文学の二次元表記仮説
2018/05/21 07:07
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投稿者:病身の孤独な読者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は日本文学の美について、過去と環境に代表される「時間」と「空間」という二次元の軸を根底に分類した画期的な書籍である。加藤氏の文学論は、文学評論の域を超えて、学問としての「文学」を目指し、学問としての文学の魅力ある仮説を立てている。まさに文学者として学者らしい貢献をしている。その姿が、本書からとても明確に伝わってくる。文学者のお手本と言っても過言ではない。
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Amazon見ると評価高いみたいなんですが、私個人としてはビミョー。「日本人」の意識の特徴を「今=ここ」というキーワードで論じる、ということ自体はそれほど悪くもないと思いますが、それが地理的孤立性によって形成された、という物言いには首をかしげます。海に囲まれた島国である、ということが「孤立性」を意味するようになるためには、海上交通のほうがさまざまな点で不自由だという前提が必要になるわけですが、その前提は歴史的に見て常に成り立っていたわけではないでしょう。……そんなわけで、「今=ここ」中心主義がどのように生き残ったか(生き残ることができなかったものは何か)、あるいは、現代のわれわれにとって「今=ここ」中心主義が「日本人」の意識の特徴のように見えることの意味は何か、といった問いに変換した上で、本書の内容を消化したいと思っているところです。(20071107)
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日本文化の特質を時間と空間の二軸から「今 = ここ」の強調と捉えて論じています。「今 = ここ」は、部分が全体に先行するものの見方、すなわち眼前の、私が今居る場所への集中することであり、それは大勢順応主義と共同集団主義へと向かう傾向が強くなることを導き出しています。日本人の宗教観・文学・建築・絵画など様々な分野を例証として説明している箇所は納得できるところが多いです。最終章で「今 = ここ」からの脱出について書いていますが、文字通り「今 = ここ」という時空間からの脱出について述べるのに留まっていたのが残念でした。日本文化の特質としての「今 = ここ」から、心理的に脱却するためにはどういうことが考えられるかについても筆者の考えを論じてほしかったです。
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この本を読了するのに数カ月かかり、2回目を読みながら感想文を書くのにまた2,3カ月かかった。一文一文の密度が濃く、格調高い。奥が深い。世界が広い。
加藤周一は、これから日本人はどうあらねばならないかを考えるために、これまでの日本文化を分析している、西洋や中国と比較して。時間や空間にあらわれる日本文化の特質が日本人の優秀さや、逆に愚かさを生んでいると考えている。
日本人の文化的な特質を加藤周一は「今」と「ここ」にまとめる。日本人には「今」と「ここ」しかない。だから過去は水に流し、鬼は外福は内なのである。
米中の接近に際して、とっさに日中国交回復を成し遂げた座頭市的な早業外交。大震災後の市民レベルでの素早い対応。今には強い。
一方で、それは日本人の大勢順応主義という特質に結びつく。
攘夷が開国になり、西洋崇拝となる。米英撃滅の次に米国追随、保護貿易による経済成長の次に市場開放と「自由化」・・・「大勢順応主義は、集団の成員の行動様式にあらわれた現在中心主義である。」
俳句の時間は瞬間であり、それを支える制度化された「季語」は日本独特である。
随筆も日本独特の文学だが、面白いのは「全体」ではなく「部分」である。
絵画、特に絵巻物の中の時間は常に「今」となる。
日本語の語順は、文末に動詞を置き、「全体を知る前に細部を読むことを読者に強制する」
都市空間や建築においては「左右相称性と非相称性が重要で」あり、前者は空間の全体にかかわり、後者は部分重視となる。
「中国は徹底した相称性文化の国であり、日本文化は正反対の非相称性に徹底する。西洋はその中間に位置する」
日本空間の特徴、第一に「おく」の概念、第二に水平面の強調、第三に建増しの思想であり、建て増すことによって非相称的な空間が生まれる。
神社や徳川時代の武家屋敷にもこれらの特徴が明瞭に見られる。
桂離宮、そして茶室、妙喜庵待庵。
この本は3部構成で、1部は時間、2部は空間、第3部はその関係を取り扱っている。
さらに1部と2部は、それぞれ3章構成であり、その第1章は古代神話や信仰体系すなわち世界観における時空間を取り上げ、第2章は芸術・文化における時空間の表現を考察の対象とし、第3章は近代から現在における日本人のとってきた行動様式をみている。
第3部は時間と空間の関係、その両者に貫徹している共通法則をまとめ、さらにそれどう超えるかを考察している。
