返すためにも使えるはずです。
かつてイギリスの植民地だったインドを、気の遠くなるような抵抗運動を経て独立へと導いた、マハトマ・ガンジ—は、抑圧と戦う内外の人に向けて、こんな言葉を遺しています。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。
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同町圧力についての本をよく見るようになってきたけど、それを著者が語るとなると、これはもう読んどかないと、ってことで。戦争研究を専門とする氏の手になる論考となると、まあ当たり前のことではあるんだけど、本書における同町圧力は、主に大日本帝国におけるそれを念頭に語られる。確かに、一番分かりやすくて身近な例ではありますわな。そして、そうなれば畢竟、いつもながらの著者節が炸裂。読者側としては安心して読めるんですけどね。
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なるほど、とは思うんだけど‥‥
本を読んでいるだけで苦しくなってしまう。同調圧力にはもううんざりなんだな。
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同調圧力の歴史やメカニズムを知ることができました。同調圧力の雰囲気により、自分が壊されないよう、考え行動していきたいと思いました。嫌なことを知ることは、考え方や工夫次第で自分を守る術にもなることを改めて感じました。
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人間社会の同調圧力は、生物の集団行動とは異なり、時には安全で合理的でない、間違っている方向に進む可能性がある。全体の流れに何となく従うのは心理的に「ラク」ではあるが、自分に合った「同町圧力とのつきあい方のバランス」を探っていくべき。