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私は無神論者なので宗教のことはよくわかりませんが、信じることがその人の救いになるものだったらいいのでは?と単純に考えています。
私も無神論者と言いながら、困った時の神頼みはしてしまうわけで(。。;)
なにか切羽詰まった時、選択せねばならない時などは、見えない何かの存在を感じ「今私は試されているのかも」って
考えてしまいます。
そして「なんだ、おまえはその程度のものか」と言われないように、あえて楽な道を選ばずに生きてきました。
親鸞とて生きてる間ずっと苦悩してきたくらいですから、難しいんでしょうね。
思うにどんな教えであっても、解釈の仕方でどうとでもなってしまうのではないでしょうか。
だから東国での対立などが起こったのも無理からぬことと思います。
世界の宗教を見ても、元は同じなのにそこから分離していってるものが数多くありますよね。
宗教戦争なんて、摩訶不思議です、私からしたら。
当時で90歳まで生きたのはすごいですよね。
恵信と長年別に暮らし、子供たちとも別れて暮らし、親鸞は淋しくなかったのかしら。
なんだかとても胸が痛かったです。
最期は大往生と言ってもいいんでしょうが、そこに恵信の姿もなく・・南無阿弥陀仏
「青春篇」「激動編」そして「完結編」と読んで、難しいことはわかりませんがとても心躍る6冊でした。
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とうとう往生、五木フィルターを透した親鸞、いやはや非常に面白かったです。親鸞が主役の一応歴史的ベースと親鸞の仏教思想はベースになっていますが、ものすごく面白いハイパーアクション伝奇小説。この”ありーひん”ミラクル的な事が微妙なレベルでおさえられているところが、”ありそう”すぎてグイグイハマります。
完結編は上下とおして親子の情と人との関係の比較、父親としての親鸞とブデストとしての親鸞の描き方が秀逸。全くブレない親鸞だが、家族を含む回りの人々の受け取り方の違いが非常に興味深い。真理の凝縮やねぇ。なんというか、この小説に描かれる親鸞の考え方は非常に自分自身の考えかたと似ている所があって、ちょっとゾワっとしましたが、ま、理解されないことのモヤモヤがたまりませんわ。ラストの50ページは圧巻。
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覚蓮坊と竜夫人の闘い
一般世間の人を代表する長男夫婦と親鸞の心理的距離関係
親子の絆と念仏に対する正しい姿勢の中で苦悩する親鸞
入寂前に、他力を実感し、他力本願を自分自身の中で完成させる。
陰謀とアクション、親子の葛藤、親鸞と若き日の親鸞と関わりのあった人々、そして他力本願、複雑に絡み合い、最後には穏やかになる。
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歳をとると何となく自分ちの宗派が気になって全巻読了。フィクションなので、まあ面白く読めました。友人の住職にも薦められたし。
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「親鸞さまは、わたしをからかっておられるのですか」
唯円は親鸞をみつめた。親鸞は首をふった。
「いや、からかってなどはいない。そなたが、わたしのいうことならなんでもしたがう、と自信たっぷりに答えたからたずねている。もう一度きく。わたしがそうせよ、というたら、そなた、人を千人殺せるか」
唯円は力なく首をふった。
「できませぬ」
「それは、そなたが善人だからか。人を千人殺すほどの悪人ではないからか」
唯円は黙っていた。親鸞は言葉をつづけた。
「人ひとりも殺せぬ、というのは、そなたが善き心の持ち主だからではない。人は自分の思うままにふるまうことはできぬのだ。人はみずからの計らいをこえた大きな力によって左右されることがある。こうしようと願ってそうできるとか、ああはしまいと決めて避けられるとかいうものではない。絶対にこれだけはやめようと誓いつつも、そこへはいりこむこともある。だから、善人、悪人などと人を簡単に分けて考えてはならぬ。そなたとて、人を殺すなど決してしまいと思っていても、本当はわからないのだ。いつ人殺しをするかもしれない。それを業のせいである、という。しかし、業とは、世間でいう宿命ではない。結果には必ず原因がある、ということだ。人は決してわが計らうままに生きられない。その願うとおりにならないことを、業をせおっているというのだよ。そなたも、わたしも、大きな業をせおって生きておる。そのおそれと不安のなかにさしてくる光を、他力、という。救われる、というのは、そういうことではないか。わたしは、そう信じているのだ」
唯円はだまって親鸞の言葉をきいていた。あたりの闇が、いっそう深くなった。(49-50p)
