南海先生ヮただの酒飲みでヮなかった
2023/03/17 22:16
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投稿者:719h - この投稿者のレビュー一覧を見る
学生時代にとある授業で
講師の先生からすすめられた
思い出の一冊です。
内容ヮ、文語文で楽しむ、
ハト派とタカ派との間の尽きせぬ議論、
といったところ。
文語文に歯が立たない、という方ヮ、
まず巻頭に置かれた口語訳から
入られてヮいかが。
酒飲み3人衆の対外政策論
2001/10/13 02:15
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:もひか - この投稿者のレビュー一覧を見る
明治20年の頃の日本における政治の在り方について、洋学紳士、豪傑君、南海先生という3人の人物の対話形式で論じられた本です。うわさに聞く政治の奇論を聞こうと、酒を持って南海先生のもとを訪れた洋学紳士と豪傑君が、それぞれ対立する自説を主張します。そしてそれを批評してまとめる形で、南海先生が自説を述べるという構成で展開します。自由・平等・平和の世の中を目指す、理想主義的な洋学紳士。現実的な説として帝国主義的な外国征服論を展開する豪傑君。南海先生は、洋学紳士と豪傑君の主張する二つの極端な説を結びつけるために、視野を広くして「眼は全世界を見通し、一瞬間に千年前にさかのぼり、千年後にまたがり」物事を考えては、と提案しています。明治時代に書かれた本ですが、現代の世の中にも通用する先見性を持っていることがわかります。理想として存在するある思想を具体的な条件の下で実現させるためには、その時とその場所において、実現可能な範囲で目標を立てるべきという南海先生の主張は現代でも広く受け入れられると言えるでしょう。
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大学時代の日本政治思想の授業で毎回書評を書く課題があったのだけど、その中で今も印象に残っている本。内容は時代性があるけれど、3人による問答形式という民主主義にとって必要な「対話」を見事に体現している本だと思う。政治学・政治思想に興味があったら、是非読んでほしい。
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判ろうが判るまいが、最初に文語体の原文を読むべし。今の政治状況は百年前とちっとも変わって無い。最近はむしろ退歩している。
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民権運動家、中江兆民(1847-1901)の著。1887年刊。南海仙漁、洋学紳士、豪傑の三人が酒を飲み交わしながら政治を語るという物語。前半は紳士と豪傑の論戦、後半は南海による二人の論の欠点指摘と自論の展開といった流れ。南海は「恩賜的民権」と「回復的民権」の二種類の民権があるとし、上からの恩賜的民権を賜った人民はそれを大切に守り、道徳を身につけ、学問に励み、恩賜的民権を回復的民権の地位まで育て上げねばならないと説く。明治憲法制定の二年前に発刊されたこの著は、市民への政治関心を一層求めるものであった。
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周囲でいろいろな人が絶賛しているので手に取った。
120年前に書かれたとは思えない代物。国際政治の基礎をかじった者としては兆民の識見に敬服せざるをえません。
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明治時代の国際政治状況を踏まえた日本の選択肢を書いた本。
解説によると中江兆民の思想を書いた本らしいですが。
架空の人物「南海先生」のもとに紳士君と豪傑君が現れて
酒を飲みつつ政治談議を交わす設定です。
紳士君はリベラリストというかもはやロマンチスト。
民主主義を標榜し「平等」と「自由」を兼ね備えた国になる事で
他国は敬意を払い攻めてくる事はないだろう、
もし攻められたら相手を非難して無抵抗で敗戦した方がましである、と。
対して豪傑君はリアリスト。
日本は小国であり、文化的経済的に急速な発展をする事は難しい。
更に、日本が改革を行うためには闘いを好む懐古主義者と進歩主義者がいてはならない。
そのような懐古主義者を戦地へ送ればいい。
領土を拡大して、日本の経済を発展させればいい。
そのために「隣の国」鈍重な国に攻め込めばいい。
こんな両者の主張だったかな。
最後に、この両者の主張に対して南海先生は
頑張って国内で経済を発展させて後は状況を天に任せるのみ、というような事をいい
現実味に欠ける両者の主張を退けます。
