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原書名:LES IDENTITÉS MEURTRIÈRES
1 私のアイデンティティ、私のさまざまな帰属
2 近代が他者のもとから到来するとき
3 地球規模の部族の時代
4 ヒョウを飼い馴らす
著者:アミン・マアルーフ(Maalouf, Amin、1949-、レバノン、ジャーナリスト)
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自身が生まれた国、育った国、そしていま住んでいる国の3つが同じでない人は、世界にどのくらいいるのだろう。
レバノンで生まれ、内乱を機にフランスへ移住した著者は、事あるごとに「自分をフランス人だと感じるか?それともレバノン人だと感じるか?」という問いを投げかけられ、「その両方だ」と答えているという。そして、いくら「両方だ」と答えても、「自分のいちばん深いところではあなたは何者なのか?」と、問いは更に続き、著者は苛立ちと苦悩を深め、本書を著すに至った。
この問いの裏にあるのは、人の帰属する先はひとつであって、生まれながらに定まっていて変わることなどない、という広く共有された人間観だ。一方、著者は、二つの国、二つの言語、そして文化的伝統の境界で生きている(彼の一族はイスラムの聖なる言語であるアラビア語を母語とするキリスト教徒)という自身の例を挙げ、こうした複数の帰属先を持っていることが自身のアイデンティティであると主張し、先述の人間観を正面から非難する。
自分が持つ帰属先のひとつが傷つけられたり、窮地に追いやられたりすると、傍目には狂信的とも思える人物がそのアイデンティティの守護者に思われ、人はいとも簡単に殺戮者となって惨劇に手を貸すことになる。それが本書のタイトルが意味するところだ。
帰属先は、民族であったり、宗教であったり、言語であったりするわけだが、日本で生まれ、日本で育ち、日本に住んでいる大多数の日本人には、この肌感覚はなかなか持ち得ない。昨今では「ダイバーシティ」という言葉に飽き足らず、「インクルージョン」なる言葉まで登場しているが、本書に書かれている著者の指摘を読むと、ごく表層的な部分しか捉えていないということに気づく。「ダイバーシティ」という言葉の前に、自身が生まれた国と、育った国と、今住んでいる国が異なる人が存在し、そして彼らは複数の帰属先を抱えているという現実をまず知るところから始めないと、真の多様性など到底望めないのではないかと思う。
(ここまで書いてきて、この国で言われるほとんどの「ダイバーシティ」は、日本人内の多様性を指していることに思い当たった。表層的どころか、次元が違っていた。)
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西洋化について考える良いきっかけになったと思う。
確かに日本もヨーロッパやアメリカの影響を大きく受けていると思う。
多数が洋服を身につけているし、欧風のカフェやホテルを利用している。
このくらいの変化なら良いと思うのだが、時として争いや、差別の引き金になってしまうのは残念だと思う。
それぞれが複数のアイデンティティを持っているという事を忘れないようにしたい。
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帰属は一つではない。グローバル化で進む共通化と個別化。民主主義の名の下に抑圧される少数者。宗教の話はピンと来づらかったが、最終章の言語のところはわかりやすかった。
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引用→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1309321666648924162?s=21
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クロード・スティール『ステレオタイプの科学』英治出版(2020),p98にて紹介。
「なぜこれほど多くの人が、アイデンティティの名の下に犯罪(と暴力)を犯すのか」
「人はしばしば、自分が忠義を感じるもの(アイデンティティ)のうち、最も攻撃を受けているものによって自分を定義する」
