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筆者も最初に述べているように、青臭い本でした。こういう本、好きです。
ゆっくり、丁寧に、正義について考察を語っていく。
正義は制度で実現される。ルールを守る限りにおいて、私的な欲望追求が許される。他人を自分に置き換える、私憤から公憤へ。けっこう印象深い記述が多かったな。
読み進めていくうちに自虐がちょくちょく出てくるので、ほんわかする。著者はいい人。
わかりやすく、考えさせられる内容なので、興味のある人には読んでほしい。
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【「ニンビー」(not in my back yard)】p16
原発、ゴミ処理場、産廃施設、葬儀場、軍事施設などの「迷惑施設」などの必要性をほとんどの人は認めるが、自分の家の近くには来てほしくないと思う。
【正しさの基準】p62
古代ローマの法をまとめあげたウルピアヌス「万人それぞれにふさわしいものを与えようとする確固とした恒久的な意思」と定義している。
【D・ミラーの正義の定式化を簡易化すると】p62-65
①等しいものは等しく扱わなければならない
②差別する場合は理由を示せ
【アメリカの哲学者リーアム・マーフィーとトマス・ネゲル「課税前所得に絶対的所有権はない」】p126
私たちの生活は市場だけでなく、制度によっても実現しており、制度維持のための費用を支払った、課税後所得にのみ所有権があるというのだ。(Cf. 道路や治安)
【国境を越える正義】p179
本当は「さもしい」わけではない人間を「さもしく」させてしまう、この社会の仕組みを変えること、これが正義の最大の課題だ。それは、市場社会で妙な働きをする「運」の作用を緩和し、私たちを翻弄する市場社会を少しづつ人間的なものにしていくことである。
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「さもしさ」をキーワードに、弱者を食い物にしない社会をどう作るかを考えた本。
筆者は弱者が最低限守られる制度を作ることで達成しようと考えている。
社会の不平等を嘆いてばかりいたり、既得権を攻撃してばかりでは社会は何も変わらない。その通り。
論旨は明快。とても読みやすい。
筆者、伊藤さんの自虐ネタがややうるさいかな、という気がしないでもないけれど、読みやすい雰囲気になっていることは確か。
ただ・・・瑣末なことだけど、時々出てくる現代人の肥満(ファストフードなどが原因の)は、高たんぱく食なのではなくて、高脂肪食だからではなかろうか。
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人間の「さもしさ」とはどういうことだろう。
国語の意味としては、欲深く心がいやしい、あさましいことだと。
数年前に起きた中国製毒入りギョウザ事件、この犯人は貧しい農村からの出稼ぎだったようだ。今やGDP世界第二位の中国だが、その貧富の差は日本とは比べものにならないほど激しく、かの出稼ぎ犯人も低賃金で過酷な労働を強いられていて、その腹いせということだったらしい。このギョウザに限らず、こうした中国の底辺の人たちの過酷な労働で作られ安く日本に輸入される食品の数々。さらに安い品物を貪欲に追い求めるがごとき日本人は「さもしい」とは云えないのか。
牛肉1kgを得るのには、飼料としてトウモロコシ10kg分が必要なのだと云う。贅沢になった我々は牛肉を何も思わずに食べているが、もし牛肉を食べるのを止めトウモロコシだけを食べるとしたら、世界で飢餓に苦しんでいる人達に9kgのトウモロコシが回って行く。飢餓の人たちを救えるのにも拘わらず牛肉を平気で食べる我々は「さもしく」はないのか。
我々が普通にしていることが実は、人に迷惑をかけたり不公平であったり底辺の人たちを苦しめる結果になることがあるという事実。我々はこのことをどう考えたらいいのだろうか。いや、それは我々には関係のないことだと一笑に付していいものなのか。
伊藤恭彦「さもしい人間~正義をさがす哲学」を読む。こうしたことを改めて知ると、何か後ろめたい気持ちになる。牛も豚も鶏もダメ、自然のまま採れる魚(養殖はダメ)しか食べるものがない、などと。しかし、これも何かおかしい。
ではどう考えるのか。だからそれは不公平であるのかどうか、弱者にはそれなりの救済が与えられているのかどうかがポイントではないかと。それが正義と云えるのではないかと。正義と公正、考えれば考えるほどに難しい。
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現代人は市場社会に身を置かざるを得ない。そんな中、日々の暮らしでなんとなくもやもやした気持ちを引きずりながら生きている。