とてもおもしろい主張ではあったんですが
ちょっと論理が遠回りしすぎだったりレトリックが多かったりで読むのが大変でした。
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ゼミの教授に強く薦められ、手にした一冊。
原本が出版されたのは百数十年以上昔の明治時代。「経綸」とあるように、近代化へとひた走る日本における「あるべき国の姿」を、三者の議論の形を採って模索している。
当時の日本は、内の民権運動という波に加え、外の欧米列強という波にも揺さぶられており、故にこの本は政治制度と同時に国際政治にも論及している。国際政治学の古典とも名高く、教授はその意味でこの本を薦めて下さった。原文は難解だが、現代語訳されており、数時間で読める。
この本の優れて知的な点は、狙いとしてその「模索の過程」に重きを置いている事にある。国権主義、理想主義、現実主義を並べ置き、それぞれの視座を読者に提供している。そこには著者の結論のための取捨選択はなく、巷に溢れている経営哲学書がさせるような、読者の「理論的タダ乗り」を一切許さない。論を戦わせ結論を出すのは、読み終えたお前自身だと言わんばかりである。結論を急がず、切り口の違いこそをまず知らしめんとするこの姿勢は、ジョセフ・ナイの「国際紛争」にも通じる。
細かい内容への言及は避けるが、酔っ払いの論議という形を取り、非常に読みやすいにも関わらず、本書で展開される議論は百年経った現代においても全く色あせていない。それは人間が進歩していないからだと悲観する事も出来るが、それを差し引いても、この先見性(あるいは普遍性)には驚かされる。この年まで読まずにいた自分が全く情けない。
末尾に、『平時閑話の題目に在ては、或いは奇を闘かはし、怪を競ふて、一時の笑柄と為すも固より妨げ無きも、邦家百年の大計を論ずるに至りては、豈専ら奇を標し新を掲げて、以て快と為すことを得んや。』とある。兆民は五年・十年先ではなく百年・二百年先を見据えてこれを著したのだ。その姿勢、そして見識の深さに、ただ敬服するばかりである。
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洋学紳士・豪傑君・南海先生の3人が酒をかわしつつ天下の趨勢について論じたもの。
思想について論じたものだが、文学的な表現なども満載でこの本の3人が論ずるという形式もあってか非常に読みやすく、読んでいて痛快である。
民主制とは何であるかと考えさせられる一書。
この本が書かれた当時の時代背景などを念頭に置きながら読むと、より一層楽しめると思う。
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中江兆民がこの著作を執筆してから百二十余年。
未だに豪傑君、あるいは紳士君の一方の主張に拘泥する論調の、何と多いことであろうか。
「軍備なき平和」と「力による平和」の問題について南海先生はこうまとめた。
「外交上の良策とは、世界のどの国とも平和友好関係をふかめ、万やむを得ない場合になっても、あくまで防衛戦略を採る」こと。
何だか当たり前のようなこと、ともいえる。
しかしこの著作から得られることを高坂正堯は次のように記している。
「たいせつなことは、『軍備なき平和』と『力による平和』のあいだには超えがたいジレンマが存在するということなのである。このジレンマゆえに、そのなかに置かれた人間は大きな知的苦悩にもかかわらず、平凡きわまる答しか見出すことができない。」(高坂正堯「国際政治」)
非武装や核廃絶といった理念を唱えることを決して否定するわけではない。南海先生も言うように「思想は種子」「脳髄は畑」であるから、そういった理念が地球上のすべての人間に広がった場合、あるいは実現するときが来るのかもしれない。
ただ抽象的理念を単純化することで、先人たちが苦悩してきた問題から目をそむけるようなことだけはしてはならない。それは罪に値する怠惰である。
まずは上述したジレンマのような、「問題の困難性を認識」すること。
理念を掲げるのはその後からでよい。
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中江兆民――といえば、福沢諭吉と並ぶ二大思想家であり、ルソー紹介に一躍買ったとして有名だけれどそれ以上の知識はない人物である。経歴を調べてみると、彼は思想弾圧を喰らい、最終的には実業家として苦労しながらも生を終えたようだ。これだけ名を知られている人物であるが、実は晩年は苦労しているなどとは誰が知れようものか、とばかりに自分の無知ぶりを恥じることこの上無し。