空間とは行っても、自然、地理、社会(ムラ、国、そして外交)、建築など多岐にわたっている。
時間についても、ユダヤ教、古代ギリシャ、古代中国、仏教、古事記、短歌、連歌、俳句などを取り上げている対象は広い。
加藤自身、世界のあらゆる文化を縦横に飛び回り、引用している。時空間を超越しているかのように見える。
本書全体で、時間における部分重視が「今」であり、空間における部分重視が「ここ」であるということをつまびらかにしている。
しかし、なぜそうなのかについては、明確には述べていないように思われる。それは文化とは、人間社会における精神生活の総体であり、過去からの蓄積が層を成した結果としか言えないからなのだろうか。残された第一の課題である。
時空間を物理的に超越するためには脱出すること、それを完成させるために亡命すること。そして、時空間を精神的に超越するのは禅であるとしているが、禅についてはそれ以上詳しく展開していない。第二の課題である。
1部2部の1章における歴史意識は、丸山眞男のいう「古層」に近いという。これは私の勉強すべき課題である。
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「今=ここ」という考えは境地のものという印象だが、この本では真逆の視点が得られる。つまり、日本の典型的な考え方であり、必然的に至る考えであるという道筋。
部分と全体という視点も面白い。建て増し・部分の自己完結性が日本の特徴。
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恥ずかしながら、初・加藤周一。訃報を聞く少し前に新刊で買ったままほっぽらかしてあったのを読んだ。多分最後の著作ではないかと思う。やや牽強付会の感は否めず、全体的に迂遠で冗長ではあるが、恐るべき博覧強記。もうあと10年、いや、5年生きて今の日本を語ってほしかったも思う。
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日本文化を「雑種」と定義づけたことで有名な加藤周一。この本では、日本文化における時間と空間に関して考察がなされていた。西洋との比較・具体的な文献(例えば、古今和歌集の引用)などが多く、説得力があった。
時間論の入門書として手に取るのも良いだろう。
直線上の時間という考え方(キリスト教的)と、円周上を循環する時間(仏教的・輪廻転生)という考え方など勉強になる。
また、日本の伝統としての空間に関する考察も興味深い。宗教的建築物や世俗的建築物に置いて、日本で縦の線を強調する建築ができたのは、第二次世界大戦以降だそうだ。それ以前は、水平の面に沿い地を這うような様式が一般的であった。また、舞台などでも地に沿う考え方があり、例えば日本舞踊は両足が同時に床を離れることはないという。
こんな所にも、知らず知らずのうちに日本人らしさというものが隠れているのだと思うと、興味深い。
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7/13は日本標準時制定記念日
時間つながりでおすすめ。日本文化を貫く時間と空間に対する独特な感覚とは?
可能性と限界に迫ります。
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第2部以降を読んで
2部は空間の話。古来よりムラ社会である日本において、内部の人とは対等だが、外部の人に対しては上に見て従うか、あるいは見下すかの二択であったことが例示される。例えば、ムラにおいて官吏は従う対象で、旅芸人は見下す対等だったように。あるいはかつては属国として従っていた中国を、アヘン戦争後は急に見下したように。
前に仕事で話した大企業のお偉方が、外国人のコミュニケーションと日本人のそれを比較して言っていた、「結局日本人は対等な話はできないんですよ。目上が目下に論説をぶつ。目下はうんうん頷いて聞く。それしかできない。」という話と重なる。
外交の場面でも、日本は包括的な問題解決においてイニシアチブを取ることはなく、本当に国益に関係するトピックの時だけ「わが国」の主張を通そうとする。この姿勢はあらゆる問題において関係国と調整を図り、いくつかの選択肢を提示したうえで妥協点を探すEUなどとは大きく異なるとのこと。これもかなり身に覚えがある。
これらは全て、コミュニティの内部に向かう強烈な意識に端を発するとのことだが、果たして今の日本人もそうだろうか。もはや自分の生まれた地域にこだわりのない人、さらには日本という国にすらこだわりのない人も多いことだろう。会社の形態もかつてはムラに例えられたが、今はもうそうではないことは明白だ。そういう人々が国際社会でどう振る舞い、どういう日本人像を作っていくことができるのか。少なくとも形式的にはムラの消失した現代日本において、私たちはもっと別の精神性を獲得できるはずである。いつまでも「外国人から見た日本文化のすごいところ」なんでテレビ番組を作ってご満悦に浸っている場合ではない。その段階から抜け出せる社会的土壌はもうあるのではないか?
