なぜ差別するのか、わからないまま、避けたまま今に至っている
2023/12/24 11:38
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投稿者:雑多な本読み - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、部落差別を取り上げているが、差別を「差別される」人の問題でなく、「差別する」人の問題からアプローチするものである。日本も批准している人種差別撤廃条約では、人権の行使を妨害するのは、差別「する人(側)」であり、差別する側の問題ととらえる。国際基準そのものである。障害を理由(直接、間接ともに)に排除するのは差別であるが、障害の特性に応じてバリアフリーや点字ブロック等の整備も合理的配慮であり「障害の社会モデル」という考え方であり、逆差別でも何でもない。しかし、世界的にこれまで優位に立っていた人から見ると格下げされたと感じるのであろうか、逆流的な流れもある。日本も同様の状況があると思われる。最近のネットに被差別部落の地名情報や動画を流したりする事件があるが、以前の部落地名総鑑事件と内容は変わらない。そうした事件も取り上げているが、一つの流れを判定している。目次を見ると、
プロローグ 今、なぜ差別「する人(側)」研究なのか
第1章 差別とは何か?
第2章 社会構築主義はマイノリティを無化するものか?
第3章 レイシズム研究に手がかりを求めてー「逆差別」言説の研究を契機に
第4章 社会システムに埋め込まれた差別―「土地差別」を考える
第5章 部落出身者判定の手がかりにされる部落の所在地情報(地名等)
第6章 「全国部落調査」裁判―インターネットによる部落の所在地情報の拡散に向き合う
第7章 ふたたび、言説の変容を考える―「現代的レイシズム」とインターネット
第8章 「現代的レイシズム」を強化するものは何か―大学生の意識調査から
終 章 どこへ向かうのか
エピローグ
参考文献 となっている。
以上のように展開される。これまで、個人の出身を調査することが差別と明確にとらえられたが、差別と判定されることが分かっているから、現代に見合った手法を使う。過去の行政資料等を利用し、地名から推測させ、地名を表示しただけとごまかす。部落差別は封建社会の残りかすという考え方が通用しない事象が出ており、それ自身、部落差別解消に向けた政策の必要性を浮かびあがらせている。大学生の意識調査は見方を考えさせられる。さらに多くの研究が出てきて、具体的な提案となればと思う。部落差別に限らず、社会の問題に広げることもできる。一読してほしい本である。
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メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1743247459126817214?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
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「差別する人の研究」とあるが、著者は、「差別をほじくり出す研究」をしているのではないか。
差別は、歴史のなかで確かに存在し、それと闘った人たち、国や地域の取り組みは評価されるべきであるが、現在までに何がどうなったのか、理解すべきである。
アメリカのアファーミティブアクションは、当時必要な施策であったと思うが、半世紀以上も経って、同じように維持するならば、それは特権に化ける。最高裁の判決は共産党寄りだからと切り捨てて良いのか?
日本の同和対策も、往時必要であったものも、何十年も続ければ利権化する。
現在のLGBT騒動や、アイヌ騒動でも自分達は差別されている、だから何々せよと叫べば、何某かの特権に繋がる危険性を孕んでいることを理解すべきである。
実際に、嘘っぽいウポポイとやらに多額の税金が投入され、これを維持するという名目で利権ができた。
著者は、100年前のことと現在のことをごっちゃにして論じているようにも見える。
先人達が闘いをはじめた当初に必要であった施策は、見直していくべきである。なぜ部落解放同盟が、いまもそのまま存在するのか?それは利権があるからではないのか?こういう視点も含めて差別を研究して貰いたい。失礼ながら著者も差別で飯を食ってると言えなくもない。差別を研究して給与をもらい、差別の本を書いて印税をもらう。差別は無くなって貰っては困る?
「差別する人が悪い」、そらそうでしょ!小学生でも、そう言います。それで、学校教育で差別禁止を教えよとあるが、それで差別すべき対象を認識して差別してしまうという現実をどう考えるのか?