この2人の問答が、実質この長編「親鸞」6冊のクライマックスだったのかもしれない。しかし物語はこのあと、善鸞義絶事件、竜大山遵念寺での竜夫人、親鸞と覚蓮坊との対決、そして親鸞の影法師ともいえる黒面法師との最終対決の怒涛の展開を見せるのである。
中学生の時に吉川英治「親鸞」を読んで続けざまに「歎異抄」「出家とその弟子」を読んだ夜から、40年近くが経った。
なぜ人を殺してはいけないなのか。
どうして普通の人が何千人何百万人も殺す戦争が起こるのか。
私は私の方法で、それの答を探してきたが、答は曖昧模糊としているし、それを防ぐために何かをやってきたかもしれないが、一方では何も出来ていないのかもしれない。特に現代の情勢は、それを見事に証明している。
私は黒面法師が遂に真宗に帰依するラストを想像していた。そう思うのは、やはり私の人生経験の浅はかさだったのかもしれないし、そもそも「他力」がわかっていないからなのかもしれない。
この長編は、主な登場人物すべてが(親鸞をのぞいて)「往生」する描写が無く終わっている。まことに不思議な宗教小説と言わねばならない。しかし、それこそが五木寛之の誠実さの現れのように思えるし、これはそもそも著者のいうように碑史小説であって、まさに仏の教えに近づくための方便としての「唱導」のようなものだったのだと思う。
2016年5月30日読了
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実家は浄土真宗だったけど、だから自分がどうだってこともなく、親鸞にも特別興味を持ったこともなかったけど、こうやって読み終えてみると、なかなかに激動の人生ですね。しかも90歳っていう大往生ぶりも凄い。黒面法師とか、北陸で出会った僧侶とか、はたまた北陸に帰った奥さんとか、諸々どういう結着がつくのかと思っていましたが、それぞれしっかり着地点が定まりましたね。どこか突き放した感じのクライマックスも良かったです。
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息子、善鸞との義絶のところが印象的でした。
解説にもあったようにそれぞれの人がそれぞれの思いを貫いていく。そこには、絶対悪は無い。
自分も読んでいて、そう思いました。
自分が社会で生活していくときも、意見の違いはあれど、そこには、なかなか「絶対に悪」ということは滅多になく、それだからこそ人は悩んで生きていくのかなと思いました。
面白かったです。
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今まで全く考えもしなかった宗教宗派、それが葬式を機に浄土真宗と関わるようになり、住職から初めて浄土真宗についての話を聞き、親鸞と言う人間に凄く興味を持ったことが五木寛之の最初の「親鸞」青春編を読むきっかけになった。
「青春編上下」「激動編上下」「完結編上」を読んで、いよいよ「完結編下」で親鸞の90歳の生涯が終わる。
61歳で京に戻った親鸞が80歳を超えたところから物語は始まる。
長男の善鸞は親鸞に認められたい一心で京から東国へ赴くが、独自の念仏布教をしたことで東国が混乱し、最終的には縁を切られることになる。
一方、物語のサスペンスの方は竜夫人が親鸞の妻、恵信の妹であることが明かされ、娘のことなど激動編の部分まで一挙に記憶が戻される。
そして覚蓮坊との闘いは専修念仏をめぐる闘いであることが明かされ、外道院金剛や黒面法師まで登場して闘いは決着する。
親鸞3部作を読み終わって、親鸞の幼少時代から青春時代、激動時代そして老年期、終末までの浄土真宗の始祖の歴史物語に色々なフィクションと思われるサスペンス物語が加わり、激動と感動の大河物語となっている。
親鸞に関する別の書物をもう少し読みたいと思うが、その前に3部作をもう一度最初から読み直してみたいと思っている。
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親鸞の息子善鸞は東国行きを志願し、旅立ちます。
しかしこれが絶縁のきっかけになってしまいます。
親鸞は京都で目立った行動はせず、ひたすら著作と書状でのやり取りに日々を送ります。
しかし、覚蓮坊、竜夫人、ツブテの弥七、黒面法師らとの対決も迫ります。
専修念仏に生きた親鸞、九十歳で入滅。
ストーリーとしても面白いですが、親鸞がめざした専修念仏の考えもよくわかりました。
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覚蓮坊一味とのアクションシーンを経て思想的な内容に移る。家族関係を見ると親鸞はやはり特異な存在であった。ほぼフィクションだが、遵念寺のモデルが気になる。2018.3.7
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終わったー!今年中に終わったー!! 全6巻の最終巻、『親鸞』読み終わりました。
