羊皮紙の時代のコンコーダンス
2024/10/30 23:20
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田川建三の「書物としての新約聖書」には「はじめの時期に引照を作り上げた人々の努力は大変なものであったから、大いに評判されるべきだろう」(同書528頁)とあるが、まだ紙がヨーロッパに伝わった頃で羊皮紙を使っていた時代に聖書のコンコーダンスを「作り上げた人々の努力」は並大抵なものではないだろう。「読むことの歴史」には中世後期に既に聖書のコンコーダンスが存在していた事が記されているが、おそらく暗記していたウルガタの本文を暗誦しながら作成したのだろうか?ましてや「聖書や教父の著作、古代哲学、さらにはアビケンナやガザーリーのようなイスラム思想家も網羅する包括的な『目録』」(90頁)となれば今でもチベット仏教や上座部仏教の僧侶が大蔵経を暗誦しているようなものだったろうか?
写本の時代で聖書のコンコルダンスを編む事
2023/08/31 21:15
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12世紀ルネサンスの頃に作成された索引が大学教育で多用された事は「読むことの歴史」に出て来る。しかし活版印刷が生まれる前で木版印刷などなかったので写本家が1冊1冊書写していた時代にラテン語聖書のコンコルダンスが生み出されていく過程が興味深い。当時の事なので写本家は聖句を暗記していたとしても、コンコルダンスを作成する時に読者が利用しやすくするには写本を元にして正確に書写しないといけない。
本文にあるようにラングトン司教が聖書の章分けしたにしても、現在使われている節は活版印刷と宗教改革の時代まで存在しないのでコンコルダンスの作成者は章の中で区切りを使っているそうだ。
普段は索引を使って本を読む事は少ないにしろ、大部の本では出て来る個所を調べる時には必要だ。
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レビューはブログにて
https://ameblo.jp/w92-3/entry-12828335686.html
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最初は本を最初から読まなくなると批判されたり、恣意的に索引をつけられたりと、意外な情報を得られた。電子書籍で検索できるようになり、索引の役割も変わるのかもしれない。
キリスト教を布教するため、わかりやすくするために普及したという話に納得できた。
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ガッツリ、論文的な本でした。
なかなか分厚くて難しかったので
気になったところを拾い読み。
最後に、この本について
AIが作った「索引」と
人間のプロが作った「索引」が
掲載されていて比べることもできる。
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学術書やノンフィクションなどの書籍の巻末に当たり前のように付されている「索引」の歴史をそれこそ物事をアルファベット順に並べることから現代のコンピューターによる自動生成や電子書籍における索引の問題までその変遷と影響について延べた本。
普段、あまり索引を活用することがなく索引についてちゃんと考えたこともあまりなかったので、主題索引と用語索引の違いや索引が指す書籍内のロケーションの問題(ページ番号の発明は偉大であったが、写本では引き写すさいに判型の違いなどからページ数が原著と異なることが多く、その価値を発揮するには印刷技術の発展を待つ必要があった)などいろいろ新たな知見と考えさせられる事柄が多かった。
面白かったのが、18世紀初頭の英国のトーリー党とホイッグ党が激しく対立し、対立する党派の人物が書いた書籍に対して悪意を持った索引を作成して誹謗中傷を行ったという話で、索引がもつ批評性とデリダの脱構築をちょっと思わせるようなそのメタな手法がなんとも興味深い。
あと、これも知らなくて吃驚したけど、英国には索引は索引家と呼ばれるプロが作るもので索引家の組合である索引家協会まであるんだそうだ。てっきり作者や編集者が作るものだと思ってた。
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索引が大発明?と思いましたが、考えてみれば本が作られたときから索引があったわけではないのです。
小説には目次はありますが、索引はない、事が多い。
しかし辞書や図鑑、研究所や報告書などに索引は必須。
じゃないと、知りたいことがどこに書いてあるかわかりません。
でも、本が巻物だったころ、索引なんてありませんでした。
最初から最後まで読まないと、内容が分からない。
索引というのは、要するに位置情報なのです。
これこれについて知りたいと思ったら、索引でそれらについて書いてあるところを調べてみればいいのです。
本が、今の形になって初めて索引は作られます。
なぜならページをつけることができるようになったから。
しかし、それだけでは索引はできません。
見出し語のセンス。これ大事。
多すぎては意味がないし、少なすぎれば役に立たない。
だから、いい索引はプロの、腕利きの索引作成者が作っているのですって。
当たり前のことなのですが、今まで考えたこともないので目からうろこです。
人が、一冊の本に書かれている言葉を、データとして分類してページと紐づける。
これは相当の時間と労力を必要とします。
だから索引より先に、章タイトルができました。
ある程度、「こんなことが書いてあるよ」と分かるように。
そういえば17世紀くらいの長編小説って、章タイトルの後に、その章で書かれているエピソードを細かく記載しているものがあったなあ。
これも、索引代わりということか。
しかし、研究者や有識者などが、本文から簡単に知りたい部分をみつけられるのはいいけれど、これが行き過ぎると索引だけで情報を得て、肝心の本文を読まなくなるのではという危機は、索引という概念ができたときから懸念されていました。
効率的に内容を把握するのは大事だけれど、中身を深く読みこんでいくのはもっと大事、と。
これが現在だと、タイパだといって本を読まずにダイジェストで済ます、スマホの検索で知りたい出来事だけを調べる、ということになっています。
それは本当の知識ではない、と私も思いますが、知ることが容易になったことのメリットを考えると、索引という大発明に感謝ですね。
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indexと聞くと、IT分野よりの自分としてはどうしても情報技術寄りをイメージしながら本書を注文したけど、かなりプリミティブなレベルから積み上げる話だった(情報技術を用いて索引を作る話は最後の最後でちょっとだけ出る感じ)。
最近はウェブで調べてから、おすすめの本を探して読み進めることが多いので索引を引きまくるような知的作業からは縁遠くなってしまった、けど改めて索引という知的(衒学的?)作業の道標として積極的に利用したいと思った。
一方で、索引に関わるいろんなエピソードが散りばめられているのはとても良いのだけど、ある意味読みづらさにもつながるように感じた。
1〜3章は索引が誕生し、ある程度隆盛するまでの大前提の話(アルファベットの順序性=索引をどういう順序で並べるのか)、最初の索引の登場、索引が参照する場所の定義(ページ)の話。
1章のあたりをちまちま読んでたら、「あれ、今何を読んでんだっけ?」と思ってしまったが、ページの話なども含め、当たり前過ぎて欠かせないものだった。
4〜6章は1〜3章の起源を受けてまともに利用が進んだ16世紀以降における索引の立ち位置の話。
最近はウェブから調べることが多いから積極的に索引を引きまくる状況がなくなったので幾分影が薄い存在になってしまっているのだけど、索引から読み始めたりするエピソードなどはなかなか新鮮な発想だった(でも、そういう読み方もありだな)。