被差別部落の近郊で育って、そちらだけ優遇された逆差別の実感を持つ身としては、分析だけでなく解決策をお聞きしたいと思う。
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配架場所・貸出状況はこちらからご確認ください。
https://www.cku.ac.jp/CARIN/CARINOPACLINK.HTM?AL=01425990
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装丁から感じた印象と違って想像以上に研究してて読み進めるのに時間がかかりました
システムに組み込まれた差別を解消するために注目しなければいけないのは意識(個人)か仕組み(社会)か
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部落差別を基礎としながら差別全体について考察していて面白かった
部落差別のもつ系譜性とレイシズムとの重なり、地価という形で市場に組み込まれた部落差別
「まさに現代の差別は、「差別する人」を免責する構造を持ち合わせているのだ。」(p.206)
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ちょっと思っていた内容とは違いますが、差別される人ではなく、差別する人を研究しているというのは目からうろこだし、言われてみればなんでいじめるのか、という方が重要だよなあとつくづく思いました。
小さい差別としては片親という事を体験していますが、今でこそ珍しくも有りませんが、子供の頃はたまにかわいそうなどと言われることも有りました。妹に至っては片親の子とは遊ばないように言われたりして、泣いていたこともありました。信じられない事でありますが本当の事です。
仮に誰かが「なんで差別されると思う?」と言って来たら秒で「知らんがな」と返すしか無いです。差別する方に聞けとしか言いようがない。
そういう訳で、国籍や出身地など様々な差別が有りますが、差別をする側に「なんで?」と聞いたらちゃんと答えられる人居ないんじゃないですかね。というか恥ずかしくて言語化出来ないんではないかと。
でもそうやって問いかけていく事で、差別は恥ずかしい事だという認識を持たせることが重要なのかもしれませんね。
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どこかで読んだ本の中で紹介されていたので読んでみた。
差別は「される側」ではなく「する側」の問題である。この考え方はこれを読む前からずっと心の中にあった。いじめ問題にも通ずるところがある。
自分がマジョリティ特権に甘えている部分はないか?差別されている人に対して「そんなこと気にしなくていいのに」と言って問題を無かったことにして相手が声を上げにくくなったことはないか?本当に相手のためになることを自分はできているか?など、耳が痛い話がたくさんあった。
部落の人たちはそこに住んでいる・ルーツがあるというだけで差別される。でも彼らは肌の色も使う言葉も文化も同じである。それなのに差別が生まれるというのだから、人間の思考は恐ろしい。人が部落出身であることは気にならなくても、部落と言われている地域に住もうとはしないという話にもグサッときた。まさに自分がこれまでやってきたことだ。仕事の都合で引越す時、その近隣地域に住む人(それも少なくない人数に)「〇〇より向こう側には絶対には住むな。そこに用がないのなら近付くな。治安とかほらその…色々あるから」と言葉を濁しながら伝えられ、怖くなって避けたことがある。肌感として、多分あの地域は部落だったのではないかと思う。ネットで検索しても出てこないが、地元の人たちの間ではずっと伝えられている。部落差別が無くなるのはいつになるんだろう。自分の行動が差別に加担していると分かっている。でも、自分とは関係のない地域の差別をなくすために、自分の人生の一部を使うのは、なかなか難しい。
差別が良くないことは分かっている。でも自分は差別をしていない・なくすために何かしらの行動をできているかと問われると答えはNOだ。社会の中で生きている以上、既にできている社会の流れに逆らって生きるのはしんどいし辛い。差別解消のために体を張って行動している人たちは本当に勇気があるし、尊敬する。自分はそこまでできない…という人も、まずは自分の中に(無意識も含めて)差別する気持ちがあるということ、それはきっと0になることはないということ、そして差別をしてはならないという気持ちを共存させることから始めるのがいいんじゃないだろうか。まずはそこから、そしてそうした人たちが増えれば世の中の流れも少しずつ変わっていくと思う。何もできないというのは、何もしなくていいというわけではない。一歩ずつ、ゆっくりでも確実に、誰もが生きやすい社会をつくるための努力を続けたい。
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なんとなくそうだろうな、と思うことが統計的に裏付けられているだけで(現代は人への差別より土地への差別の方が色濃いとか)、取り立てて新しい発見があるわけではない。
ディベロッパーの友達と話していても、彼自身が差別的人間であるかどうかに関わらず、仕事上で部落の土地を把握するという考え方が定着しており、差別というのはこのように社会に残り続けるのだと感じたことを覚えている。
特権言説の理由として挙げられていた「資源をめぐる競争的考え」というのは良いフレーズだと思った。
現状への怒りや不満が、自らの状況をよくするための問題解決行動ではなく差別的感情に転化されるのは、為政者の思うつぼだしそれでは社会はよくならない。権利という資源をめぐって社会の間で競争するのではなく、社会改革につなげるにはどうしたらいいのだろう。
犯罪被害者の、受刑者への人権保障も、報復感情よりこちらの方が大きい気がするな、と思いながら読んでいた。
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差別とは変容していくもの。差別の再生産という言葉があるが、これは差別をされる側が変わっていくという問題。それに対して本書ではあくまで差別を“する側”について、どのように変わっていくのかということを論じていた。古典的レイシズムから現代的レイシズムに変わっていく過程で社会システムに入り込んでいく差別にウイルスのようなしぶとさを感じた。