マックス・ウェーバーの古典的名著です!
2018/11/10 12:39
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、経済学研究者として有名なマックス・ウェーバーの古典的名著です。同書には、仕事に没頭することが天命であり、神に選ばれた証であるとするプロティタンティズムの考え方が、近代資本主義の精神へと転化し、現代の資本主義社会を生み出していった、その歴史的なダイナミズムを丁寧に考証した作品です。経済学に興味のある方には、ぜひとも読んで頂きたい一冊です。
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です!RT @kohedonian Twitter で @E_Mond さんと読書会中! #dieprotestantische http://bit.ly/atZ6E4
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http://ameblo.jp/w92-3/entry-10525183699.html
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近代資本主義を支える心理的原動力となったものは何だったのか?その答えの一つとしてヴェーバーはプロテスタンティズムの禁欲的精神があったと考えた。禁欲とは修行僧にみられるような絶食・座禅といった修行ではなく目的のために他の欲望を一切拝するというものである。そういった精神はルターの提示した天職義務の教義と融合しつつ発展していき、こうしたカルヴァニズムが社会に浸透していった結果、意図せずして産業経営合理的な資本主義を発展させることになった。非常に逆説的ではあるが、近代資本主義というのは、マモニズムへの嫌悪、すなわち、金儲けすることを目的とした重商主義的精神からは決して生まれる事はなかったのだと、そう彼は主張しているのである。しかし、本来神の救済を求め、隣人愛を実践した結果として裕福になっていったが、次第にそれらを支えてきた精神・形式そのものが形骸化していった。と同時に資本主義というシステムそのものは残ったままである。もはやこのシステムが強制的に我々に天職たらざるをえない状況を作り出しているのである。本来であれば天職的労働者たらんとしていた者が天職たらざるをえなくなったのだ。
生活世界とシステムの相互補完的な関係は、現在においてはシステム側の避けがたい強力な力によって支配されているといっても過言ではない。バランスをとるためには、どういったことが望ましいのか答えはまだ闇の中ではあるが、いつかは考えなくてはならない急務である。
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ウェーバーの本を面白いと思ったことは実はなかった。しかし、中山元訳の手にかかると面白い読み物になってしまう。ウェーバーのキッパリとした物言いにも現実感があり、人柄までもが伝わって来そうだ。
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この本を読むにあたり、予め「プロテスタンティズム~が分かる本」で読み方の基礎を得た上で、挑んだ本です。 翻訳も良いのか、とても読みやすい。同タイトルの文庫本を持っていますが、そちらより読みやすかった。
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今、宮城県に来ている。が、現場の話は現場レベルでするのが礼儀だと思うので、これをブログで論じようとは思わない。今日は疲れた。
行きの飛行機で読んだのが本書。カソリック、ルター派、カルヴィニズムなどの流れから、禁欲的プロテスタントから資本主義的な経済にどのように流れていったのかを極めて明快に論じた本。訳が素晴らしいと思う。禁欲とは倫理的なものなのか、今こそ考え直すよい時期かもしれない。大学生の時、わけ分かんないと思っていたMウェーバーと社会学だが、ようやく近づいた。、、、ような気がする。
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『社会学の道はウェバーに通ず』という言葉があるか知らないが(いや、ないよ)、社会学に興味があるならば必読書なんだと思う。というか、面白いから単純におすすめできます。プロテスタントの人たちの考え方が近代の勤労精神と非常に相性がいいんだよね、っていうことを教えてくれます。
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「生活が厳しいものとなったのは」競争に負けずに更に冨を増やそうとする人々が、消費するのではなく、利益を増やすことを望んだからであり、昔ながらの生活様式を守ろうとする人々は、節約しなければならなくなったからである。
自己確信を獲得するための優れた手段として、職業労働に休み無く従事することが教え込まれたのである。
カルヴァン派>常に、自分が選ばれているか、それとも神に見捨てられているかという二者択一の問いの前に立ちながら、みずからを絶えず吟味しつづけることで、救いを作り出す。
規律>世俗的な職業労働についての思想においても採用
「人はどのようにして自己を知りうるだろうか。観察によってではない。おそらく行為によってだろう。汝の義務をなすように努力せよ、そうすれば汝は自分が何者であるかを、すぐに知るだろう。しかし義務とは何だろうか。それは日々の生活が要求する事柄である。」ゲーテ
「働きたくないものは、食べてはならない」パウロ
禁欲的なプロテスタンティズム>資本主義の発展
禁欲的な精神が求めたのは、所有者に苦行を強いることではなく、必要で、実際に有用な物事のために所有物を利用することだった。
現在では禁欲の精神は、この鋼鉄の「檻」から抜け出してしまった。勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、いまではこの禁欲という支柱を必要としていない。禁欲の跡を継いだのは晴れやかな啓蒙だったが、啓蒙のばら色の雰囲気すら現在では薄れてしまったようである。そして「職業の義務」という思想が、かつての宗教的な信仰の内容の名残を示す幽霊として、私たちの生活のあちこちをさまよっている。
「職業の遂行」が、もやは文化の最高の精神的な価値と結びつけて考える事が出来なくなっても、そしてある意味ではそれが個人の主観にとって経済的な強制としてしか感じられなくなっても、今日ではだれもその意味を解釈する試みすら放棄してしまっている。営利活動がもっとも自由に解放されている場所であるアメリカ合衆国においても、営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときにはスポーツの性格をおびていることも稀ではないのである。
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社会学を専攻されていた皆様はご存知の「プロ倫」が、日経BPで復刊!