さて、本著は中江兆民の思想のエッセンスを見事に抽出しているようだ。表題にあるとおり、三人の酔人――南海先生、紳士君、武傑君の三人による問答が転回されているのだけれど、どれにもこれにも中江兆民の思想がエッセンスされており、解説にもあるがある種の分裂した思想を中江兆民なりに統合しようとしたものが本著なのであろうと思う、言うなれば、著者自身にとっても必要な整理作業であると言える。逆に、一つの論調にだけ絞ってしまうと、人間は本来的に分裂症気質を持ちえているので零れ落ちるものが多く、三つの立場があってこその、エッセンスの抽出を成功させていると見える。
具体的に三者の立場を挙げ列ねていくと、紳士君は西洋の最先端を行く民主思想を持ちえている、この民主思想――って奴は曲者で、現在的に民主主義だと思われているものは恐らくはこの理想には程遠い妥協の産物であろう、民主制や共産制は理論が悪いのではなくて、正直なところそれを、「人間が実施するのはその性質的に困難である」という点において実施段階になって歪んでしまっている。彼は戦争を仕掛けられても、やらせておけばよく我々はむざむざやられましょうとまで述べている、究極の詭弁かもしれないが、もし、これをどこかの国が実際にやっていたならば歴史は変わっただろうと思われる、少なくとも現代の権勢主義に陥らずに済んだはずである。次に、武傑君は、軍国主義の先駆けとしての考えを展開させている。無論、彼は軍国主義者とは異なる。軍国主義者自体に関しては彼は滅ぼされるべきものだと述べているし、彼はまた自分自身すらも滅ぼされるべきだとまで断言してしまっている。彼は未来を想い描く民主思想を否定はしないものの、しかし現在は過去の積み重ねによって成り立ち、人間ってやつは、「民主主義者が思うほど立派なものではない」としてある種、現実的な意見を述べているが、軍国主義の走りとしての彼の思想が現実的であるかどうかと言えばやはりそれは否と言わざるをえない、そうして、最後に南海先生であるが、南海先生こそが現実主義者と言うに相応しいのかもしれない。南海先生が具体的に述べる政治体制も彼らの中間であるし、紳士君を、「理想に走りすぎている、君一人が先走っても仕方なく、本でも書くなりして、国民を教化すべきではないか?」として諌めている。これは兆民自身が果たした役割と言えるのではないか?また、武傑君に対しては、「君はあれこれと焦っているようだけれど、同盟を結べばよいのだし、防衛するには戦力は足りえているでしょう?」として諌めている。これは自らの中で欧米の進出に逸る気持ちを抑えていると言えるのではないか?
結局として、紳士君のような理想を抱きつつも、武傑君が言う��うな、人間の本性があり迫り来る現実もある、しかし、徒に恐怖しても仕方なく、あれこれ思いこみ強迫観念に突き動かされて暴走するのもよろしくはない。いざとなれば、同盟を結び総力戦体制を築いて徹底的に防衛すればいいのである、しかし、人間は進化の理法に基づいて絶えず漸次的に進化してゆくものでもある、そうであるならば、思想書を著すことによって国民を教化し、その土壌を耕していけばよく、政治に関しては現実的に対応していくより他ないであろう、という一点に到達していると言える、結論としては酷く明快なのだけれど、この明快さを持ち続けることは非常に困難である。自分が追いこまれているとして強迫観念が募っていけば、かくなる上は――という考えに囚われるほうがむしろ普通なくらいなのであるから、ここに兆民の凄さがあると思われる。また、彼は良くも悪くも将来を見通しているし、彼が言うところの、軍拡競争の構図などはアメリカとソ連に当てはまるし、武傑君はそのまま過激な軍国主義者となって実際に満州を支配するまで至っている。そうして、戦争自体は総力戦戦争なのである。
ちなみに、個人的に一番印象に残った台詞は、「歴史を振り返れば、必ず思想と事業がある。思想家が国民を啓蒙し、やがて事業として執り行われる。逆に思想が一人先走ったところで到底国民はその考えを受け容れられず混乱するであろう、なので、君が時代の先を見据えているのならば、まずやるべきことは書物を著すなりして思想の土壌を耕すことである」というような雰囲気の台詞である。かなりの意訳であるが、この台詞にこそ兆民の在り方が要約されているように思うし、ここに彼の意義がある。なので、彼のこの書物はそれほど実践的ではなく、言うなれば、解説にもあるが、「思想哲学」である。それもかなり奥深く、理想と現実とを巧みに行き来した思想哲学であり、これは決して彼の自己満足で終わっているわけではない。正直なところ、これは日本国民が誰しもが高校くらいで読むべきなのではないかしら?と思うくらいの根本的な核である、多分誰しもがこういうことを一度は考えているけれど、自説に自信がなかったりして自分の内に閉ざしまま終わるであろう考えた収斂されている。この一冊こそが、近代史、ひいては人間史の本質となりうると言っても過言ではない、まぁ、進歩史観自体は好きではないのだけれど、進歩史観がなければ歴史を順序だてて論じるのはほぼ不可能なので……。とはいえ、南海先生あたりが、「歴史家は必ず歴史を肯定する」みたいな進歩史観が抱える葛藤みたいなのを的確に表現していた気がする……ここで、この肯定性について問は立てられていないけれど、すごく、鋭いと思う。