加藤周一は(これまでの日本文化のどうしようもなく悲しい性を丹念に炙り出してくれたものの)残念ながらその先を提示してはくれない。
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第1部 (時間について)を読んで
「明日は明日の風が吹く」し、「宵越しの銭は持たない」日本文化は、過去や未来に対して明確なビジョンを持っておらず、あるのは今だけであると説く。おそらく和辻哲郎に言わせれば、台風などの突発的災害が多い日本の風土が育んだ独特の「諦観」ということになろう。読んでいて自分も、「今が良ければ良い」と思うし、「失敗しても何とかなる」と思うし、最終的には「人生はなるようになる」と思えてしまう典型的日本人の一人だと気づいた。
著者曰く、その価値観は、文明開化や敗戦後にころっと態度を変える国民性にも表れており、例えばナチスの罪を徹底的に懺悔し断罪したドイツとは異なる。(確かに右派でない人でさえ、いつまでも過去の恨みを忘れない隣国に対して、どこかで「第二次大戦は軍部の責任が大きいし、賠償金だって払ってるのに、いつまで過去に拘ってるんだろう」という感想を全く持たないとは言えないだろう)
特にこの「今さえ良ければ良い」傾向が顕著だったのが平和な江戸時代で、芸術は急激に世俗化し、室町時代のような宗教や哲学に触れたものは見られなくなるようだ。
ここまで読んで、平成のポッ��スを思い出した。よく「最近の歌は深みがない」というが、何のことはない、平和だったのだ。
「(たまに困っても)基本は平和」というのが、過去や未来を真剣に考えない要因として大きいのだろう思う。今が苦しければ未来への思いが強くなるだろうし、未来が危ういと思えば過去を勉強するだろう。島国で外敵も無くのほほんと暮らし、台風で困ってもまあなんとかなり、オイルショックで困ってもまあなんとかなり、リーマンショックで困ってもまあなんとかなってきたのが日本である。皮肉にもかつて日本が未来に対して何か大きな構想を持った唯一の例がおそらく大東亜共栄圏で、それは列強の侵略という危機に晒されていた時代だ。
そう思ったとき、これからの時代はどうだろう。世界情勢は日に日に危うくなっている。大国は何をしでかすか分からない指導者を抱えている。隣国との溝はここに来て急激に深まっている。国内でも嘘と本当が入り混じっている。台風や地震は、もはやちょっと困る程度の規模ではなくなっている。試しに、これからのポップスの変化には注目していようと思う。軽薄な歌よりも、哲学的な、重いものが流行りだしたら時代が変わったサインだろう。
きっと、ここからは日本人にとって不得意な時代になるかもしれない。「なるようになるさ」ではなく、未来に対して意思を持たないといけない。そのためには過去を自分で体系立てないといけない。そして戦前戦中のように、一部の意見に迎合してもいけない。これらは未だかつて日本の民衆が一度もやったことのないことである。もちろん、不得意だから、やったことがないからといって、それをやらなくてもいい理由にはならないのは明白だ。でも、自分にそれができるだろうか。
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時間と空間のとらえかたについて、日本の文化(絵画、和歌、俳句、演劇)からその特徴を捉えようとする本です。まず時間について、世界には(1)はじめと終わりのある時間(ユダヤ教)、(2)円周上を無限に循環する時間、(3)無限の直線上を一定の方向に移動する時間、(4)始めなくおわりのある時間、(5)始めがありおわりのない時間、の5類型がある。そして古事記から始まる様々な例をひもとき、例外はあるものの、日本は(2)(3)の無限の時間の概念が主流だと主張しています。そこでは時間の分節化が難しく「いま」の連続で時間が流れゆくとのこと。
ついで空間についてですが、こちらは(1)開かれた空間、(2)閉じられた空間、という類型の中で、日本は想定通り(2)だという主張がなされます。これだけですと真新しさはないのですが、私が最も興味深かったのは、日本の空間の3つの特徴として、「オク(奥)」の概念、水平面の強調、そして建て増し思想が挙げられていたことでしょう。これは実感にあいますし、現実の建築物だけでなく企業の組織にも同様の特徴があると思いました。特に3つ目の建て増し思想については、よく隠喩で「熱海の旅館」という表現がされることがありますが、熱海の旅館に行ったことがある人ならわかるように、無節操に建て増しされた迷路のような構造になっています。著者はここから、日本の空間思想を、部分から全体へ、つまり部分重視、細部重視主義であり、全体ではなく「ここ」を何よりも重視していると指摘します。
そして2つがあわさると「いま=ここ」志向が、日本文化に見られる時間と空間の特徴だと結論づけるわけです。確かに禅宗のお寺で座禅に参加すると「いま=ここ」に集中せよ、そこにこそ真実があると諭すわけですが、これだけ座禅がブームになっていることを裏返すと、現代人は、「いま=ここ」ではなく、過去や未来、そして「ここ」以外の事象に囚われすぎているということが言えるのかもしれません。いろいろと考えさせてくれる良書でした。