岩○文庫版よりも確実に読みやすくなっていると思います。
「近代の資本主義の精神を構成する本質的な要素の1つ、そして単にそれだけでなく近代の文化そのものを構成する本質的な要素の一つは、『天職』という観念を土台とした合理的な生活態度であるが、この態度は『キリスト教的な禁欲』から生まれたものだ。」
と本人が要約しているように、神の恩寵を求め、神に与えられたとされる職業を「天職」とし、神に報いるために、人々は疑うこともなく、合理的に禁欲的に働き、生活する。このプロテスタンティズムが資本主義の精神を作り上げたという仮説をウェーバーは打ち立て、カルヴァニズムやピューリタニズムなど多角的な視点から、禁欲の精神と資本主義の精神の関係を分析する。
資本主義は、その高度なシステム化のために、「『少数の』プロテスタントから発生した禁欲的精神を土台としている」という事実に立ち返り、根底に存在するはずである人間性の本質を追求する作業を放棄させてしまった。そんな社会の行く末について、ウェーバーは以下の様な痛烈な「予言」を残している。
「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無に等しい人は、自分がかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう。」
かつてゲーテも模索した、人間性の本質。
少なくとも私が生きている間に、この資本主義をベースとした社会が抜本的に変わることはないと思いますが、自分の思想や行動の理由は、常に考え続けてみたいものです。
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資本主義の精神と言うのは功利主義的な商人気質から来るものではなく、節制と禁欲に励むプロテスタンティズムの倫理から生まれて来たのだということを解き明かした名著。自己啓発ブームにより、誰もが仕事で理想と自己実現を得ることを強いられる近年において、こうした「天職」という概念がどこから来たものなのか、かつては職業人であることを欲していたのが、なぜ今は職業人でなければならないのか、こうした観点から再考するのも面白いかもしれない。岩波文庫は解説だけ読んでおき、こちらを脚注は全て飛ばして読むのが入口として最適な方法。
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以前岩波文庫の難解な翻訳で挫折したため、日経BP版で再読。
冒頭第一節には、
「カトリックの支配というのは極めて穏やかで形式的な支配であったのだが、プロテスタンティズムの支配は家庭内の私的な支配から、職業的な公的な生のすべての領域にいたるまで、考えられるかぎりで最も広い範囲にわたってしんとの生活のすべてを規制するものであり、限りなく厄介で真剣な規律を伴うものだった」
とある。
宗教改革に対しては、カトリックの専制的な支配からの脱却といった間違ったイメージをもっていたため、この一文については衝撃を受けた。
宗教改革者は、カトリックの市民に対する支配が不十分であるとし、後のピューリタン的圧制につながったという。
本書の読みどころは、原罪からの救済のみを追求し、現世利益に対して関心の薄かった市民達が、利潤を追求する躍動につながることになったかという点である。
カトリックとプロテスタントの最大の違いは「予定説」であろう。
カトリックにおいては、神への奉仕によって原罪からの解放という「救済」があったが、プロテスタントにおいては「救済される人間はあらかじめ決められている」というものだ。
人々は自分が救済されるかどうかを知り得ないため、不安に駆られる。
救われた人間として自己確信を得るために、職業労働に休み無く従事することによって、宗教的疑惑を振り払い、自己確信を得ようとすると解説している。
1)「神の恩寵」を確証しようとする内面的な思考の原動力が現在に向けられるようになった。
2)身分と職業が神の意思の直接的な表れとして「天職」という考え方が広まった。
この「神の恩寵を得るための現世重視」と「天職という専門職業の重視」という2つの面から「功利主義」が生まれた。
専門的な職業について労働する者のスキルを高めることができたため、労働の生産性を質量共に改善させる方向に動かす考え方が出てきたのだ。
また、「ヨブ記」に書かれた「神が現世においてもその民を物質的な面においても祝福されるのは確実」という箇所が重用視されるようになったのも、功利主義を後押しすることにつながったとも解説している。