社会の不正義、理不尽な出来事に対し、なんとなく「さもしい」気持ちに襲われてしまう。
その「さもしさ」を解消する方法論について哲学を補助線に平明な言葉で著し、著者の主張をさりげなく提案したのがこの本だ。
日々の起こってしまった出来事をなぜそういう風なことになってしまうのか、そのメカニズム、制度について考える癖をつけるための動機書として読めばいいと思います。
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名古屋市立大教授の伊藤恭彦 氏の著書です。
著者の専門は現代政治哲学になります。
内容としては「さもしさ」を切り口に正義、公平、公正を考える内容となっている。
目的としては、行き過ぎた市場主義から、最低限、市場主義の過当競争からはじき出された弱者も救われる「公平な社会システム」を作ることと論じている。
もちろん、目的に異論はないが・・・
肝となる正義、公平、公正について、あまりにも抽象的過ぎると感じた。
この世の中、ほとんどの人は、自分自身が正義、公平、公正に生きていると思っているはずである。
悪意を持って生きている人の方が圧倒的に少ない。
その結果が今の世の中である。
価値観が多様化する現代では、著者の訴える皆が納得する最低限の社会システムなど理想論にしか過ぎないのではないかと考える。
今の日本は十分ではないかもしれないが、世界的に見たら最低限の社会システムはあると思うのだが・・・
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世の中は「さもしさ」に溢れている。
現代社会のひずみ、不条理、不公正を「さもしさ」という言葉に収斂させ、あぶりだし、その解決を提起する政治哲学書。「政治哲学」などと言うとお堅い印象を持ちますが、そこは著者持ち前のユーモアが遺憾なく発揮され、ご本人曰く「低空飛行」な分かりやすい説明でまとめられています。アンパンマンとウルトラマンの差を、こんなに明快に説明できる学者さん、他にいるのかしらん。
身の回りにも、世界もどこかにも、目を覆いたくなるような不幸はいっぱい転がっています。「俺達は不条理の中で生きている」(@武装錬金)なんて言いたくなる所ですが、そう割り切ってしまうのは、思考を停止する事でもあります。自らの「さもしさ」を軽減し、「お互いさま」な社会を作るために何が出来るのか。真剣に考える事は何より自分のためになるはずです。…あれ、この論理もさもしいかな(苦笑)。
結論部分で具体論が明示されず、やや足踏みをしている印象も拭えませんが、本書はハウツー本でもバイブルでもありません。読み手1人1人に思考を迫る、その意味ではまさに学術書でした。
でも先生、結構イケメンだと思うけどジョージ・クルーニーはさすがに無理ではないでしょうか。
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こういう研究をする人は一体何を目標にしているのだろうか? 公正、正義と言っても人類普遍の共通理解を得ることは不可能だし、かなり狭いコミュニティに限っても『ここまでが公正、こっからは不正』なんて線を引くことは絶対に無理だ。正解の存在しない問いを立てて何がしたいのだろう。まあ哲学っちゃぁそういうものか。
そう言うテーマだから本書も単なる作文に過ぎず、ほとんど得るものはなかった。とても学術研究を下敷きに書かれているものとは思えない。繰り返すが、これは著者が凡庸だからではなく、正解がない主題を扱っているからだ。
あえて挙げれば税金は行政サービスの後払いだ、と言う考え方が新鮮だったくらいか。
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【由来】
・「動乱のインテリジェンス」のカバー裏関連本紹介で
【期待したもの】
・前から自分が持っている「マクロで見たとき、それってホントはどうなの?」に関係ありそうだったので。
【要約】
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【ノート】
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「さもしい」という表現やそれを使う態度そのものにもやもやする。議論そのものはおかしいところはない。シンプルにうまいこと紹介している。
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さもしさとは自分の利益を分をわきまえず貪る行為であり自分の持っている卑しい気持ちを恥じた。
公共で使われる税金が貧富の差を無くして誰もが平等に挑戦できる建設的なものなっていくことを願うばかりである。
最低限のインフラを整えてから自由に競争できる世の中が理想であると感じた。