※現代語訳と原文両方のせられているけれど、原文は無視しました。
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<紹介>
本書は自由主義的進歩思想、絶対平和観を有した洋学紳士君、帝国主義的国権論者の豪傑君、現実主義の南海先生、三人が対話によって世界の潮流、日本の政治を語るものである。洋学紳士君、豪傑君はどちらもラディカリストであり、それを南海先生がたしなめる形になっている。南海先生は決して自らの主張を述べるでもなく、喋る機会自体が少ないが、先生の言葉一つ一つは比喩を用いながら、思想や政治の本質について核心的な事を述べており興味深い。
<感想>
解説にあるように、三者のうちどれが中江兆民の思想に一番近いのかははっきりしないが、私は洋学紳士君に対する思い入れが大きいように思える。洋学紳士君は西欧の歴史の理から自由民主制こそが最上の制度であり「進化の理法」だという。そして富国強兵など弱小国は望めないから、学術的に秀でることで「無形の道義」を体現すべきだという。この洋学紳士君の「進化の理法」に対する批判に本書でもっとも力が入れられているように感じた(p94~)。
先生曰く、人間が先導することが出来ない「進化の神」は、畢竟跡づけに過ぎない。その「神」の進む道は曲がりくねり、前後し決して直線コースを採らなず、人間が予見出来るものではない。さらに、世界中には至る所に多様多愛な「進化の神」がおり、西欧型が唯一ではない。だから直ちに何を採用すべきか分からないけれど、一つ確かなことは「進化の神」が共通して憎むものがあるということである。そしてそれは「その時、その場合においてけっして行ない得ないことを行なうとすること」である。
続けて言う、政治の本質とは国民の意向に添い、国民の知的水準に合う制度を採用し、福祉の利益を達成することであると。事業、歴史は常に「過去の思想を発現」である。「進化の神」としての歴史は「人々の思想が合体して、一つの円をかたちづくるもの」である。であるからこそ、人々の脳髄に思想を植え、それを一度過去のものにしない限り、良い事業は出来ないのだ。
社会契約論を翻訳し、東洋のルソーと呼ばれ藩閥政治には批判的であった中江兆民だが、本書を読んで感じるのは、兆民自身がフランス型の社会契約論に根ざした「民権の回復」(草の根の革命的民主化)を求めているとは到底思えないことだ。それよりも「恩賜の民権」(上からの自由化、民主化)を重視し、君主や宰相が「人民の知的水準」に注意を払いながら、自由の規制を解くことが望ましいと考えている(p98~)。そしてその漸次自由化の間に人民が行なうことは「これ(恩賜の民権)をちゃんと守り、大切にあつかって、道徳という霊気、学問という滋養液で養ってやる」ことである。そうすれば時勢が進み歴史が展開するとき、肥え、背が高くなり「回復の民権」と肩を並べることが出来る、それこそ「進化の理法」であると考えている。
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中江兆民の思想が盛り込まれた傑作。現代語訳されているためとても読みやすく、また日本の経済・政治の論点が見える。この時代も今も根本的な論点は変わらないのだと思うと先人たちは偉大だと感じると同時になんだか少し残念に思えるが仕方ないことなのであろう。それが政治なのかもしれない。
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机上の空論のような理想論を即座に実現できるかのように主張する非現実的な紳士君、世界情勢からの外交的危機感に過剰に反応し、売られる前の喧嘩を買おうとするかのような豪傑君、空想妄想に寄らず、足元を固めて目の前の現実に向き合うしかないという南海先生、
100年経った今でも同じような三人の議論が個人、新聞、TVなどで続けられていると思えるが。戦前は豪傑君、戦後は紳士君に偏った時もあったが、しかし基本は南海先生の主義で日本は今に至っているのかな。
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政治・経済を論じるのは、所詮酔っ払い談義に過ぎないという突き放したような諦観からくる、冷静な分析には舌を巻く。洋学紳士と豪傑君みられるようなタイプの問答は現代でもはっきりと存続している。