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唯一の本質としてのアイデンティティがいかに差別、分断、争いを生むかを自らの経験とも照らしながら論じた本。筆者はレバノン生まれのフランス在住ジャーナリストで、まさに加速するグローバル化の中で顕在化する問題に踏み込んでいる。そしてそれをいかに乗り越え、グローバル化の風に対して帆を向けて良い未来へと進むべきなのか指針を示している。もちろん島国日本も例外ではなく、宗教に馴染みがない人も日本教とでも思いながら読むと大いに参考になるのではないか。
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ありとあらゆる教義も、時代により解釈がかわる。また宗教が歴史を変えるのと同時に、歴史も宗教を変える。たとえばアラブの連帯を目指したナセルは反イスラーム主義であり、1950年代後半において急進的イスラーム主義はアラブ国家の敵とみなされていた。
故にイスラム教徒にとって、宗教的急進主義は決して必然的選択ではない。
精神的な安定への欲求が宗教にもとめられるのは良いが、宗教をアイデンティティや帰属意識の問題から分離しなければ戦争は絶えない。。
グローバル化の普遍性+と画一性−
グローバリゼーションの画一化への不安
1、文化が均一化され、乏しいものとなる(凡庸による画一化)
2、アメリカナイゼーションではないのか(ヘゲモニーによる画一化)
しかしアメリカから見れば、WASPもグローバル化に警鐘を鳴らされている存在なのである。グローバル化に目を背け、諦めるのは早計。アメリカの優位はさておき、環境・絶滅危惧種を保護するのが当たり前であるのと同じく、世界の文化も保護されるのも当たり前ではないのか。
時折、日本の言語を英語にすれば良いという話を聞くが、英語は私たちのアイデンティティを満たしてはくれない。人と話すという意味で英語は他の言語に対し優位を誇っているが、帰属意識という点で英語と他の言語は等しい。
ナチスの例を考えれば、普通選挙(多数決)は必ずしも民主主義や自由・平等の類義語たりえない。さらに言えば現在の投票は個人の考えでなく、社会を構成する多様な要素を示すものでしかない(ムスリムがフランスで議員にならないように)。しかし民主主義にとって重要なのはそれが成したメカニズムではない。むしろ全ての人間の尊厳なのである。
それまで偉業を成し遂げてきた概念全てが疑われる「不信」の21世紀。
皆がグローバル文明に自らのアイデンティティを見出すこと、もしくは自らのアイデンティティにグローバル文化を含むことが、戦争などのアイデンティティ対立を減らす。そうであるならば筆者同様この考えが当たり前になり、この本が不必要になる時代が来るよう、私自身尽力したいと感じた。
気に入った文
人生は船旅に似ている。運命とは帆に吹く風であり、私たちにそれを決めることはできない。しかし帆の向きを変えることはできる。そしてそれが大きな違いを生む。
船乗りを死に至らしめる風が、他の船乗りを目的の港へ運ぶ。
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うーん。なんかどこかで詠んだような内容が並んでいた。
学生の頃に読めば、きっともっと瑞々しい読後感を得られたんだと思う。
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このグローバル社会を考えると、人を一つの帰属、一つの象徴とする言葉でアイデンティティを考えることはもうできなくなってきていると思う。日本に住んでいると、様々な異なるバックグラウンドや、混ざり合ったバックグラウンドを持っている人に出くわすことは少ないが、やはり海外に行ってみると、国の中に様々な、いくつかのアイデンティティを持つ人がたくさんいる。異文化を勉強していく中で、日本人としているために、いわゆる日本らしい、日本的考え方、性格やキャラクターの中でおさまろうとしている自分もいた。しかし、世界の人々を見渡してみると、混在するアイデンティティを持つ人がたくさんいて、日本人という単一のアイデンティティに収まろうとする必要はそんなに重要でないかもしれない。ほかの文化や考え方も取り入れて、アイデンティティの越境をしてもいいのではないかと考えた。
自分自身が帰属意識を強く持てば持つほど、ほかの民族や文化背景、宗教の人を攻撃してしまうきっかけにもなってしまう。様々な帰属があるからこそ、双方どちらも理解することができたり、仲介役になることができると思う。