ヨーロッパの宗教改革を契機として、労働と現世利益に対する思想的変化を解説しているものの、具体的に資本主義成立へは明言を避けている印象ではあった。
ルターとカルヴァンをセットで宗教改革と認識していたが、本書の解説を読むことで全く別の思想であることがわかった。
また、イギリスにおいては、旧約聖書の道徳と同様の特徴から「イギリスのヘブライズム」とも呼ばれたというのも興味深かったし、ピューリタンとは、ユダヤ教の数世紀にわたって成立したタルムドールと符合する面が多く、形式主義的で立法的な側面があるというのも、目からウロコの読書体験であった。
まだまだ本書についての理解度が低いと自認しているので、「ヨブ記」や宗教改革時代の関連本を読んでみようとは思う。
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近代資本主義の成立を人々の内面から推し進めていった資本主義の精神と禁欲的にピュウリタニズムとの関係を社会学的に追求したもの。
以前に岩波文庫版も読みましたが日経BP版のほうが読みやすいです。ただ岩波文庫版は解説が充実しており、その解説と今回の日経BP版の本文を併せて読むのがよいかと。
主な内容は、、、
近代資本主義は商業に対する倫理的規制がない(営利を追求できる)地域・場所では実は生まれておらず、むしろ営利を敵視するピュウリタンの経済倫理(世俗的禁欲、労働を天職として励むという心情)こそが資本主義の精神として、近代資本主義の成立・成長に大きな貢献をした。
このピュウリタンの経済倫理は長期間の(宗教)教育の結果として育まれ、そもそも金儲けのためではなく、敬虔な思想(神への忠誠や隣人への愛)のため世俗的な職業生活への専心や無駄な消費の抑制を要請し、またこのような行動様式を身に着けた労働者が大量に生まれることで、結果として合理的産業経営を土台とする近代資本主義を作り上げていく。
そして、一旦強固に作り上げられた近代資本主義はもはやその基礎となった倫理は必要せず実際にも忘れ去られているが、その経済秩序に囚われた人々(現代の私たちも含まれるでしょう)にその行動様式を強要し、生活のスタイルを決定づけている。
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古典、さらには宗教とベースとなる知識に自信がないので敬遠していましたが、大変読みやすかった。最近の下手な経済読本より分かり易いと思った。
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技術、商業の教育を受けた人にプロテスタント的な性格の人が多いという著者の素朴な発見から本書はスタートする。
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資本主義において生産性を向上するため古来から出来高性が導入されてきた。しかしこれは生産量の向上につながらず実際には低下した。人は従来の方法で生活を維持することを望むのである。逆に賃金を下げても、生産量の質・量とも低下する。結局、労働のモチベーションは金銭にあらず、仕事を人間の絶対的な自己目的、天職と意識することに依るのであるが、この意識付けはある特定の宗教からくるのである。
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カルヴィニズムの禁欲性が生活の合理化、労働の合理化につながったというのが、かなり単純化した結論。キリスト教について基礎知識が無い読者はこのあたりで混乱すると思いますが、ようはルター派、カルヴィニズムを主に扱い、その中でカルヴィニズムの禁欲的な価値感が資本主義の発展に寄与したと理解してよいと思います。
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キリスト教の精神について、私には共感できることは少ない。「獲得した富は、子どもたちに残してはならない。自分で働いて富を蓄積するという道徳的な善行を行う機会を奪ってしまうから」…それぐらいかも。
彼らとコミュニケーションする中で、思想の根底にあるものを感じることができるかも。それは面白そうだ。他人の考えを素直な気持ちできく柔らかな頭と、努力は惜しまずに。〝時間の浪費〟は自己責任とゆうことで、ユルシテもらうよ。