また会えると思っていたのが永遠の別れだったり、もう会えないと思っていた人に再会したり。大河ドラマみたいな作品でした。
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90年という時を過ごして親鸞は現世から去った。法然上人の教えを一途なまでに信じさらには周りにいるものに尊敬と畏敬を覚えさせる生涯だったと思われる。現代までその名が残っていることはその証しであり、五木文学がそれを小説として我々に伝えてくれたことに感謝である。
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親鸞が逝った。この時代に90歳はすごい。そんな親鸞も親子の関係には苦労していたんだな。難しいよな親と子は。しかし最後まで悩み抜いた親鸞だった。彼の生前は浄土真宗はなかったのか。キリストや仏教もそうか。周りの人たちが形にしていくんだね。法然に親鸞に唯円に如信。如信は立派な人だったみたいだな。最後は恵信にも会えなくて。しかし涼はどうなったんだろう。
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これは史実では無く、稗史小説だと五木寛之は書いている。
民間に語り継がれる噂や風聞を集めて献上したもの。
描かれた親鸞は、浄土真宗の教祖との聖人では無く煩悩の塊のような一般の人で親近感が持てる。実在の人間に近かったのでは無いかと思われる。時代を得て神仏化していったのでは。。妻との疎遠な関係、娘と息子との微妙な関係などどこの家庭にもありがち。晩年になり記憶力、思考力が落ちていく様は寂しいが現実の事と受けとめないといけない。
色々な対決を描くことで、小説としての面白さが増している。
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本書にてシリーズ完結。
無知故にどこまでが史実かはわかりません。
もとより、親鸞に纏わる資料事態も少なく、その生涯には不明なところも多いようです。
始まりとなる青春篇が世に出た時から気になっていた本書を含めた三部作。
私の中の親鸞は本書の中が全てと言っても過言ではありませんが、出会えて良かったと思える作品でした。
内容(「BOOK」データベースより)
偉大な師にして父親の親鸞に認めてもらおうと善鸞は東国行きを志願するが、父子の懸隔はかえって広がる。一方で最後の闘いの時も迫っていた。怪僧・覚蓮坊、謎の女借上・竜夫人、若き日に出会ったツブテの弥七、黒面法師らとの、永く深い因業が解き明かされる。そして、九十歳で入滅―。入魂の三部作、完結。
著者について
五木 寛之
1932年福岡県生まれ。朝鮮半島より引き揚げたのち、早稲田大学露文科に学ぶ。PR誌編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、76年『青春の門』(筑豊篇ほか)で吉川英治文学賞を受賞。81年より一時休筆して京都の龍谷大学に学んだが、のち文壇に復帰。2002年にはそれまでの執筆活動に対して菊池寛賞を、英語版『TARIKI』が2002年度ブック・オブ・ザ・イヤースピリチュアル部門を、04年には仏教伝道文化賞を、09年にはNHK放送文化賞を受賞する。2010年に刊行された本書は第64回毎日出版文化賞を受賞し、ベストセラーとなった。代表作に『戒厳令の夜』、『風の王国』、『風に吹かれて』、『百寺巡礼』(日本版 全十巻)など。小説のほか、音楽、美術、歴史、仏教など多岐にわたる活動が注目されている。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
五木/寛之
1932年福岡県生まれ。戦後朝鮮半島から引き揚げる。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。’66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、’67年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞、’76年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。’81年から龍谷大学の聴講生となり仏教史を学ぶ。ニューヨークで発売された『TARIKI』は2001年度「BOOK OF THE YEAR」(スピリチュアル部門銅賞)に選ばれた。また’02年度第50回菊池寛賞を、’09年にNHK放送文化賞を、’10年には長編小説『親鸞』で第64回毎日出版文化賞特別賞をそれぞれ受賞した(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)