どのようなアイデンティティも特殊なケースである。人類全体が特殊なケースからしかできてないし、人生とは差異を生み出すものである。仮に「再生産」がなされるのだとしても、決して同じものは生まれない。誰のものであれ、アイデンティティは例外なく複合的なものなの。アイデンティティとは、複雑で、たった人地しかなく、取り換えがきかず、ほかの誰の者とも混同されない。
しかし、現実では、全然違う人々を一つの言葉でひとまとまりにしてしまうし、安易に、そうした人々に犯罪やら集団的行為やら集団的意見を負わせる。他者を偏狭な帰属のなかにとじこめるのは私たちのまなざしであり、他者を解放しうるのもまた、私たちのまなざしである。
人は、一気に自分自身になるのではない。自分自身が何者であるのかを「気づく」だけではなく。その自分になる。自分のアイデンティティに「気づく」だけではなく、それを一歩一歩と獲得してく。
人間のコミュニティはどんなものでも、侮辱されたり、脅されたりしたと感じれば、殺人者を生み出す傾向がある。自分たちは当然のことを行ったと思う傾向にある。だから、重要なのは、その殺人者になってしまうような心の怪物がでてきてしまう条件を抑制すること。
歴史を通じて、支配的であった諸々の考え方が数十年先も支配的のままだとは限らない。新しい現実が出来するとき、自分たちの態度や、習慣を考え直す必要が生じる。そうした新しい現実が出現するのが早すぎると、私たちの心性はついていけず、気づけば火事を消そうとして可燃物を注いでいる。
私たちのすべてを包含するグローバル化の時代にあたっては、アイデンティティの新しい考え方が必要。
他者に歩み寄っていくと決めたら、両手を広げ、顔をまっすぐあげて進まなければならない。しかし、一歩あゆみだすごとに、仲間を裏切り、自分を否認しているような気がしたら、そのような他者へのアプローチは間違っている。その言語を私が学んでいる人が、自分の母語を尊重してくれなければ、彼の言語を話すことは、自分を他者へと開くことではなく、忠誠と服従の行為になってしまう。
一番印象に残ったのは、どんな教義でも狂信になりうるということ。キリスト教、イスラム教、マルクス主義が「本当に言っていること」を問うたところで意味がないと著者は言っている。肯定的であれ、否定的であれ、自分の中にすでにある偏見を確かめるだけでなく、答えを見つけようとするなら、教義の本質ではなく、それをよりどころとする人々が、歴史の中で取ってきた行為についてこそ見るべきである。
また、著者はキリスト教とイスラム教を対立させる考え方に異議を唱えている。
歴史という大きな展望の中で、人間と、制度のふるまいを評価することが大切。
宗教はそのときどきの社会の姿を映す鏡である。
宗教が人々やその歴史に与える影響は過剰なほど重く見られているのに、人々とその歴史のほうが宗教に与える影響はさほど重要視されていない。しかし、影響というのは相互的なものである。社会が宗教を形成し、すると今度は、宗教が社会を形作る。
私たちは、アイデンティティの重要な要素、例えば言語、宗教、文化などのシンボルが脅威にさらされていると感じられれば反発するものである。私たちの時代は、調和と不調和という二つの徴の下で展開されている。人間がこれほど多くのものを情報や知識、イメージ、言葉を共有することによって、各自が差異を強調するようになっている。
加速するグローバル化がその反動として、アイデンティティの欲求を強くさせている。急激な変化に伴う実存的な苦悩ゆえに、精神的なものへの欲求が強くなっている。この欲求に、宗教的帰属だけが答えをもたらし、そうしようとしている。
p113 宗教への欲求とアイデンティティーの欲求を切り離すこと。
宗教そのものが乗り越えられるべきだと言いたいわけではありません。科学によっても、その他の教義によっても、いかなる政治体制によっても、宗教が歴史の忘却の中に葬り去られることは決してないでしょう。科学が進歩すればするだけ、人間はその目的についてと言うことになるはずです。いかにして?を問う神がいつか消えても、どうして?を問う神は決して死ぬ事はないでしょう。
そして直ちに次のように付け加えたいと思います。私の観点からすると精神的なものへの欲求は、必ずしも信者のコミュニティーに帰属することを通して表現されるべきものではありません。実際、それぞれにいろんな点で自然で正当なものであるけれど近道すべきでない危険な2つの深い憧れが見受けられます。一方には、私たちの人生、苦悩、失望を超越し、生と死に意味を与えてくれる世界観への憧れがあり、他方には、自分を受け入れ、承認し、その中に入れば言葉を費やさずとも理解してもらえるコミュニティーと結びついていたいと言う、人間であれば誰しも抱く憧れがあります。
私が夢見るのは、宗教がもはや存在しないと言うような世界ではなく、精神的なものへの欲求が貴族の欲求とは切り離されているような世界なのです。誰もが信仰や崇拝そして聖なる書物から触発された道徳的な諸価値を維持したまま、宗教を同じくする者達の集団の一員となる必��ももはや感じることのない世界。もはや宗教が戦争状態にある諸民族の接着剤として使われることのない世界。境界を国家から分離するだけでは不十分なのです。宗教的なものをアイデンティティー的なものから分離することも同じくらい重要なのです。そして、このような近道が共振や恐怖や民族紛争に氷を注ぎつけるのを避けようと思うのなら、まさに違うやり方でアイデンティティーの欲求を満たすことができなければならないのです。
今私たちには自分が何も知らないと言うことを認める謙虚さが大切です。歴史のゴミ箱の中に期待していたものが常に見つかるわけでは無いのです。
何かを信じていれば、そして自分の中に十分なエネルギーや情熱や生きる欲望があれば、今日の世界が私たちに提供してくれる様々な資源の中に、自分の夢のいくつかを表現する手段を見つけることができるのです。
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「アイデンティティが人を殺す」chikumashobo.co.jp/product/978448… 宗教や民族や国家が生む排他性非寛容対立は、日本人には実感が難しいかもだけどスポーツの祭典や国別対抗に必ず現れる強大なナショナリズムが良い例だな(だからわたしは大嫌い) 母語英語に加えてもう1言語を習得するという提言がよかった
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人間のアイデンティティとは、自分の奥底に眠るたった一つの本質的な帰属などではなく、生まれ育った環境から後天的に得られる要素も含めた、複合的な帰属から成る。しかし人は数多くの帰属の内どれか一つが脅威にさらされるだけで自分のアイデンティティが侵されたと感じ、その帰属を共有する者たちでコミュニティを作り、攻撃者に対する反撃を開始する。
グローバル化、すなわち西洋化は、非西洋の国々にとっては独自の文化が西洋文化に置き換わる運動であった。自らの文化という帰属を侵された者達の拒絶反応が、近年のナショナリズムや人種差別に繋がっているのかもしれない。
多様性を認めようという本書の主張は、近年ではダイバーシティとして一般に浸透しつつある考えだが、原書がフランスで出版された1998年の時点ではまだ馴染みがなかったはずであり、時代を先取りした作品だったのかもしれない。
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知られるように、人間とは実に不可解な存在である。1人の個人の中で矛盾があったり、あるいは急に翻意が生じたりすることもしょっちゅうだろう。そうした動的な人間を無理やり何らかの、単一の(ここが重要だ)のアイデンティティに押し込めることは現実的ではない。ぼく自身、自分自身のアイデンティティを語る言葉を探してさまよい歩いていた頃にいろんな概念に飛びつき、そして何とかしてすべてをクリアに見渡そうと無茶をしたことがあるので著者の指摘は実に耳に痛い。アジアが視野に入り切っていないところは限界かなと思うが、非常に興味深い
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世界の紛争が活発化する今、改めて読まれるべき本。
アイデンティティは複数の要素の組み合わせであり、どの要素が重要になるかは外部の環境にあわせて大きく変化する。アイデンティティを狭く見るのではなく、広くもっていくこと、全ての人のアイデンティティが尊重されるよう、少数言語の保全に生物多様性のような情熱を傾けるべきであること。とても学びが多い。
著者は作家で、柔らかく読みやすい文章。200ページにも満たないので挑戦しやすい。多くの人に読まれてほしい。